73:『自衛隊・1』
滅鬼の刃 エッセーラノベ
73:『自衛隊・1』
木造校舎西側の二階の窓からだったので、小学四年生の時だったと思います。
校舎はコの字を縦にしたような造りで南側が開けていました。開けたところにはできて間もないプールがあって、プールとコの字の間が運動場になっています。僕たちの教室は、コの字西側の二階の端。コの反対側の端に平屋の体育倉庫、そして裏門が続いています。裏門は登下校時以外は閉じられていて『学校に御用の方は西側の正門に周ってください』と注意の札がかかっています。
「あ、自衛隊や!」
隣のクラスの男子が声を上げ裏門の方を指さします。
「ええ?」「どこ?」「どこや?」「あっち!」「あ」「おったおった!」「ほんまや!」
男子たちが廊下の窓に鈴なりになります。
友だちに混ざってそっちを見ると。薄いカーキ色の制服制帽に脱いだ外套を手にした、おそらくは陸上自衛隊が一人で立っていました。
直感で卒業生なんだろうと思いました。
その年は東京オリンピックの前年で、ジブリ映画でいうと『コクリコ坂から』の年です。
卒業生の、やっと二十歳になったかならないかの先輩は、晴れて自衛隊に入ったことを報告したくて、おそらくは京阪の関目あたりから歩いてきたんでしょう。
「おお、○○君か。すまん、手が空くまで外で待ってくれへんかぁ」
担任だった先生に言われて、その先輩は、学校の最果てと言っていい裏門近くに行ったんでしょう。
当時の小学校には応接室も会議室もありません。普通来客があると職員室で待ってもらいます。
その職員室で待たせることは憚られたんだと思います。
当たり前ですが、職員室は先生で一杯です。当時、児童は2000人近くいましたから、先生たちも70人ほどもいたでしょう。で、全員が戦争経験者で、18年前には兵隊、軍属、女子挺身隊、あるいは疎開児童でした。二割ほどは外地からの引き上げ。そして大方が日教組です。
制服の自衛官はめちゃくちゃ居づらかっただろうと思います。
僕たち児童が見る目は——かっこいい!——が大半だったと思います。当時、ゴジラ映画が毎年のように封切られ、ゴジラに立ち向かっていく可憐な自衛隊は、ボコボコにやっつけられても「かっこいいもの」でした。コンバットのサンダース軍曹やヘンリー少尉はヒーローでしたし、あやめ池遊園の自衛隊博(博覧会という名前ではなかったかもしれませんが)盛況でした。
近ごろは、めちゃくちゃな平和学習をやるとかで、日教組はやり玉に挙がっています。
たしかにネットや新聞(うちは産経新聞)で見ると、亡くなった女生徒の学校は度外れていますが、僕たちの実感は違います。教室で反戦を唱えるような先生は居ませんでしたし、自衛隊は人殺しと黒板に書かれるともありませんでしたし、自衛隊を受けたいという生徒にも普通に進路指導していました。
ただ、空気というものがありました。
卒業式で歌う『仰げば尊し』と『蛍の光』は、五年生の時はありましたが、六年生の時にはありませんでした。みんなが歌いたい歌を提案して投票で決めるスタイルになりました。
『父兄』という呼称が『保護者』に変わりました。その保護者も『保護者殿』から『保護者様』に変わりました。
先生たちと雑談していると新聞の話になり「先生、どこの新聞とってるんですか?」と聞くと「朝日」と返ってきます。「じぶんらは、なに新聞?」と聞かれ「同じく朝日」「毎日」「読売」とか、わたし一人「産経」と答えると「産経なんか読むとこないやろが」と友達が言って笑いになります。
先生は「産経は広告のスペースが一番広い、せやから読むとこ少ないいうことや」とソフトに解説しました。
倫社という小教科がありました。ある年、社会科の都合で地理の先生が受け持つことになり、少し苦労しながらやっておられました。専門外なので教案のストックは一か月分ほどしかありません。
ギリシア哲学が終わって、さてどうしようかと教科書を繰ると『日本人の心』という意味の単元が出てきました、そこに『大和のあかき心』と二ページほどのセクションがあって、先生は「うわぁ……」という声をあげました。軍国教育に辟易し、戦後ほうほうのていで引き揚げてきた先生は「ここはパス」と声をあげ、みんなもクスクスと笑います。
ある年、「来週やむなくストをやります。これは君たちの教育環境を守るためで……」と説明されます。日ごろ人気があって熱心な先生たちでしたので、正しいことだと感じました。
こういうのが空気なんですね。
本題から離れました。自衛隊の事です。
栞が今度は自衛隊の茶封筒を持って帰りました。
はてさて…………(-_-;)という次第。
☆彡 主な登場人物
・わたし 大橋むつお
・栞 わたしの孫娘
・武者走 腐れ縁の友人(35回より故人)




