新参者
玉見川の風は、潮の匂いがした。
目と鼻の先が河口なので、見上げる空までが東京湾の空だった。
少し濁った大きな川は、流れがどちらに向かっているのか、よくわからない。
風の気分で、変わっているように見えた。
河岸にはペットボトルやゴミが浮かび、上流から流れて来た木の枝が、そこかしこで折り重なっていた。
小柄だがしなやかな黒猫が、小町橋を渡っていく。
袂を左に曲がり、狭い小道を進むと、角に突き当たる。
角の先には、長い堤防の遊歩道が、ずうっと続いていた。
遠くに大きな橋がふたつ架かっていて、その上からは富士山が顔をのぞかせていた。
一月の空気は冷たく澄んでいて、遠くの景色までよく見えるのだった。
黒猫の名はジャンボ。
小さな体でも夢はでっかく!
そして、あの空を飛ぶ大きな輝く鳥のように、ジャンボ。
自分でつけた名前だ。
彼は一歳になったばかりのオスだった。
ジャンボはコンクリートの堤防の上に登ると、鼻をひくひくと動かした。
潮、魚、木、コンクリート、土、鉄、アスファルトのニオイ。
それから、猫。
たくさんの猫が、いる。
前まで暮らしていた場所とは、少し違う。
なんだかワクワクするニオイ。
なにがワクワクなのかは、わからない。
野良猫には、理由のないものがたくさんあるのだ。
✻ ✻ ✻
堤防の上をてくてくと、ジャンボは歩いていく。
四六時中車やトラックが往来していた前の場所と比べると、ここはなんだかのんびりとしていて、まるで別世界だった。
川岸には釣り船がたくさん繋がれていた。
川にはカモの群れがいて、魚を獲ったり泳いだりケンカしたり。
そしてその上を、別のカモたちやサギが飛んでいた。
ジャンボのワクワクは大きくなっていった。
ふと、釣り船の上で休んでいるアオサギと目が合った。
ジャンボは一瞬身構えたが、次の瞬間にはもうアオサギは興味を失い、川の中の獲物を探し始めていた。
遠くに見えていた青い水門の、半分くらいまで来た。
「あんただぁれ?」
突然、右手から話しかけられた。
「キミこそだれ」
ジャンボは立ち止まって、相手のサバ白の猫を見つめる。
「あたしはリッティ。この辺を仕切ってるグレコの娘よ」
誇らしげに頭を反らせて答えるリッティ。
開いたヒゲがピンとしている。
「あ、そう。で、ぼくに何の用?」
「なによその態度。あんたこの辺の猫じゃないでしょ。よそ者がえらそうにしないで!」
どうやらリッティのご機嫌を損ねてしまったらしい。
「ちょっと通るだけだから。それじゃ」
ジャンボはつれなく言い捨てると、再び歩き出す。
「ちょっと待ちなさいよ! 話はまだ終わってないわよ」
リッティが後を追いかけてくるが、ジャンボは気にしない。
コンクリートの壁の上を、二匹の猫が足早に歩いていく。
「この辺のことが知りたいなら、なんでもあたしに聞きなさいよ」
怒ってたはずのリッティが、いつの間にかガイドさんになっていた。
ジャンボはなんだか落ち着かない気分で歩き続ける。
そうこうしているうちに水門に到着。
大きな青い壁が川と内池を仕切っていた。
内池には釣り船が並び、船体にこびりついた青い藻が、水面に反射して揺れていた。
初めて水門を見たジャンボはもの珍しさの余り、門の内側に飛び移った。
「そこは危ないから、行っちゃダメよ」
リッティが注意しても、ジャンボの好奇心は止まらない。
足下のニオイを嗅ぐと、やっぱり川と海が混ざっていた。
そして、鉄にこびりついた藻のニオイ……はちょっと強烈だった。
口を半開きにして頭をのけ反らせるジャンボ。
「あははは、ヘンな顔」
ジャンボは鉄の足場からコンクリートの地面に戻って、鼻を前足で何度か掻いた。
少し恥ずかしくなったジャンボは、早足でまた歩き始めた。
「待ってよ」
後ろからリッティの声がしたが、歩みは緩めない。
「どうして置いて行こうとするの。いじわる」
小走りに追いついたリッティが、幅の狭い壁の上でジャンボに並びかける。
体が触れる。
「ちょっと近いよ、離れて」
ジャンボが言うと、面白がってくっついて来ようとするリッティ。
「ねぇあなたいくつ? あたしは一歳」
「……ぼくも一歳だけど」
「ほんと!? よかった。同い年のおともだち、ずっと欲しかったんだ」
ぐいぐい来られて戸惑うジャンボ。
もうほとんどずっとくっついている状態だった。
「ねぇ、おともだちになりましょ。あたしリッティ」
「それはさっき聞いたよ」
ぶっきらぼうに返すジャンボ。
「そうじゃなくて、あんたの名前は? な・ま・え!」
「ジャンボ」
諦めてくれそうにないので、仕方なく答えるジャンボ。
「ジャンボかぁ、いい名前ね。よろしくね、ジャンボ」
「……よろしく」
初めての場所でできた、初めてのともだち。
このワクワクは、少しくすぐったい感じがした。
「でね、この桜の木の周りはトトっていう三毛の縄張りなの。でも今はいないみたいね」
すっかり打ち解けたリッティはガイド役に熱心。
ジャンボにとってもありがたかった。
「その渡り階段の川表の方にはチャチャっていう茶白のおじさんがいるの。いつも静かで優しい猫よ」
ふぅん、と下を覗き込んだら、それらしい茶白猫と目が合った。
少しだけ頭を下げて、首を引っ込める。
「……いた」
ジャンボの言葉を聞いたリッティが、すぐに階段を駆け下りていく。
「チャチャさん、こんにちは。調子はどう?」
「ああ、リッティかい。うん、まぁいつも通りだよ。気にかけてくれてありがとうね」
「ううん。さっきのはジャンボっていうの。あたしのおともだち。よろしくね」
「ああ、覚えておくよ」
様子を伺っていたジャンボのところに戻って来るリッティ。
思ってた以上のコミュ力に、ジャンボは驚いていた。
「みんな知り合いなの?」
「そうよ。だってあたしはグレコの娘なんだから」
そう言えばさっきもそんなこと言ってたなぁと、ジャンボは思い出す。
「ぼくも挨拶した方がいいのかな。その、キミのママに」
おずおずと切り出すと、リッティは満面の笑みを浮かべて言った。
「もちろん! 今度紹介するわね」
今度っていつだろうとジャンボは思ったが、口にはしなかった。
「あ、そろそろあたし戻らないと。あのね、この先にも別な水門があってそこに軍曹って年寄り三毛がいるから、一度挨拶しておくといいわ。それじゃあまたね、ジャンボ!」
早口でまくし立てると、リッティは元来た方向へ駆けて行ってしまった。
いざとり残されると、ちょっとだけ寂しくなったジャンボ。
せっかく教えてもらったし、他にも猫がいるなら会ってみたい。
ジャンボはもうひとつの水門を目指して歩き出した。
✻ ✻ ✻
もうすぐ水門という所で、三匹の猫に止められてしまった。
「おいお前、ちょっと待ちやがれ」
オスのキジトラがジャンボの前を塞いで言った。
少しだけ警戒するジャンボ。
「オレたちゃエリン組だ。ここを通りたきゃ、オレたちの子分になりな」
子分ってなんだろうと思いながら、少しだけワクワクするジャンボ。
「ちょっとコウ、いきなりなに言うんだい。やめな!」
後ろにいたメスのハチワレが前に出てきて、たしなめるように言った。
「でもよぉ姐御、新入りには最初が肝心って言うじゃねぇですか」
「そうだとしたっていきなり子分になれってお前、もしハイそうしますって言われたらどうすんだいこのスットコドッコイ!」
プッ、と思わずジャンボは吹き出してしまった。
「おいコラ、なにがおかしいんじゃワレ!」
コウと呼ばれたキジトラが鼻先までイキって来たが、ジャンボは一歩も引かない。
「よしな!」
再びハチワレにドヤされるコウ。
「でもよぉ姐御」
「でももへちまもないよっ!」
パシッと前足で頭を叩かれるコウ。
ジャンボはへちまってなんだろうと思いながら二匹のやりとりを楽しんでいた。
「悪かったね、あんた。子分の話は忘れとくれ」
ハチワレがジャンボに向かって言うと、もう一匹いた白猫がぬっと近づいてきた。
「コウは悪い猫じゃないんだ。どうか許してやっておくれ」
「あ、はい」
穏やかな優しい声に思わず返事をしてしまうと、また奥でコウが暴れ出した。
「おいモックてめー。なにえらそうにしてんだよコラ! アッ……」
再びハチワレに額を叩かれて涙目になるコウ。
「あたしはエリン。そっちはモックだ。いつもこの辺にいるから何か困ったことがあったらなんでも相談しな」
「あ、はい。ぼくはジャンボです」
「それじゃあね、ジャンボ。人間には気をつけなよ」
それだけ言い残すと三匹はすっと裏の方へ消えていった。
なんだか面白い猫たちだったなぁ、と思いながら見送るジャンボ。
ふと、エリンの最後の言葉を思い出す。
人間には気をつけろ、か。
やっぱりどこも同じなんだな――。
✻ ✻ ✻
「わぁ」
最初の水門より大きな水門が目の前にあった。
見上げた視線を水門の横にある階段の下に移動させると、そこには少し歳のいったメスの三毛猫が香箱座りでじっとこちらを見ていた。
「軍曹さん?」
おそるおそるジャンボが声をかけると、三毛猫の耳がピクリと動いた。
少しだけ目を細めたようにも見えた。
「リッティから聞いてご挨拶にきました」
それを聞いた三毛猫は、よっこらしょと起き上がると、ゆっくりとジャンボの前まで歩いて来た。
「あたしが軍曹だよ。あんたは見ない顔だね」
「ジャンボです。今日ここへ来たばかりです」
「そうかい。寝床でも探しているのかい」
「あ、まだどうするかは決めてなくて……」
「そんなら好きにしな。ここは自由な場所さ。どこでも好きなとこで寝たらいいよ」
「どうもありがとう」
なんだかわからないうちに許可をもらってしまったジャンボ。
軍曹はいつの間にか元の場所で元の姿勢に戻っていた。
もう話は終わったよ、ということなのだろう。
ジャンボもこれ以上特に話すこともなかったので、すぐ横にあった坂道を下って川岸へ行ってみることにした。
川の中に魚影を見つけたジャンボは、一歩二歩と川に足を踏み入れて、魚を獲ろうとしたが失敗。
川の水はとても冷たかったけれど、諦めずに魚影を探す。
その後も何度かチャレンジしたけれど、全然うまくいかなかった。
ふと視線を感じて上を見上げると、軍曹がさっきの位置からこちらをじっと見ていた。
少し恥ずかしくなったジャンボは場所を移動して、軍曹から見えないところで再び魚獲りにチャレンジ。
一番近いB滑走路から飛行機が何機も飛び立って行ったが、夢中になっているジャンボはまったく気にしない。
結局収穫はゼロだった。
✻ ✻ ✻
どうしようかと考えて、ジャンボは最初の水門の方へ戻ることにした。
途中の渡り階段の下に、もうチャチャの姿はなかった。
桜の木の下には――いた!
あれがトト……だったかな。
確かに三毛猫だ。
軍曹さんよりだいぶ若くて、毛艶が良くて、お腹が少し大きい。
もしかしたら、赤ちゃんがお腹にいるのかもしれない。
確かそういう時には近づくな、だったよな。
ママに言い聞かせられた言葉を思い出したジャンボは、静かにその場を離れた。
✻ ✻ ✻
陽が落ちて暗くなってきた。
あちこちに明かりが灯り、昼とはまた違う景色が現れる。
ジャンボは、水門の手前の川裏にある民家の床下に潜り込んだ。
少しじめじめしているけれど、雨風は当たらないしちょっとだけ温かい。
一晩の寝床としては、まぁまぁ悪くない。
ジャンボは目を閉じる前に、今日のことを思い返していた。
アオサギのこと、リッティのこと、賑やかな三匹のこと。
軍曹さんとトトの、二匹の三毛猫のこと。
やっぱりこの辺には、たくさんの猫がいるようだ。
ジャンボは尾を鼻先に巻き、目を閉じた。
熟睡はしない。
うとうとしながら体を休めるだけだ。
一月の底冷えする寒さが、その黒い毛並みを撫でるように、体にまとわりついた。
とても静かだった。
ジャンボが昨日までいたところとは、まるで違う。
あそこは小さな橋の下で、車が通る度に大きな音がして、うるさかった。
あの日は、たまたまちょっと遠くまで散歩に行ったのだ。
それで帰りが少し遅くなった。
戻ると、橋の周りや川の土手一帯が固いもので覆われていて、ママや兄弟たちの姿はどこにもなく、橋の真下のみんなで寝床にしていた古い毛布が残っているだけだった。
ジャンボは三日間、橋の下の毛布で待った。
ママか兄弟の誰でもいい、戻ってきてくれるのを信じて。
でも、誰も戻って来なかった。
知らない猫の一匹すら、通ることはなかった。
ジャンボは新しい居場所を探すことにした。
――そして今、ここにいる。
明日どうするかは、まだ決めていない。
何事もそうだった。
予定は決めない。
その日の朝の匂いで、どうするか決める。
それがジャンボの――野良猫の流儀だ。
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