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誰かが悪いのか、誰も悪くないのか⑥

 クラトの感触が離れ、執務室の扉が閉まると、脚が震えていることに気付く。


「レティシア」


 父が名前を呼ぶ声に我に帰らなければ、そのまま床に崩折れていたかもしれない。

 父はソファから立ち上がり、今までクラトが陣取っていたレティシアの隣ではなく、目の前の床に膝をついた。


「すまない、レティシア……私が浅はかだった」


 父のその言葉に、レティシアはガン、と頭を殴られたような衝撃を受けた。


 クラトに抱きすくめられて目が覚めた朝から、侍女に言い逃れできない現場を見られ、父に執務室に呼ばれ、身を整えた後で人目を避けるようにクラトと廊下を歩き、この部屋で身の凍るような二人の会話を聞いていた、その間中ずっと、レティシアがずっと考えていたのは、この現状に対する言い訳だった。


 だって。でも。仕方なかったの。わたくしはちゃんと抵抗して、やめてって言ったわ。それなのにクラト様は聞いてはくださらなくて。だいたい、この邸に簡単に人が入れるようになっているのが問題で。お父様だってデビューしてからずっとわたくしのことはほったらかしだった。そんなの、こんなことになっても不思議じゃないわ。わたくしのことだけを責められないはずよ――。


 父は当然自分を責めるだろう、と思っていた。頬を打たれることさえ想像し、内心震えて、身構えていた。

 それなのに、父から思いがけず謝罪の言葉が飛び出してきたことで、レティシアはかえって自分の浅ましさを突き付けられることになった。謝らなければならないのは、父であるはずがない。理不尽に責められれば容易く転嫁できたはずの罪悪がレティシアの眼前に突き付けられる。


「……悪いのは、わたくし」


 嗚咽を漏らす娘を、父は悲しい目で見ていた。


「腕を見せてみなさい」


 レティシアは言われるがまま、縄を掛けられる罪人のように腕を揃えて差し出す。くっきりと縛られた形のまま残る痣を目にしてディラム伯は眉を潜めた。


「その、お前たちの様子を見た侍女から聞いたのだが……お前の腕が縛められていたというのはお前の望んだことか?」


 レティシアは泣きながら首を振る。

 父は盛大にため息を吐き出した。どこか安堵しているようにも見えた。


「アルラント子爵の愛人になりたいか?」


 レティシアは少し考え、躊躇いがちにまた首を横に振る。


「ではどうしたい?」


 希望を訊かれて、彼女は茫然とするほかなかった。


「お父様、わたくし……」


 わからない……何も。

 レティシアは何も考えられなかった。クラトと結婚したい、というかつて思い描いていた願いさえ浮かばない。こうなった以上、クラトに流されるしかないと。それなのに「どうしたい」って?

 もうすでに、自分の気持ち一つでどうこう変わる状況ではないような気がする。クラトはレティシアを愛人に差し出さなければ支援を打ち切ると仄めかしてきた。


 どのみち、もう……。


 ――逃がさないよ、レティ……絶対に。


「レティシア……もう、それが答えではないのか?」


 何を言われているか分からず、レティシアは目を瞬かせる。そのたび、宝石のような瞳から雫がポロポロと転がり落ちる。父はそんな彼女を痛ましそうに見た。


「とにかく、お前には少し考える時間が必要だ。クラト君とも少し距離を置いた方がいいだろう」


 父に言われるまま、レティシアは頷いた。




 そして、信じがたいことにその三日後、父はまたライゼルを邸に招き、婚約者としての交流を再開させた。


 それは間違いなく、ディラム伯からクラトへの宣戦布告だった。




 ――――――――――




 カークランド伯は、いったいどこまで知っているのだろう。


 赤毛の偉丈夫をこっそり見上げ、レティシアは思案する。

 あの出来事があっても、ライゼルとの婚約は続いている。


 今日は久々に夜会に顔を出したのだが、これまでクラトを避けるために夜会の出席も断ることが多かったため、ライゼルにエスコートされて参加するのは初めてのことだ。

 そして、この夜会にクラトは参加しないという話だった。


「――どうかされましたか?」


 落ち着いたグレーの瞳が、いつの間にかこちらを向いている。


「いいえ……」


 慌てて目を逸らした後で、ああ、またやってしまったと思った。


(この方も、よくこんなわたくしに愛想を尽かさないものだわ……)


 自嘲気味に考えた後で、クラトの言葉をふと思い出した。


 ――彼らはレティシアの良さを何一つ分かっていないのに、君の見た目だけで寄ってきているんだ。


(『良さ』も何も……)


 ライゼルがレティシアの不貞行為を知ってなおこの婚約を続けているというならば、彼が今のレティシアに感じる魅力など異性に好かれやすいこの容姿くらいのものだろう。


「レティシア嬢、少しよろしいですか?」

「ええ」


 ライゼルに連れられて、人の輪から抜け、バルコニーへ出る手前に設置されたソファに腰かけた。人目は届くが、容易に会話が聞き取れない距離。

 彼は手に持っていたグラスをレティシアに渡す。いつの間に取っていたのだろう。渡されたのは女性が好む、酒精がほとんど入っていない果実酒だった。

 ただその味はレティシアの一番好きな林檎ではなく、オレンジだったが。

 レティシアはだからと言って、これまでライゼルに味の好みを伝えたことがない。そのくせ、グラスを受け取ってからクラトなら……とまた考えてしまう。頭をそっと振ってその考えを追い払った。



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