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翼かける猫  作者: くろイけ


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6/11

幼きもの

ある朝、世界が変わった。


薄ぼんやりした光と、真っ暗な世界の繰り返しから、突然「見えた」のだ。


ママが、見えた。

お兄ちゃんと、お姉ちゃんも、見えた。


これが猫。

これがわたしの家族。


匂いでわかる。

ああ、なんてステキなんだろう。


触れた感触や、匂いや温度だけの存在だったものが、いきなり立体的な映像になった。

それまでの全ての経験や記憶が、鮮やかな色付きで、目に見える絵や動きに関連付けされていく。


内的世界に閉じ込められていた好奇心が、一気に外に向けて発散される。

なにもかもが新しくて、面白い。


お兄ちゃんの足で蹴られても、お姉ちゃんに踏まれても。


なにより、大きなママ。

お乳をくれて、舐めてくれたママ。


わたしのママ!


そしてこの見える世界では、もうお乳を探してもぞもぞしなくても済むのだ。


あの明るいところの向こうは、どんなふうになっているのだろう。

ママが、いつも出かけていくところは、どこなんだろう。


わたしも、一緒に行きたい。



✻ ✻ ✻



末っ子ムムの目が開いたのは、アルやミミから二日遅れてのことだった。

トトも、これでようやくひと安心。


頭をあちこちに向けて周囲を観察しているムムの体を、トトは舐め続ける。


「おはようムム。ママだよ」


トトの声を聞くと、ムムはじっとトトの顔を見つめる。


「ママ」


思いのほかしっかりとした返事に、トトは目を細めてゆっくり瞬きをする。


「ママ、ママ」

「マーマ、マーマ」


アルとミミが鳴きながらくっついてきた。

多少の差こそあれ、まだみんな小さな子猫なのだ。


六つのキトンブルーの目に見つめられながらトトは、最高に幸せな気持ちになるのだった。


「おっといけない。腹減りチビちゃんたち、おいで」


トトが横になってお腹を見せると、三匹はさっと乳首に吸い付いてすぐにちゅうちゅうやり始めた。


手間がかからなければかからないで、寂しいものだとトトはふと思った。

こうして子供たちは少しずつ成長していくのだろう。


その成長を見届けるのが、ウチの生き甲斐だ。



✻ ✻ ✻



目が開いて、本格的に歩き出すようになると子猫の成長は急加速する。

そして危険も比較にならないほど増える。


とはいえ、四六時中、トトが見張っているというわけにもいかなかった。


チャチャと二人、時にはエリン組にも協力してもらいながら、子猫たちを守る。

とにかく安全第一で、なんとか二月を乗り切った。


三月になり、過ごしやすい日が増えてくると、子猫たちの行動範囲も広がっていく。


そんな中、トトには何よりも優先すべきルールがあった。


それは堤防の上、遊歩道には絶対に子猫たちを行かせないこと。


あそこは人間が通る。

人間が動かす大きな速いものが通る。


この桜の下や床下に比べたら、あまりにも危険が多過ぎるのだった。

ひとつ間違えば簡単に命を落としてしまうだろう。


子猫たちがてけてけと走れるようになってくると、だんだん監視の目も行き届かなくなり、ひやりとするような場面が何度かあった。


例えば桜の木の向かい側には人間の詰め込み小屋(マンション)がある。

隣接する空き地(駐車場)にうっかりアルが入り込んでしまい、そこへ動く箱(自動車)がやって来た時には!


「危ないっ! 動くなアル!」


反射的に猛ダッシュしてアルの首根っこを咥えると、そのまま桜の下まで走り込む。


咥えたアルを地面に下ろしたと思ったら、今度はミミとムムが階段をかなり上まで登っていたのを見て、休む間もなく再びダッシュするトト。


「そっちはダメ!」


階段をショートカットするように土手を駆け上がってミミの前に飛び出すと、そのまま階段を塞ぐように通せんぼ。


「ここは上がっちゃダメって言ってるだろ! 早く下りな!」


間に合った、と内心ホッとしながらも、思い切り叱りつける。


体で二匹を上から押すようにして、階段の下までミミとムムを戻してやる。


「お前たち、今度やったらご飯抜き!」


「えー」

「いやだよー」


みーみー不満を主張するミミとムム。


「ご飯? もうご飯なの?」


そこへ後ろから全然状況を理解しないアルが、物欲しそうな目でやってくる。

「ご飯」という言葉が耳に入ったために思わず反応したのだ。


「ご飯はまだ! さ、みんな向こう行って遊びな。もうすぐコウ兄ちゃんが来るよ」


「え、コウ兄ちゃんが来るの?」

「わーい、やった」

「だれ、だれのこと?」


ムムだけはまだ直接コウに会ったことがなかった。


三匹はトトの言うことを聞いて、てけてけと移動していく。


寝床にしている床下の通風口の前は、草はぼうぼうで荒れていたが、それなりに広くて遊べるちょっとした庭代わりの場所になっていた。


まだ暫くは、そこが子猫たちにとって唯一安全な外の世界なのだ。



✻ ✻ ✻



「おお、ムム助も目が開いたのか。ほぉら、コウ兄ちゃんだぞー。わかるか?」


コウはやってくるなり、ムムの変化に気付いた。

トト同様、コウも気にかけていたのだ。


「コウ?」


ムムにとっては初めて聞く声、初めて嗅ぐニオイ、初めて見る顔だった。


「そうだ、コウ兄ちゃんだ。お前たちのお兄ちゃんだぞ」


ムムにお尻を嗅がれながら、得意気に自己紹介をするコウ。


「ちがうよ」

「コウちゃんはお兄ちゃんじゃないもん」


すぐにアルとミミが横から訂正する。

ムムはまだニオイを嗅いでいる。


「そんな他人行儀なこと言うなって。お兄ちゃんだろ立派な」


「えー」

「ちがうもん」


ようやく嗅ぐのをやめて、楽しそうに言い合いをしている三匹を眺めるムム。

楽しそうで羨ましいけど、ちょっとだけ寂しい。


そこへトトがやってきて、ムムにぴったり寄り添う。


「おい、コウ。これがウチのムムだ、かわいいだろ」


ムムの頬を舐め上げながら、鼻高々のトト。


起きているムムを、ちゃんとコウに見せるのは初めてだった。

(いつもはそっと通風口から覗くだけだった)


「やっぱサビって独特だよなー。なんつーかいろんな風に見えるな」


「まだチビだから、はっきり色が出てないけどね」


「こんにちは、トト」


上から声がしたと思ったら、遊歩道からモックが見下ろしていた。


「え、モックさん? 来てくれたんだ。ありがとう」


最近ほとんど顔を見せなかったモックまで来てくれたことに感激するトト。


「オッサンもこいつらに会いたいっていうからよ。一緒に来たんだ」


「エリンは今日は一緒じゃないのか?」


探すように周囲を見回しながらトトが尋ねる。


「姐御は今日はギンさんとこに行ってるから」


「そっか。町のみんなも元気か?」


「変わりねーな。あっちも大概平和だよ。あ、でも最近他のところから来る猫が多いからってんで、ちょっとした縄張りの整理があったらしい」


「へぇ、そうなんだ。この先に来たジャンボみたいな?」


「そうそう、ジャンボみてーな感じよ。あいつとはもう話したのか?」


「ちょっとだけね。上でたまたま会ったから」


「あいつ、リッティとうまいことやってるみたいだから、仲良くしといた方がいいぜ」


「マジか、そんならバックにグレコさんがついてるも同然じゃん」


うっかり本音が漏れてしまったトト。

割と上下関係、先輩後輩関係はきっちりする猫なのだ。


「そうそう。ホントはもうちょっと遊んでやりてぇとこだけど、できねぇんだよ」


コウとトトがそんな話をしている間、下りてきたモックは子猫たちと遊んでいた。


遊んでいるといっても、伏せているモックの上に、三匹が次々と乗っかっては落ちるというのを、ただ繰り返しているだけなのだが。


そのうちミミがモックの尻尾を標的に定めたらしく、反復横跳びのような動きをしながら、ぶんぶん振り回す尻尾を前足で捕まえようと夢中になっていた。


ムムもモックには全く警戒心を抱かず、いつの間にか首に両手を回して抱き着くと、そこかしこをカプカプ噛み始めた。


アルはモックおじさん登りを独り占めできて御満悦。

飽きもせず最後まで延々と繰り返していた。


トトが話を切り上げて食事に行ってしまうと、コウは子猫の相手をモックとチェンジ。


オニごっこなのかプロレスなのかわからない、ただのじゃれ合い。

見えるようになったばかりのムムの動きは、まだぎこちない。


だが、一生懸命体を動かすのはとても大切なことなのだ。


体力がつく。

筋力がつく。

ストレス発散。

お腹が減る。

よく眠れる。


なんて素晴らしいパートナーなの! コウ。


そしてそれをのんびり見守るモック。

トトが戻ってお乳をあげるまで、子猫たちはコウで遊び倒したのだった。



✻ ✻ ✻



三月の東京は、暖かい日と寒い日が交互にやってくることが多い。

この寒暖差が、結構負担になるのだ。


そんな季節でも、三匹はすくすくと育っていた。

もうすぐ、もっと自由に動き回れるようになるだろう。


いつまでもこのままではいられないのだ。

満足感と充実感と共に、寂しさも感じるトト。


でも今はまだ――今だけは、みんなでくっついていよう。


その夜、トトとチャチャは珍しく一緒に床下に入り、家族で過ごした。


夜通し風が強く吹いていた。

この風がなくなったら、もう春だ。


ふいにすぐ近くから、飛行機のエンジン音が響く。

だんだん遠のく音が、次第に風にかき消されていく。


ここは、静寂にはかなり縁遠い場所なのだ。


風の音は途切れることがない。


外の風音に重なるように、すぐ近くのあちこちでごろごろが響く。

みんなで奏でるハーモニーが、子守唄になる。

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