不動のボス
夜中から雪が降り続いていた。
東京の雪はべちゃべちゃした湿り雪になることが多いのだが、相当寒いのか地面に薄っすらと雪が積もっていた。
積雪1センチメートル。
まだ人間が活動を始める前の早朝だった。
「おかあさん!」
リッティが慌てた様子で駆け込んできた。
真っ白な地面に足跡が残る。
グレコは大きな体をぶるっと震わせて、娘の次の言葉を待つ。
「生まれてたよ。でも一番小さい子が動いてないの!」
リッティはグレコの指示でトトの様子を見てきたのだった。
まさかこんな雪の日に生まれるなんて――。
「エリンたちに知らせるんだよ。あと途中でマールにも教えてやっとくれ」
「わかった。行ってくる!」
くるっと踵を返して更に足跡を追加しながら、路地に消えていくリッティ。
グレコはその後ろ姿を見送ると、相変わらず雪の降り続ける曇り空を見上げた。
どうか無事で。
✻ ✻ ✻
「そうかい、ダメだったのかい。仕方ないさ、そういうことはあるもんだ」
グレコはエリンの報告を聞いてそう呟いた。
少し前に雪は止んでいたが、相変わらずの曇り空だった。
「でもトトは立派だったよ。ちゃんと自分で死んだ子を運んでいったんだ」
その時の様子を思い出したエリンは、涙ぐみながら語る。
「トトは強い子だからね。でも暫くは様子を見てあげるんだよ」
「モチのロンよ。生まれた子たちもね」
エリンはもうすっかり乳母気分にでもなったのか、入れ込み気味に答える。
ここ翼町の猫界隈では、妊娠出産は比較的レアイベントなのだった。
「コウ。あんたもだよ」
エリンは隣のコウにも言い聞かせる。
「がってんだ、姐御」
努めておとなしくしていたコウは、チラリとグレコを見てから返事をする。
「あんたんとこのもう一匹はどうしたんだい?」
グレコがエリンに尋ねる。
「ああ、モックはこういう日はダメなんだ。寒いのが大の苦手らしくって」
「大丈夫なのかい」
「いつものことだからね。そうだろコウ」
「え、あ、いや、たぶん」
コウがかなり動揺した様子で答えたので、エリンは心配になる。
「ちょっとあんた。ちゃんと様子見てきたって言ってたじゃないか」
「行ったは行ったんですが、寝てたみたいだからそのまま黙って帰ってきたんだ」
「ったくあんたってヤツは本当にもう……」
耳を後ろに倒しながらコウを睨むエリン。
自分で確かめなきゃ気が済まないモードに入ってしまったのかもしれない。
「グレコさん、あたしはこれで。また後で来るよ」
「ああ、気をつけなよ」
グレコが見送る中、エリンが裏道へ入っていく。
迷っていた様子のコウもグレコに頭を下げると、遅れて追いかけて行った。
「トトも次には耳に印が入るかもしれないね」
グレコはぼそりと呟いた。
年に一回、又は二年に一回は、耳の儀式があるのだった。
かく言うグレコ自身、リッティを産んだ後にサクラ耳になったのだ。
翼町に来てまだ半年も経っていない準新顔のトトは、当然まだ両耳とも立派なまま。
それが子を産める猫の印でもあった。
足下の雪は溶け始めていてシャリシャリと音が鳴った。
✻ ✻ ✻
グレコは翼町唯一の灰白猫のメス、六歳。
毛色は白基調で、顔と頭、背中から尻尾にかけてグレーの斑点模様。
体重7キロを越える巨漢で、まるっとした体型は迫力があると同時に愛嬌も満点。
グレコは、この翼町で暮らす外猫たちの実質的ボスだ。
自分からボスだと宣言したわけではない。
自然と、そうなっていったのだった。
またグレコは、その風貌と動じない人懐こさで、人間からも広く愛されていた。
グレコはこの町の生まれだった。
生まれた時から体が大きかった。
そのうち人間たちがグレコ・デラックスと呼ぶようになった。
あまりに何度も繰り返し呼ばれるので、音の響きだけは記憶してしまった。
でもグレコ自身、その音の響きが気に入っていたので、いつしか自分でも名乗るようになったのだった。
朝の通勤ラッシュが終わる頃、グレコはいつもの場所に移動して鎮座する。
堤防の遊歩道が車道と交わるY字路付近だ。
Y字路の真ん中のスペースで、香箱座りでじっとしている時もあれば、アザラシのように大の字に伸びている時もあった。
そこは翼町のほぼ東端でもあった。
東端をグレコが、西端を軍曹がしっかり守っているのだった。
昼前になると雪はほとんど溶けて、路肩や一部に少し残っている程度になっていた。
「おかあさん、ただいま」
リッティが戻ってきた。
「ご苦労さん、頑張ったね」
「うん。トトさんたち、もう大丈夫みたい。あとはチャチャさんとマールさんに任せてきたから」
「そうかい。なら安心だね。あんたは少し眠ったらどうだい」
「ううん、まだ大丈夫。それよりジャンボとちょっと遊んできていい?」
リッティはジャンボのことなら全部逐一グレコに報告するようにしていた。
おかげでまだ会ったこともない若いオスの黒猫を、グレコはもう知っている気になっていた。
「ああ、あの子かい。あんまりトトの近くで騒ぐんじゃないよ」
「わかってる。川表の水門の下に行くから」
「あんた、ご飯は?」
「堤防の上にあったの食べたから大丈夫」
リッティは言い終えるなり走って行ってしまった。
同世代の猫がいないと、毎日寂しそうにしていたリッティ。
そんな娘が、毎日楽しそうに出かけるのを眺めるだけで、グレコは満足だった。
✻ ✻ ✻
リッティと入れ替わりに、道路を渡った小さな神社の方から二匹の猫がやってきた。
「こんにちは、グレコさん」
「邪魔するよ」
すっかり馴染みの常連となったキジトラのトラと白黒猫のボンだった。
二匹とも隣町の野良だが、時々こうしてグレコの所にやってきては、なんてことはない世間話をしたり、おすそ分けをいただいたりしているのだった。
「こんな日に来てくれるなんて嬉しいねぇ」
グレコが座ったまま目を細めて尻尾を一度びゅんと振る。
「こんな日だからさ。何か面白い話でもあるんじゃないかと思ってね」
ボンはグレコと同じ六歳の雌で、隣町では実質ボスのような存在の古株だった。
自ら足を運んでの情報収集も厭わない、活動型のボス猫。
「なかなか冴えてるじゃないか。今朝方、うちのトトが出産したんだよ」
「へぇ! そりゃ目出たい話だねぇ。なにかお祝いしなきゃだね」
「いいさ別に。気持ちだけで充分だよ」
「フン。気持ちなんかじゃ腹は膨れないよ。どれ、あたし自ら魚でも獲ってこようか」
遊歩道の方へ行きかけるボン。
「やめとくれ! あんたに何かあったら隣町の連中に恨まれるのはあたしだよ」
グレコは尻尾をぶんぶん振り回しながら制止を試みる。
「そんなのあたしの知ったこっちゃないさ」
「ボンさん、もうその辺にしときなって」
傍で眺めていたトラが半笑いで仲裁に入る。
「なんだい。あんたもグレコの味方かい」
「オレは両方の味方だよ、ボンさん。もういいから、座って」
ボンに並びかけると、体を押し戻そうとするトラ。
「助かるよ、トラ」
グレコがトラに礼を言う。
ボンは渋々グレコの隣に来てパタリと横座りになると、のんびり毛づくろいを始めた。
元々このボンは翼町の猫だったのだが、二年前に隣町に引っ越したのだった。
グレコとは同い年で古い顔馴染み、というか今となっては腐れ縁のような間柄だ。
「そういや、あんたんとこは今、何匹くらいいるんだい?」
毛づくろいの合間に、何気ないフリでボンが訊ねる。
「なんだい藪から棒に。生まれた子を入れて三十そこそこってところだね」
正確に数えたわけではないが、とは敢えて言わないグレコ。
「ふぅん。うちはまだ三十には届いてないけど、これからはそうも行かなくなりそうだね」
少し物憂げにボンが言った後に、トラが続ける。
「実は、なんだか最近見ない顔が何匹もうろうろしてるんだ。もしかすると川向こうの工事のせいかもしれない」
「何匹くらいだい?」
「おれが見たのは四、五匹くらいかなぁ。でも他にもいたって話だ」
あちこちで目撃情報があがっていたのだ。
「川向こう全体を人間が掘り返してるんだよ。おかげで向こうの猫たちは住むところがなくなっちまったのさ」
ボンは、自らの足で稼いだ情報を惜しげもなくグレコに伝える。
「ここから東に少し行けば、すぐ目の前でやってるのが見えるさ」
トラが補足する。
「なるほど、ジャンボもそれで……」
グレコが独り言のように呟く。
「とにかくだ。うちらで面倒見るのにも限度ってもんがあるからね。何匹かはあんたんとこで面倒見とくれよ」
まさかイヤとは言わないだろうね、というドヤ顔でボンが言い放つ。
「なんだい、お前さんそれを言うためにわざわざ今日は来たんだね」
グレコは合点がいったと妙に納得して苦笑する。
「お願いします、グレコさん」
トラが丁寧に頭を下げて頼んできたので、グレコもむげにはできなかった。
「それならもう一匹来てるから、あと二匹三匹増えたって構やしないよ」
グレコの言葉を聞いて、ボンもトラも尻尾がぶるぶるっと一瞬震えた。
無事交渉成立だ。
それから後は、いつも通りお気楽でのんびりした雑談が続いた――。
✻ ✻ ✻
夜になって星が輝きだすと、グレコは堤防に上って、ゆっくりと周囲を見回した。
玉見川の対岸では、ライトアップされた工場が美しく光っていた。
川を行く船の明かりと音。
潮の匂い。
静かにヒゲを撫でる優しい風。
東には飛行機や管制塔の明かりが灯っている。
幾つかの小さな光のまとまりが、空を滑るように移動していく。
いつもの風景、翼町の日常。
でも今日は朝まで雪が降って、トトが子猫を産んだ。
記憶に残る特別な一日だった。
そんな日も時々ある。
すっかり乾いたアスファルトに下りて、小さな神社へ向かう。
社の裏がグレコの寝床なのだ。
「おかあさん」
後ろからリッティの声がした。
寝る前にトトの様子を見に来たのだ。
でも、もう一匹連れていた。
「ジャンボよ、おかあさん」
「あ、どうも初めまして」
緊張した声。
夜よりもっと黒い体が前に出て、ちょこんと頭を下げた。
黄色い目が星のように光っていた。
「ああ、お前さんが……ようこそ翼町へ」
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