第1話 雨と鈴と理髪店
蝉が鳴いている。
いや、鳴いてはいるが、どこか遠慮がちだ。
なにしろ空はどんより曇り空、南国ミヤザキ・油津の夕刻である。
夏だってのに、雨だ。
しかも、ただの雨じゃない。
じっとりと、地面に染み込むような、
昔の記憶まで引っ張り出してきそうな雨だ。
そんな中を、ひとりの男が歩いていた。
黒い外套。年季の入った革靴。
そしてどこか、時代からズレた風格。
名を
アイゼンハワード・ヴァル・デ・シュトラウス。
ま、長いから、ここではこう呼ぼう。
アルおじさん。
かつて魔界の四位貴族。
いまはただの、旅するおっさんである。
「……むぅ」
雨脚が強くなる。
ぽつ、ぽつ、ぽつ……
やがて、ざあああああ……と一気に来る。
「これはいかんな……魔界の雷雨に比べれば可愛いものじゃが、濡れるのは好きではない」
誰に言うでもなく、ぶつぶつと文句を言いながら、
アルは軒先を探す。
すると、目に入った。
古い木造の店。
ガラス戸には少し曇りがあり、どこか懐かしい匂いがする。
【理髪 なつこ】
「ほう……」
アルは一歩、近づく。
その扉の上に、小さな銀の鈴が吊るされていた。
「……趣のあるものを」
手をかける。
ガラリ――
カラン♪
鈴が鳴った。
その音は、小さいくせに妙に澄んでいて、
まるで“どこか別の場所”まで届くような響きだった。
「いらっしゃいませ……あら、まあ」
店の奥から現れたのは、一人の婦人。
短く整えられた髪。白いシャツ。
年頃は四十代後半。
落ち着いた微笑み。
だが、その奥にほんの少しだけ影がある。
「ずいぶん濡れていらっしゃいますね」
「うむ、空がわしを歓迎しておるらしい」
「それはまた……ずいぶん激しい歓迎ですね」
「歓迎というより、嫌がらせに近いな」
「ふふっ」
なつこは小さく笑った。
「どうぞこちらへ。タオル、お使いください」
「助かる。いやはや、地上の布は吸水性がよい」
「そこ褒めるところなんですか?」
「重要じゃ。魔界の布はな、血は吸うが水は弾く」
「ちょっと怖いですね、その素材」
軽口を交わしながら、アルは椅子に腰かける。
ギシ、と音が鳴る。
「……おや」
「どうかしましたか?」
「この椅子、なかなか味がある。三十年は使っておるな」
「ええ、父の代からです」
「なるほど。座り心地に“歴史”がある」
「そんな言い方されたの初めてです」
なつこは、くすっと笑いながら櫛を取る。
「……随分と髪が伸びておられますね」
「齢を重ねると、時の流れに疎くなるものでな」
「それにしても伸びすぎです。放置にもほどがあります」
「失礼な。わしなりの流儀だ」
「流儀でここまでボサボサにはなりません」
「むぅ……手厳しいな」
「お任せください。見違えるようにして差し上げます」
「それは楽しみだ。だが別人にするのはやめてくれ」
「責任取れませんからね、それは」
鏡越しに、ふたりの目が合う。
ほんの一瞬、空気がやわらぐ。
「旅のお方で?」
「うむ。任務の一環でな」
「任務?」
「諸国を巡り、見聞を広め、また……失われたものを拾い集めておる」
「まあ……ロマンがありますね」
「ロマンと言うと聞こえはいいが、実際は骨の折れる仕事だ」
「でも、素敵です」
「そうか?」
「ええ。ここから出たことのない私には、ちょっと羨ましいです」
その一言。
ほんの少しだけ、声が静かになった。
「……この店だけが、私の居場所でして」
「ふむ」
アルはそれ以上、踏み込まない。
「客人がこうして座ってくださるだけで、嬉しくなるのです」
「ならば、しばらく座っておこうか」
「長居は歓迎です」
「では三日ほど」
「それは宿屋にどうぞ」
ふたりは同時に笑った。
やがて、雨はさらに強くなる。
外はもう、白く煙って見えない。
「雨はまだ止みそうにないですね」
「うむ。これは長引く」
「よろしければ……」
なつこは少しだけ間を置く。
「今宵は二階の部屋をお使いになってはいかがでしょう?」
「……なに?」
「空いておりますし、旅の方に静かな眠りを提供するのも、理髪師の務めですから」
「理髪師の仕事の範囲が広いな」
「サービス業ですから」
「……ふむ」
アルは少し考えて、
「では、お言葉に甘えるとしよう」
「ありがとうございます」
「礼を言う、なつこ殿」
「どういたしまして、アルさん」
その時だった。
なつこが、ふと天井を見上げる。
「……そういえば、ひとつだけ」
「なんじゃ?」
彼女は、あの鈴を指さした。
「あの魔法の鈴は、“最初に鳴らした方と結ばれる”という言い伝えがあるのです」
「……なに?」
「まあ、ただの迷信ですけれど」
「いや待て、それはなかなか重い話ではないか」
「そうですか?」
「初対面の客に言う内容ではないぞ」
「でも、鳴らしましたよね?」
「鳴らしたな」
「じゃあ、もう運命共同体ですね」
「勝手に決めるでない!」
「ふふっ」
「……なんという不条理」
「そういう方にこそ、鈴は鳴るものなんですよ」
「まこと、世の理とはままならぬ」
「ですよね」
夜。
雨は止まない。
古時計が、コチ、コチ、と鳴る。
アルは借りた寝巻で、窓辺に座っていた。
遠くで、波の音がする。
「……悪くない」
ぽつりと呟く。
「旅の途中に、こうして温もりのある屋根の下におるのも――」
カラン♪
鈴が、揺れた。
「……む」
アルは目を閉じる。
「この旅が、また妙な道に繋がっておらねばよいがな……」
しばし沈黙。
そして――
「……いや、どうせ繋がるのだろうな」
誰もいない部屋で、小さく笑った。
471歳の魔族のおっさん。
またしても“ご縁”に巻き込まれていくのであった。
つづく




