水門の主
軍曹の朝は早い。
ポンポンポンという音と共に、釣り船が早朝の営業に出る。
ジョギング組も、だいたい同じ時間から現れる。
東京湾へ向かう釣り船を見送ると、軍曹はまず水門付近をぐるりと一周する。
これは縄張りの主張と同時に、実際に見回りも兼ねていた。
そうして再び定位置で落ち着いていると、優しい人間その三がやってくる。
彼はわざわざ小皿を持参して、中にかりかりご飯を置いていってくれるのだ。
軍曹の朝ごはんは、ほぼ毎日、この少し老いた優しい人間その三がくれる。
軍曹は彼の手に頭をぐりぐりと擦り付けながら、感謝を示す。
食事の後は、腹ごなしにまた少し歩く。
二度目のパトロールは、少しショートカットすることが多かった。
ジョギング組が一段落して、町が活気づく頃に優しい人間その二がくる。
彼女は、いつも気持ちよく撫でてくれるから、軍曹もお腹を見せて甘える。
彼女の手の匂いが好きなので、たくさん舐めてあげることにしていた。
その一が姿を見せなくなった今、彼女が一番の古い顔なじみなのだ。
軍曹がこの水門を拠点にしてここまで人間慣れしたのは、この優しい人間その二が毎日声をかけ、撫でてくれたからだった。
本来の軍曹は、なかなかに気難しいところのある猫だったのだ。
だが、もう当時を知る猫は少ない。
✻ ✻ ✻
昼前に、珍しい来客があった。
水門のずっと先にいるメスの黒猫チビだ。
彼女は、川表の掘っ立て小屋に住んでいる人間が世話をしている半野良軍団の一匹。
大きな図体にも関わらずチビだなんて、とすぐに名前を覚えた猫だ。
そう言えばこの間来たチビの猫は、ジャンボとかいう名前だった。
どうして見た目と正反対の名前をつけるのだろう。
印象に残るという意味では、二匹とも成功していたが。
軍曹がとりとめもなく考えている間に、チビは堤防の壁上をゆっくりとこちらへ歩いて来た。
「こんにちは、軍曹さん」
「どうしたんだいチビ」
「悪いんだけど、少しそれを分けてくれないかい」
チビが鼻先で指したのは、皿に入ったかりかりご飯だった。
「構わないけど、今日に限ってどうしたんだい」
チビは質問には答えず、皿にかぶりつくと、かりかりと勢いよく食べ始めた。
あっという間に平らげると、チビは鼻をぺろりと舐め上げた。
そして前足を舐めて顔を擦る仕草を繰り返しながら、事情を話し始めた。
「行儀が悪くてごめんなさいね。最近、うちにいる子たちが大きくなってきて、あたしのご飯まで食べちまうんだよ。ご主人様も少し気を利かせて多めにくれりゃいいのに、ケチって今までと同じだけしかあげないから、いつでもお腹をすかしているってな塩梅なのさ」
チビは一気にまくし立てると、最後にうーんと背伸びをした。
「ふぅん、あんたに子がいたとは初耳だね」
「あたしの子じゃないよ。うちで一緒に暮らしている子たちってだけで」
「ああ、そういうことかい。あんたも大変だねぇ」
軍曹が労うと、チビは後ろを気にする素振りを見せて、申し訳なさそうに頭を下げた。
「邪魔して悪かったね。それで、あの……言いにくいんだけど……」
「ああ、気にしなさんな。余りもんなんざいつだってくれてやるよ」
「すまないね。ありがとう軍曹さん」
チビは来た時よりもリズミカルに歩いて戻っていった。
お尻の右に爪の引っかき傷があり、血が薄っすら滲んでいた。
「大所帯ってのも考えものだねぇ」
軍曹はひとりごちた。
そろそろ優しい人間その六が来る頃だった。
✻ ✻ ✻
軍曹のいる水門前は、人間の往来数では圧倒的ナンバーワンだった。
平日は橋の工事関係者が通るので人数マシマシ。
土日は散歩や自転車の数が何倍にも増えるので更にマシマシ。
遊歩道は車両通行止めだが、自転車は走り放題。
そう、一番怖いのは自転車だった。
住民も学生さんも、ママチャリで通るのはさほど気にならない。
ただ、フル装備でぶっ飛ばすロードバイクたちはただひたすらに恐怖だった。
あの速さ、あの音、あの風。
猫たちには、人間が乗る狂暴な獣として恐れられていた。
町の中の道路を走っている箱と同じように。
猫と衝突して、大怪我をしたり死んだりしたという噂は数多くある。
そういう噂は都市伝説のように、あっという間に広がる。
時には町を越え、橋を越えて、隣の県まで聞こえるのだった。
幸い、ここ翼町では軍曹はまだそういう話を耳にしたことはない。
情報屋のミチが話しているのは、他の町の話ばかりだったと記憶している。
この水門は少し高い所にあり、遊歩道も前後が坂になっているため、自転車もほとんどが減速して通過するのは安心材料だった。
それでも気をつけるに越したことはない。
大きな犬と同じくらいの警戒心で、軍曹は毎日観察するのだった。
時々、キーーーっという音が鳴ると毛が逆立ち、身が縮む。
どうして人間はあんな危険なものを乗り回すのだろう。
どうして猫や犬だけじゃなく、同じ人間にまで危険に晒すのだろう。
水門の定位置で、日がな人間たちを眺めながら、いつも同じ考えが頭を巡る。
もちろん答えなど知らないし、きっとないのだろう。
それでも軍曹は考える。
観察して考えることが、ただ好きなのだ。
✻ ✻ ✻
堤防の遊歩道には、犬の散歩をする人間も数多く訪れる。
みんな漏れなく、軍曹の目の前を通過していく。
時々、軍曹に向かって吠える犬もいる。
でも軍曹は全く動じない。
大抵は人間が犬をなだめて、ロープで引っ張って行ってしまうからだ。
以前、ハチワレのエリンに尋ねられたことがあった。
「ねぇ軍曹さん、あんたはどうして犬に襲われそうになっても平気なんだい」
「襲ってこないのがわかっているからさ」
「でも、もし襲ってきたらどうするんだい。タダのケガじゃすまないよ」
「人間がいるから大丈夫。ああ、でも犬の首輪はちゃんと観察しとくんだよ。万が一ってこともあるからね」
「観察ってなにをどうするのさ」
「首輪とロープの繋ぎ目のところさ。あとは人間がロープをしっかり握っているか、とかもね」
「犬に襲われそうな時にのんびり観察なんてしてらんないよ」
「なら逃げるしかないね」
軍曹が以前、モックから聞いた話によると、エリンたちは一年ほど前に大きな犬に襲われそうになって以来、犬が苦手なのだそうだ。
大きな犬はよくない。
本気を出せば、人間なんてあっという間に引きずり倒してしまう。
危険な雰囲気の大きな犬が近づいてきた時は、さすがの軍曹でもすぐに場所を移動して安全な距離を保つのだった。
小さい犬もまたよくない。
人間と一緒だと気が大きくなるのか、必要以上に吠えかかってくる。
吠えるだけならまだいいが、時折本当に噛み付いてくる。
人間がなだめてもおかまいなし。
結局、最後には人間が抱き上げて連れていくことになるのだ。
移動するほどの脅威ではないが、甲高い声が五月蝿いのだけは気に入らなかった。
でも、その中間の犬は良い。
落ち着いていて、こちらも気持ちよく挨拶などできる。
言葉は通じなくとも、お互い気持ちは通じるのだ。
そんな軍曹の犬に対する考えは、猫たちにはなかなか理解してもらえなかった。
✻ ✻ ✻
午後には、また優しい人間たちが何人か入れ替わりやってくる。
さっき来て行ったのは、最近よく見かけるようになった優しい人間その八だ。
彼はその三が置いていった小皿を綺麗に拭いてくれる。
そして新しいかりかりご飯を入れてくれるのだ。
その八が話しかけてくれる声は、柔らかくてよく響くまぁるい音だった。
意味はわからなくとも、軍曹はその音を聴くだけで、自然と目を細めてしまう。
その音に満たされながら、あちこち撫でられるのが至福の時間だった。
今のところ、軍曹がそんな風に身を委ねてしまう人間は三人。
他の人間にも基本的には触らせてやるのだが、お腹や尻尾などの敏感なところは別だ。
そこは、その三人だけに許す聖域。
軍曹も、人間も、幸せになれる時間。
野良猫も、人は選ぶのだ。
✻ ✻ ✻
夕暮れで赤く染まる頃、倉庫の方から、あの連中が来た。
エリン、コウ、モックの三匹だ。
「軍曹さん、ごきげんよう」
いつものようにエリンが一番に声をかけてくる。
「ごきげんよう。好きなだけどうぞ」
三匹の目的は、かりかりご飯だった。
大抵余らせてしまっていたので、軍曹は快く許可する。
残すくらいなら、誰かに食べてもらうのがいいに決まっている。
三匹が小皿に頭を突っ込んでいる間、軍曹は夕方のルーティンを始める。
川べりの方へ下りていって、水門の下をチェック。
時々ゴミが落ちていたりすると、それを咥えて水門から離れた草むらまで運ぶのだ。
自分の縄張りにゴミが放置してあるのは気に入らないのだった。
今日は何もなし。
尻尾がピンと立つ。
そのまま水門に戻ると、本日三度目のパトロールへ。
いつの間にか皿は空で、三匹の姿は見えなくなっていた。
軍曹は気にしない。
どうせまた明日もやってくるだろう。
✻ ✻ ✻
すっかり日も暮れて、水門に照明が点いた。
軍曹には、この照明が唯一の不満だった。
夜なのに明るすぎる。
目立つし、眩しい。
夏には虫がたくさん集まってくる。
この照明が点くと、軍曹は一旦他の場所へ避難する。
ガードレールの下を潜り、水門の丘を下りて、川裏の土手の中腹にある段差の所によっこらしょと座る。
晴れている日は、そのままここで眠る。
雨の日は、下の小屋に潜り込むこともあるが、基本は外。
ほんの短い時間だけ深く眠る。
その後は、周囲に気を配りながら浅く眠る。
猫は一日の三分の二を寝て過ごすというが、野良猫はそんなに呑気にしてられない。
警戒心を持ったまま、小刻みに仮眠をとるのが当たり前。
その点、この水門を囲っているフェンスの中は、日陰だし、邪魔は入らないしで、いつでも比較的気楽に眠れる(もちろん浅い眠りだが)場所だった。
そして、軍曹がそこで寝そべっている間は、誰もがそっとしておいてくれた。
✻ ✻ ✻
遠くで船のエンジン音がした。
朝とは少し違う音になるのが不思議だった。
夜中でも釣り船は働いている。
眠らない都会の、眠らない川。
その川と内池を仕切る水門の番をしているのが、推定七歳のメス猫。
彼女の名は軍曹。
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