傷つくもの
春らしい陽気のその日、ムムはいつものように桜の木に登っていた。
すっかり散ってしまった桜の花びらが、地面いっぱいに敷き詰められていた。
まるでピンクのじゅうたんのように。
アルとミミは今日、ママと一緒に川へ行っている。
本当はムムも一緒に行きたかった。
けれど、昨夜から少し風邪気味だったので、ママにまた今度ねと言われたのだ。
くしゅん!
ムムは小さくくしゃみをした。
くしゅん!
もうひとつ。
ちょっと出た鼻水ごと鼻を舐める。
前足で鼻の頭をゴシゴシ掻くと、ムズムズが少しだけ収まった。
本当は、おとなしく寝てなさいと言われていたムム。
ちょっとだけならいいよね、と外に出て木に登ったのだった。
ムムは桜の木の二股から、周囲を観察していた。
すぐ目の前にある遊歩道の奥には渡り階段。
そこから横に延びる堤防の壁の上に、ハクセキレイが止まった。
「鳥さんだ!」
ムムはハクセキレイが良く見えるように、枝の上をすいすいと前進。
枝が大きくしなって、先端が遊歩道の端にくっつく。
枝が細くなってくると、その先はゆっくり慎重に進む。
ママに禁止されていた遊歩道が、もう目と鼻の先だ。
ハクセキレイがピピッと鳴いた。
目がまぁるく開き、頭を低く下げた姿勢になるムム。
細い枝の上でも、ブレないバランス感覚。
ムムはまっすぐハクセキレイを見つめたまま、身動きしない。
耳をぴくぴくさせた後、低い姿勢のままゆっくりと前に進む。
カァ!
少し離れた電柱の上から鳴き声がしたが、ムムの耳には届いていなかった。
✻ ✻ ✻
ムムの右前足が、とうとう遊歩道の端のコンクリートについた。
ハクセキレイが、トントンと軽くステップを踏むように横に移動する。
ムムの視線は、それを追いかける。
そしてゆっくりと一歩、また一歩前へ。
柵の間をすり抜けて、上半身が遊歩道へ出る。
温められたアスファルトを、初めて踏んだムム。
前足を顎の下に揃えると、地面すれすれまで姿勢を低くしてお尻をふりふり。
今だ!
ムムが飛び出したその瞬間、背中に重いものが落ちてきた。
ガァッ!
大きな黒い鳥、大きな声。
一瞬でムムの尻尾がボワッと太くなった。
ガァ! ガァッ!
「痛い! 痛いよ! やめて!」
大きく翼を広げたカラスが、ムムの背中に爪を突き立て、クチバシで突いてくる。
その黒い目には剥き出しの敵意が宿っていた。
「やめて! お願いだから」
カラスは止めるどころか、一層激しくムムの背中を攻撃し始めた。
つつくだけでなく、くちばしで挟むように噛んでくる。
「痛いよ、ママ! 助けてママ!!」
今朝までみぃみぃ鳴いていたムムが、初めて大きくニャーと叫んだ。
「ママ!!」
もう一度、必死にムムが叫んだ時――。
ブシャー!
声がしたと同時にムムは弾き飛ばされた。
ガシャン。
転がって柵にぶつかって止まる。
カラスは、トトに押さえつけられて地面に伏せていた。
「ウチの子になにしてくれてんだテメー! 絶対許さねーからな」
怒りの声で激しく威嚇するトト。
翼に後ろ足を置き、カラスの胴体に全体重をかけたまま、両手でカラスの頭や首へ連打の嵐。
思い切り爪を立てて、容赦のない攻撃を浴びせる。
ギャアッ! グワァッ!
カラスも堪らず助けを求めるように鳴くが、今のトトは誰にも止められない。
バシバシバシバシッ!
ギャアーッ!
カラスの右眼に爪が当たったらしく、絶叫。
命の危機を感じたカラスが全力で抵抗し、無我夢中でデタラメに暴れる。
トトがバランスを崩した瞬間、必死に羽ばたいてどうにか飛び立つことに成功。
ぎこちない羽ばたきのままフラフラと、ほうほうの体で飛び去っていった。
「ムム!」
トトはすぐにムムに駆け寄るが、傷ついた背中を見て青くなる。
「なんてこと……」
すぐに、負傷箇所を優しく舐めてあげる。
「ママ、怖かったよ。痛いよママ」
「ごめん。ウチがもっと早く気付いていれば……」
トトは泣いていた。
一生懸命ムムの背中を舐めながら、泣けて泣けて仕方なかった。
こんなことなら一緒に川に連れてくんだった。
ちょっとくらいの風邪なんかで、置いて行ったウチが悪いんだ。
全部ウチのせいだ――。
ムムの背中は、左の肩のところが大きく裂けていた。
白い脂肪とピンク色の肉が見えるほどの、深い傷。
出血はなかなか止まらなかった。
トトは焦燥感と罪悪感で圧し潰されそうになりながら、いつまでも舐め続けた。
ふと我に返ると、ムムはだいぶ落ち着いてきたようだった。
呼吸はまだ浅くて速いが、トトにぴったり寄り添って目を閉じていた。
時々、思い出したように小さくみぃと鳴いた。
トトは、ムムの小さな額や頬を優しくゆっくり舐めると、それからまた傷口を舐め始めた。
✻ ✻ ✻
日も暮れて、床下のいつもの寝床――。
トトはお腹に抱いたムムの背中を、ゆっくり優しく舐めている。
ようやくムムが眠ったところだった。
アルとミミは、少し離れたところから、じっとムムとトトを見ていた。
二匹ともムムの傷を見て、ショックを受けていたのだ。
「あ、ママ。血が出てるよ」
アルがトトの左目の上の傷に気が付いた。
「大丈夫。こんなのムムの傷に比べたら……」
アルはトトの傍まで来て、目の上の傷を舐め始めた。
トトは目を細めてアルを見つめた後、またムムの背中を舐める。
その様子を暫く眺めていたミミは、トトのお尻に寄り添うように、そっと横になった。
✻ ✻ ✻
チャチャは通風口の外で丸くなって、見張り番をしていた。
そこへやってきたのは、リッティとジャンボ。
「こんばんは、チャチャさん」
「やぁ、リッティ。わざわざ来てくれたのかい」
「うん。だって心配だったから。ムムの様子は?」
「だいぶ落ち着いたよ。ちょっと傷が深いから心配だけど、大事にはならないと思うよ」
「そっか。良かった」
するとジャンボが、おそるおそるといった様子で切り出す。
「あの、ムムを襲ったカラスって……」
「うん、前に一度襲ってきたヤツみたいだって」
ジャンボはここで以前、トトとチャチャがカラスと争ったと聞いた時に、ピンときていた。
きっとあの時のカラスだ、と。
まさかあのカラスが、今度はムムを襲って怪我までさせるなんて……。
自分があの時、仲良くなれてたら、こんなことにはならなかったんじゃないか。
せめて少しでも話を聞いてあげていたら、と悔やまれるのだった。
「なによ、シャキッとしなさい! 別にあんたのせいじゃないんだから」
ここに来る途中、リッティには自分の気持ちを話していたのだった。
「うん」
元気なく答えて、それきり黙ってしまったジャンボ。
「おーい!」
そこへ、コウたちエリン組がやってきた。
三匹が加わると、いつもは広い場所があっという間に狭く感じられた。
「チャチャさん、ムムは?」
エリンが心配そうに訊ねる。
「今は中でトトと一緒にいるよ」
何度同じような質問をされても、穏やかに答えるチャチャ。
「まさかカラスに襲われるなんてねぇ。幾らあの子が小さいったって……」
「姐御! そういうのはまだ……」
コウがまさかの常識的な発言でエリンを制止。
「そうだね。すまなかったよ」
チャチャに頭を下げながら、失言を悔いるエリン。
「なに、まだ小さいうちの怪我なら成長するうちに自然と治るはずだよ」
モックが安心させるように言うと、エリンは小さく頷いてみせた。
「モックは最近調子はどうなんだい?」
久しぶりに会ったチャチャが尋ねる。
「うん、まぁぼちぼちです。暖かくなってきた分、調子はいいですよ」
「そうかい、そりゃ良かった。何事も健康第一だからね」
「まったくですね。チャチャさんも」
一緒に笑い合うチャチャとモック。
こんな時に呑気に笑ってるなんて、という感じの視線を周囲から浴びながら。
✻ ✻ ✻
「なんだか大変だったんだってね」
Y字路の空き地にやってきたのはマールだった。
マールは少し毛並みが長いサバ白の六歳のメス。
東の水門に近い、川裏のアパートの前の駐車場を縄張りにしていた。
二度の出産経験があったので、トトのお産の時に世話を焼いたのだった。
「おや、マール。ここに来るなんて珍しいね」
グレコが香箱座りのまま、答えた。
「トトのところに行こうと思ったんだけど、なんだか賑やかだったからね」
「柄にもなく遠慮でもしたのかい」
「まぁそんなところよ。あんまりうるさくしちゃ迷惑だしね」
二匹は同い年で、同じ時期にこの翼町に落ち着いて以来の友人だった。
「もしかしてまたエリンたちかい?」
「あんたの娘もいたよ、あの坊やと一緒に」
「おやまぁ。そりゃあさぞ賑やかだったろうね」
耳をピクリとさせながら頭を上げ、トトの桜の木の方角をチラッと見るグレコ。
すぐに元の姿勢になってマールに視線を戻す。
「それにしても物騒なカラスがいたもんだね」
マールが尻尾をパタパタさせながらぼやく。
「今、ミチに行方を探してもらってるよ」
「ああ、それならすぐに何かわかるだろうね」
ミチはトビ三毛の四歳のメス。
独自の猫ネットワークを持つ情報通として、知られていた。
常に忙しく動き回っていて、どこを寝床にしているのかも知られていなかった。
「噂をすれば、だよ」
グレコが顎で指した方角から、ミチが走ってきた。
「グレコさん。あ、マールさんもどうも」
いつも腰が低いのが、ミチの対猫スキル。
二匹に頭を下げながら、グレコの傍までやってきた。
「ちょうど今、あんたの話をしてたとこさ。で、何かわかったかい?」
グレコが言い終わるまでちゃんと待って、ミチが報告し出す。
「はい。あのカラスですが、あ、ゴンっていう、この辺じゃ悪さするんで有名だったらしいんですが。そいつは中川の向こうまで飛んで行ったみたいです。だいぶ痛めつけられた様子でフラフラしてたって。当分戻ってこないんじゃないかって話でした」
一気にしゃべり終えると、少し得意気にヒゲをピンとするミチ。
尻尾も真っ直ぐ立っていた。
「そうかい。ご苦労だったねミチ」
「いえいえ、こんなのは朝飯前です」
「なんだい、腹が減ってるのかい?」
マールは少し天然だった。
「そういう事じゃないですけど、まぁ多少は……」
ミチは食べ物はないかと、キョロキョロ周囲を見回した。
言われてみると、昼から何も食べていなかったことを思い出したのだ。
「それならうちに来なよ。夕方の分がまだ残ってるから」
「いいんですか? ありがとうございます」
尻尾を立てたままゆらゆらさせて、マールより先に歩き出したミチ。
「それじゃグレコ。そういうわけだから」
マールはグレコに声をかけると、ミチを追って歩き出した。
マールのふさふさの尻尾が、ミチの細い尻尾と対照的だった。
「気をつけて帰りなよ」
グレコが後ろから声をかける。
夜の道路脇を歩くのは日中よりは安全だったが、何事も注意するに越したことはない。
穏やかな日常と危険とは、いつも背中合わせなのだ。




