第7話 白牙リアルエステートの魔の手
ミヤザキ・油津、潮の匂いに混じって、どうにもこうにも“嫌な風”が吹きはじめたようでございます。
さて皆さん。
人の暮らしってやつは、だいたい静かに壊れていくもんでしてね。
ドンと来りゃまだ分かる。ところがコイツは音もなく忍び寄る。
気づいたときにゃ、もう後戻りできない。
ま、そんな話でございます。
焼肉屋「たん吉」での一件から、数日後。
相変わらず油津の町は、のんびりした顔をしている――ように見える。
だがその実、どこか“よそよそしい”。
理髪店「理髪 なつこ」。
カラン……♪
「おう、世話になるぞ」
アルおじさんが、いつもの調子で椅子に腰掛ける。
「いらっしゃいませ……」
なつこが応じる。
――が。
どうにも元気がない。
ハサミの音も、いつもより鈍い。
チョキ……チョキ……
「……どうした」
「え?」
「君らしくもない。手元が迷っておる」
なつこは一瞬だけ止まり、すぐに笑顔を作る。
「いえ……なにも。最近、ちょっと疲れてるだけです」
「ふむ」
「お客さんも増えてきましたしね。嬉しい悲鳴、ってやつです」
「……そうか」
だがその笑顔、どこか曇りがある。
アルはそれ以上、踏み込まない。
踏み込めば、壊れるものもあると知っているからだ。
いやはや、この“見て見ぬふり”ってやつ。
優しさか臆病か、紙一重でございますな。
長く生きた男ほど、余計な一歩を引っ込めちまう。
それがまた、恋をややこしくするんでさぁ。
店を出る。
夕暮れの商店街。
……妙だ。
シャッターが、やけに多い。
ガラガラと閉まったままの店。
乾物屋、駄菓子屋、古本屋。
どこもかしこも、灯りが暗い。
「……おう、アルさん」
声をかけてきたのは、呉服屋の主人。
「どうした、その顔」
「いやな……ちょっとな」
主人は周りを気にしながら、声を潜める。
「あの“白牙リアルエステート”って連中がよ……ウチの店、買いに来てんだ」
「ほう」
「“今なら高く買いますよ”なんてな。笑顔で言うんだが……目が笑ってねぇ」
「……」
「断ったらどうなるか、考えるとよ……なあ」
その声は、震えていた。
少し歩けば、別の店。
「ウチもよ……」
「うちもです……」
同じ話が、あちこちから聞こえてくる。
白いスーツの男たちが、町をうろついている。
その背後に、ちらつく影。
地方ヤクザの天道組。
アルは小さく鼻を鳴らす。
「ふん……典型的な癒着構造だな」
「え?」
「暴力と札束。両輪で回す商売よ。魔界にも似たようなのがおった」
「ま、魔界……?」
「血沼商会。ろくでもない連中だった」
軽く言うが、目は笑っていない。
札束と暴力。
古今東西、やることは同じでございます。
違うのは看板だけ。中身はいつもドロドロ。
困るのは、巻き込まれるのが善人ばっかりってことですな。
その夜。
理髪店。
カラン……♪
「戻ったぞ」
「おかえりなさい」
静かな店内。
昼間とは違う、しんとした空気。
アルは、なつこの背中に向かって言う。
「白牙リアルエステート、という名を聞いた」
なつこの手が、止まる。
ほんの一瞬。
「……ええ」
「来ておるのか、この店にも」
沈黙。
やがて、小さく。
「……契約書にサインすれば、数千万円の“立ち退き金”が入るそうです」
「ほう」
「この店……古いですし。価値なんて、ないと思ってましたけど」
「金の問題ではなかろう」
「……」
なつこは、俯く。
「そんな札束で、君は納得するのか」
「……わかりません」
その声は、細い。
「守りたい気持ちもある。でも……」
言葉が続かない。
アルは、それ以上は問わない。
ただ、静かに煙草を取り出し――
また、火はつけない。
数日後。
「よー、アルおじちゃん!」
元気な声が、町に響く。
「カズヤか」
「なんかヤバそうな匂いしたからさ、来ちゃった」
孫のカズヤ、登場。
場違いなくらいの若さと勢い。
「若いのう。鼻が利く」
「ネットとコネなめんなよ」
軽口を叩きながら、カズヤは資料を広げる。
「これ見て。白牙、かなりエグいよ」
「ふむ」
「土地の売買記録、無理やり進めてる。しかも――」
一枚の紙を指差す。
「なつこさんの店、もう“仮契約”に入ってる」
「……なに?」
空気が変わる。
「でも本人のサイン、怪しい。印鑑も偽造の可能性ある」
「……なるほどな」
アルの目が、わずかに鋭くなる。
「白牙の“牙”が、町の命を食い始めておる」
「完全にアウト案件だよ、これ」
カズヤは拳を握る。
「なつこさん、巻き込まれてる」
若いってのはいいもんでしてね。怒るべきところでちゃんと怒る。
年寄りはどうしても、飲み込んじまう。
それが良いか悪いかは……まあ、難しいところで。
その夜。
海辺。
月明かりが、静かに波を照らす。
そこに、一人。
なつこがいた。
肩を震わせ、泣いている。
「……ごめんなさい」
アルは、少し離れた場所で立ち止まる。
「アルさん……ごめんなさい……」
その声は、風に溶けるほど小さい。
「私……」
続かない言葉。
ただ、涙だけが落ちる。
アルは、すぐには近づかない。
ただ、じっと見ている。
踏み込めば、戻れなくなると知っているから。
カラン……♪
どこからか、鈴の音が聞こえた気がした。
それが風のせいか、運命のせいか――
この時、まだ誰にもわからない。
つづく




