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翼かける猫  作者: くろイけ


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8/10

傷つくもの

春らしい陽気のその日、ムムはいつものように桜の木に登っていた。


すっかり散ってしまった桜の花びらが、地面いっぱいに敷き詰められていた。

まるでピンクのじゅうたんのように。


アルとミミは今日、ママと一緒に川へ行っている。


本当はムムも一緒に行きたかった。

けれど、昨夜から少し風邪気味だったので、ママにまた今度ねと言われたのだ。


くしゅん!


ムムは小さくくしゃみをした。


くしゅん!


もうひとつ。


ちょっと出た鼻水ごと鼻を舐める。

前足で鼻の頭をゴシゴシ掻くと、ムズムズが少しだけ収まった。


本当は、おとなしく寝てなさいと言われていたムム。

ちょっとだけならいいよね、と外に出て木に登ったのだった。


ムムは桜の木の二股から、周囲を観察していた。


すぐ目の前にある遊歩道の奥には渡り階段。

そこから横に延びる堤防の壁の上に、ハクセキレイが止まった。


「鳥さんだ!」


ムムはハクセキレイが良く見えるように、枝の上をすいすいと前進。

枝が大きくしなって、先端が遊歩道の端にくっつく。


枝が細くなってくると、その先はゆっくり慎重に進む。


ママに禁止されていた遊歩道が、もう目と鼻の先だ。


ハクセキレイがピピッと鳴いた。


目がまぁるく開き、頭を低く下げた姿勢になるムム。

細い枝の上でも、ブレないバランス感覚。


ムムはまっすぐハクセキレイを見つめたまま、身動きしない。

耳をぴくぴくさせた後、低い姿勢のままゆっくりと前に進む。


カァ!


少し離れた電柱の上から鳴き声がしたが、ムムの耳には届いていなかった。



✻ ✻ ✻



ムムの右前足が、とうとう遊歩道の端のコンクリートについた。


ハクセキレイが、トントンと軽くステップを踏むように横に移動する。


ムムの視線は、それを追いかける。

そしてゆっくりと一歩、また一歩前へ。


柵の間をすり抜けて、上半身が遊歩道へ出る。

温められたアスファルトを、初めて踏んだムム。


前足を顎の下に揃えると、地面すれすれまで姿勢を低くしてお尻をふりふり。


今だ!


ムムが飛び出したその瞬間、背中に重いものが落ちてきた。


ガァッ!


大きな黒い鳥、大きな声。


一瞬でムムの尻尾がボワッと太くなった。


ガァ! ガァッ!


「痛い! 痛いよ! やめて!」


大きく翼を広げたカラスが、ムムの背中に爪を突き立て、クチバシで突いてくる。

その黒い目には剥き出しの敵意が宿っていた。


「やめて! お願いだから」


カラスは止めるどころか、一層激しくムムの背中を攻撃し始めた。

つつくだけでなく、くちばしで挟むように噛んでくる。


「痛いよ、ママ! 助けてママ!!」


今朝までみぃみぃ鳴いていたムムが、初めて大きくニャーと叫んだ。


「ママ!!」


もう一度、必死にムムが叫んだ時――。


ブシャー!


声がしたと同時にムムは弾き飛ばされた。


ガシャン。


転がって柵にぶつかって止まる。


カラスは、トトに押さえつけられて地面に伏せていた。


「ウチの子になにしてくれてんだテメー! 絶対許さねーからな」


怒りの声で激しく威嚇するトト。


翼に後ろ足を置き、カラスの胴体に全体重をかけたまま、両手でカラスの頭や首へ連打の嵐。


思い切り爪を立てて、容赦のない攻撃を浴びせる。


ギャアッ! グワァッ!


カラスも堪らず助けを求めるように鳴くが、今のトトは誰にも止められない。


バシバシバシバシッ!


ギャアーッ!


カラスの右眼に爪が当たったらしく、絶叫。

命の危機を感じたカラスが全力で抵抗し、無我夢中でデタラメに暴れる。


トトがバランスを崩した瞬間、必死に羽ばたいてどうにか飛び立つことに成功。


ぎこちない羽ばたきのままフラフラと、ほうほうの体で飛び去っていった。


「ムム!」


トトはすぐにムムに駆け寄るが、傷ついた背中を見て青くなる。


「なんてこと……」


すぐに、負傷箇所を優しく舐めてあげる。


「ママ、怖かったよ。痛いよママ」


「ごめん。ウチがもっと早く気付いていれば……」


トトは泣いていた。


一生懸命ムムの背中を舐めながら、泣けて泣けて仕方なかった。


こんなことなら一緒に川に連れてくんだった。

ちょっとくらいの風邪なんかで、置いて行ったウチが悪いんだ。

全部ウチのせいだ――。


ムムの背中は、左の肩のところが大きく裂けていた。

白い脂肪とピンク色の肉が見えるほどの、深い傷。


出血はなかなか止まらなかった。


トトは焦燥感と罪悪感で圧し潰されそうになりながら、いつまでも舐め続けた。


ふと我に返ると、ムムはだいぶ落ち着いてきたようだった。

呼吸はまだ浅くて速いが、トトにぴったり寄り添って目を閉じていた。

時々、思い出したように小さくみぃと鳴いた。


トトは、ムムの小さな額や頬を優しくゆっくり舐めると、それからまた傷口を舐め始めた。



✻ ✻ ✻



日も暮れて、床下のいつもの寝床――。


トトはお腹に抱いたムムの背中を、ゆっくり優しく舐めている。

ようやくムムが眠ったところだった。


アルとミミは、少し離れたところから、じっとムムとトトを見ていた。

二匹ともムムの傷を見て、ショックを受けていたのだ。


「あ、ママ。血が出てるよ」


アルがトトの左目の上の傷に気が付いた。


「大丈夫。こんなのムムの傷に比べたら……」


アルはトトの傍まで来て、目の上の傷を舐め始めた。

トトは目を細めてアルを見つめた後、またムムの背中を舐める。


その様子を暫く眺めていたミミは、トトのお尻に寄り添うように、そっと横になった。



✻ ✻ ✻



チャチャは通風口の外で丸くなって、見張り番をしていた。


そこへやってきたのは、リッティとジャンボ。


「こんばんは、チャチャさん」


「やぁ、リッティ。わざわざ来てくれたのかい」


「うん。だって心配だったから。ムムの様子は?」


「だいぶ落ち着いたよ。ちょっと傷が深いから心配だけど、大事にはならないと思うよ」


「そっか。良かった」


するとジャンボが、おそるおそるといった様子で切り出す。


「あの、ムムを襲ったカラスって……」


「うん、前に一度襲ってきたヤツみたいだって」


ジャンボはここで以前、トトとチャチャがカラスと争ったと聞いた時に、ピンときていた。


きっとあの時のカラスだ、と。


まさかあのカラスが、今度はムムを襲って怪我までさせるなんて……。


自分があの時、仲良くなれてたら、こんなことにはならなかったんじゃないか。

せめて少しでも話を聞いてあげていたら、と悔やまれるのだった。


「なによ、シャキッとしなさい! 別にあんたのせいじゃないんだから」


ここに来る途中、リッティには自分の気持ちを話していたのだった。


「うん」


元気なく答えて、それきり黙ってしまったジャンボ。


「おーい!」


そこへ、コウたちエリン組がやってきた。


三匹が加わると、いつもは広い場所があっという間に狭く感じられた。


「チャチャさん、ムムは?」


エリンが心配そうに訊ねる。


「今は中でトトと一緒にいるよ」


何度同じような質問をされても、穏やかに答えるチャチャ。


「まさかカラスに襲われるなんてねぇ。幾らあの子が小さいったって……」


「姐御! そういうのはまだ……」


コウがまさかの常識的な発言でエリンを制止。


「そうだね。すまなかったよ」


チャチャに頭を下げながら、失言を悔いるエリン。


「なに、まだ小さいうちの怪我なら成長するうちに自然と治るはずだよ」


モックが安心させるように言うと、エリンは小さく頷いてみせた。


「モックは最近調子はどうなんだい?」


久しぶりに会ったチャチャが尋ねる。


「うん、まぁぼちぼちです。暖かくなってきた分、調子はいいですよ」


「そうかい、そりゃ良かった。何事も健康第一だからね」


「まったくですね。チャチャさんも」


一緒に笑い合うチャチャとモック。


こんな時に呑気に笑ってるなんて、という感じの視線を周囲から浴びながら。



✻ ✻ ✻



「なんだか大変だったんだってね」


Y字路の空き地にやってきたのはマールだった。


マールは少し毛並みが長いサバ白の六歳のメス。

東の水門に近い、川裏かわうらのアパートの前の駐車場を縄張りにしていた。

二度の出産経験があったので、トトのお産の時に世話を焼いたのだった。


「おや、マール。ここに来るなんて珍しいね」


グレコが香箱座りのまま、答えた。


「トトのところに行こうと思ったんだけど、なんだか賑やかだったからね」


「柄にもなく遠慮でもしたのかい」


「まぁそんなところよ。あんまりうるさくしちゃ迷惑だしね」


二匹は同い年で、同じ時期にこの翼町に落ち着いて以来の友人だった。


「もしかしてまたエリンたちかい?」


「あんたの娘もいたよ、あの坊やと一緒に」


「おやまぁ。そりゃあさぞ賑やかだったろうね」


耳をピクリとさせながら頭を上げ、トトの桜の木の方角をチラッと見るグレコ。

すぐに元の姿勢になってマールに視線を戻す。


「それにしても物騒なカラスがいたもんだね」


マールが尻尾をパタパタさせながらぼやく。


「今、ミチに行方を探してもらってるよ」


「ああ、それならすぐに何かわかるだろうね」


ミチはトビ三毛の四歳のメス。

独自の猫ネットワークを持つ情報通として、知られていた。

常に忙しく動き回っていて、どこを寝床にしているのかも知られていなかった。


「噂をすれば、だよ」


グレコが顎で指した方角から、ミチが走ってきた。


「グレコさん。あ、マールさんもどうも」


いつも腰が低いのが、ミチの対猫スキル。

二匹に頭を下げながら、グレコの傍までやってきた。


「ちょうど今、あんたの話をしてたとこさ。で、何かわかったかい?」


グレコが言い終わるまでちゃんと待って、ミチが報告し出す。


「はい。あのカラスですが、あ、ゴンっていう、この辺じゃ悪さするんで有名だったらしいんですが。そいつは中川の向こうまで飛んで行ったみたいです。だいぶ痛めつけられた様子でフラフラしてたって。当分戻ってこないんじゃないかって話でした」


一気にしゃべり終えると、少し得意気にヒゲをピンとするミチ。

尻尾も真っ直ぐ立っていた。


「そうかい。ご苦労だったねミチ」


「いえいえ、こんなのは朝飯前です」


「なんだい、腹が減ってるのかい?」


マールは少し天然だった。


「そういう事じゃないですけど、まぁ多少は……」


ミチは食べ物はないかと、キョロキョロ周囲を見回した。

言われてみると、昼から何も食べていなかったことを思い出したのだ。


「それならうちに来なよ。夕方の分がまだ残ってるから」


「いいんですか? ありがとうございます」


尻尾を立てたままゆらゆらさせて、マールより先に歩き出したミチ。


「それじゃグレコ。そういうわけだから」


マールはグレコに声をかけると、ミチを追って歩き出した。

マールのふさふさの尻尾が、ミチの細い尻尾と対照的だった。


「気をつけて帰りなよ」


グレコが後ろから声をかける。

夜の道路脇を歩くのは日中よりは安全だったが、何事も注意するに越したことはない。


穏やかな日常と危険とは、いつも背中合わせなのだ。

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