第3話 理髪店の夜
さて、昼間はあれだけ賑やかだった町も、
夜になると、嘘みたいに静かになる。
人間ってのは面白いもんでね。
明るいうちは強気で、暗くなるとちょっとだけ弱くなる。
ミヤザキ・油津の夜。
理髪店「なつこ」には、柔らかな灯りがぽつりと灯っていた。
チク、タク……チク、タク……
古時計の音だけが、やけに響く。
その椅子に――
アルおじさんが、座っていた。
白い布を首元に巻かれ、どこか観念したような顔である。
「……本当にやるのか」
「やりますよ」
「わしは別に、このままでも問題はないと思うが」
「問題大ありです」
「魔界ではこれが普通だ」
「ここは地上です」
「郷に入っては郷に従え、か」
「いい言葉ご存じですね」
「長く生きておるからな」
なつこは、くすっと笑いながら泡を立てる。
白いクリーム。
ふわりとした、やさしい匂い。
「少し、冷たいですよ」
「うむ」
頬に、そっと触れる。
その瞬間。
「……」
「……」
ほんの一瞬、空気が止まる。
「……どうかしましたか?」
「いや……」
アルは、わずかに目を細める。
「手が温かいな」
「そうですか?」
「うむ。……不思議なものだ」
「冷たい方がよかったですか?」
「いや、逆だ」
「なら、よかった」
そのまま、刃が当たる。
スッ――
音が、やけに近い。
「動かないでくださいね」
「命を預けておるのだ、動くわけがない」
「大げさですね」
「大げさではない」
スッ……スッ……
刃が滑るたびに、距離が近づく。
吐息が、かすかに触れる。
「……」
「……」
心臓の音が、聞こえそうなほど。
なつこが、ぽつりと言う。
「人の顔って」
「うむ?」
「近くで見ると、嘘つけないんですよ」
「……ほう」
「ちょっとした癖とか、目の動きとか」
「見抜くのか」
「ええ。仕事柄、どうしても」
アルは、少しだけ笑う。
「では、わしの顔はどうだ」
「そうですね……」
なつこは、刃を止めずに言う。
「強がりです」
「ほう」
「あと、優しい」
「それは初めて言われたな」
「でも」
ほんの少し、間が空く。
「どこか、寂しそう」
刃が止まる。
静寂。
「……見えるか」
「見えます」
「困ったものだな」
「そうでもないですよ」
「なぜだ」
「寂しい人の方が、ちゃんと人を見てるから」
アルは、何も言わない。
ただ、鏡越しに彼女を見る。
「……なつこ殿」
「はい」
「おぬしは、どうだ」
一瞬だけ。
彼女の手が、止まる。
「私ですか?」
「うむ」
「……私は」
軽く笑う。
でも、その笑いは、ほんの少しだけ薄い。
「普通ですよ」
「嘘だな」
「え?」
「今の顔は、嘘をついておる」
「……」
沈黙。
遠くで、波の音がする。
「……昔ね」
なつこが、ぽつりと話し出す。
「この町、出ようとしたことがあるんです」
「ほう」
「でも、やめました」
「なぜだ」
「……さあ」
少し笑う。
「怖かったのかもしれませんね」
「何がだ」
「全部です」
スッ……
また、刃が動き出す。
「外に出ることも」
「残ることも」
「誰かを信じることも」
「……」
「だから、ここにいます」
「なるほどな」
「つまらない話でしょ?」
「いや」
アルは、静かに言う。
「悪くない」
「そうですか?」
「うむ。……実に人間らしい」
なつこは、小さく笑った。
「褒めてるんですか、それ」
「最大級にな」
最後の一撫で。
スッ――
「……はい、終わりです」
布を外す。
鏡の中に映る顔。
「……ふむ」
「どうです?」
「別人だな」
「そこまで変えてません!」
「だが、軽い」
「それはよかった」
「……ありがとう」
その一言が、少しだけ低い。
なつこは、ほんの一瞬だけ目を見開く。
「……どういたしまして」
ふたりの間に、静かな空気が落ちる。
カラン♪
天井の鈴が、小さく鳴った。
さて、人と人の距離ってのはね、
こういう“触れる瞬間”で一気に変わる。
手が触れる。
息がかかる。
目が合う。
それだけで、十分なんだ。
言葉なんてのは、あとからついてくるもんでね。
この夜、ふたりの距離は
ほんの少しだけ、確かに、縮まっていた。
つづく




