第8話 裏切りの刃
ミヤザキ・油津。潮の匂いに、ほんの少しだけ秋が混じりはじめた頃でございます。
さて皆さん。
人ってのは不思議なもんでしてな。
笑ってる顔の裏に、だいたい一つや二つ、泣きたい夜を隠してる。
で、その“泣きたい理由”ってやつは、大抵あとからやってくる。
今日は、そんな少し遅れてきた本音のお話でございます。
理髪店「理髪 なつこ」。
昼下がり。
表は静か、店内も静か。
カラン……♪
「よぉ、邪魔するぞ」
アルおじさん、アイゼンハワードが、ふらりと入ってくる。
「いらっしゃいませ」
なつこは、いつもの笑顔。
……のはずが、どこかよそよそしい。
「少し……伸びてるわね、アルさん。今日はヒゲを剃りましょうか」
「うむ、任せる」
椅子に腰を下ろすアル。
白い布がかけられる。
クリームが頬に乗る。
指先が触れる。
――近い。
心臓の音が、聞こえそうな距離。
「……静かじゃな」
「ええ。最近は、みんな家にいることが多くて」
「そうか」
それ以上は言わない。
なつこも、言わない。
ただ、カミソリを手に取る。
スッ――
刃が滑る。
丁寧に、慎重に。
そのはずだった。
この“はずだった”ってのが曲者でしてな。
人生ってやつは、だいたいここから転がるんでございます。
次の瞬間。
ピタリ。
銀の刃が、アルの喉元で止まった。
空気が、凍る。
「なつこ……?」
アルは動かない。
ただ、静かに問いかける。
なつこの手は震えている。
カミソリも、かすかに揺れる。
「……私」
声が、かすれる。
「私……町を守るために、“悪魔と契約”したのよ」
沈黙。
外の風の音だけが、やけに大きい。
「……ほう」
アルは、わずかに目を細める。
「続けろ」
なつこの瞳から、ぽろりと涙が落ちる。
「この店もね……天道組に脅されたの」
「……」
「断れば、家族を人質にするって。借金も無理やり背負わされて……」
声が、崩れる。
「私……どうしたらいいかわからなかったの……!」
カミソリを握る手に、力が入る。
刃が、わずかに食い込む。
「なつこ」
アルの声は低い。
だが、決して強くない。
「そのままじゃ、血が出るぞ」
「……出せばいいじゃない!」
ついに、堰を切った。
「私のこと、もう信じられないでしょう!?
だったら……ここで終わりにしてよ!!」
涙が、ぽたぽたと落ちる。
「私、裏切ってたのよ……!
あんたのことも……この町のことも……!」
震える声。
「報告してたの……全部……!」
静寂。
ああ、出ましたよ。
本音ってやつは、いつだってこうして遅れてやってくる。
しかも一番まずいタイミングで、でございます。
アルは、ゆっくりと言った。
「やめなさい、なつこ」
その一言。
重い。
「俺の首を掻っ切って償うつもりか?」
「……」
「そんなもので、お前の罪は消えん」
なつこの手が、さらに震える。
「じゃあ……どうすればいいのよ……!」
叫び。
「私……助けてって……言えなかった……!」
ぽろぽろと涙が落ちる。
「怖かったの……!
誰かに頼るのが……怖かったのよ……!」
「……」
「強がって……笑って……
全部一人で抱え込んで……!」
嗚咽。
「もう……どうしたらいいのかわからないのよ……!」
アルは、目を閉じた。
そして、静かに言う。
「人はな」
なつこの手が止まる。
「助けてほしい時ほど、黙る」
その言葉は、優しかった。
責めるでもなく、諭すでもなく。
ただ、知っている者の声だった。
「……」
なつこは、声も出せずに泣く。
カミソリが、カタリと震える。
その時――
カラン……♪
天井の鈴が、揺れた。
小さく、切なく。
ふたりの間に落ちる音。
なつこは、ふっと笑った。
涙のまま。
「……この鈴……」
「うむ」
「最初に鳴らした人と結ばれる……なんて」
「馬鹿な話だな」
「ほんと……馬鹿みたい」
だが、その声はどこか救われていた。
アルは、ゆっくりと立ち上がる。
カミソリは、もう喉から離れている。
「俺は嫌いじゃない」
「……え?」
「人を信じたい、という願いがこもっておる」
なつこは、目を伏せる。
「私……赦されたいだけなのかもしれない」
「……」
「でも……本当に守りたかったのは、この町なの」
涙を拭いながら、顔を上げる。
「それが嘘じゃなかったって……証明したい」
アルは、鏡越しになつこを見る。
「ならば誓え」
「……え?」
「その鈴に誓え。お前の心が嘘ではないとな」
なつこは、震える手で胸を押さえ――
こくり、と頷いた。
「……はい」
いやはや。
恋だのなんだの言う前に、人はまず自分と向き合わなきゃならん。
それが一番、しんどい仕事でございます。
理髪店の夜。
鈴が、もう一度だけ鳴る。
カラン……♪
それは、約束の音か。
それとも、別れの前触れか。
まだ誰にも、わからない。
つづく




