誰かが悪いのか、誰も悪くないのか⑤
「ああ、目が覚めた?レティシア」
暗い室内にほのかに灯ったランプの明かりで、ここが見慣れたレティシア自身の寝室だとわかる。でも、この状況は……?
「クラト、さま……?どうして、ここに……」
今日は普通の一日だったはずだ。確か、父と夕食を取って……父が途中からあまりにも疲れて眠そうだったので、邪魔にならないよう早めに自室へ上がった。湯を使って身を清めた後、侍女が持ってきてくれたハーブティーを飲んだところまで覚えている。それから、眠ってしまったのだろうか?
クラトはどこか仄暗い目でベッドに横たわるレティシアを見つめ、頬を優しく撫でた。
いくら状況が分からなくても、好きなひとに触れられれば勝手に意識して顔が赤くなってしまうのを止められない。
何かがおかしい気がするのに、頭がぼんやりとして上手く働かない。もしかして、これは夢?
クラトはそのまま覆いかぶさってレティシアに口付けてきた。始めはかつて想いを告げあったときに交わした、重ねるだけのキス。
クラトは瞬きもせずレティシアを見ていた。
何度も、触れては離れ、唇を食み、舌を差し込んで徐々に深くなる。その生々しい感触に、レティシアの思考は徐に覚醒した。
はっとして彼の胸を押し返そうとしたが、どうしてか頭上にある腕は何かに引っ張られているような感覚がして思うように動かせない。
「レティシア」
ベッドが軋み、クラトがそこに乗り上がってくる。レティシアはようやく恐怖を覚え、信じられないものを見る目でクラトを見上げた。クラトはその瞬間、はっきりと痛みを堪える顔をした。
「お願いだ、レティ……そんな目で見ないでくれ」
「く、クラト様、やだ……どうしてこんな……こんなの、嫌です」
「そうやって、君は僕から離れて行こうとするんだ……僕には君だけなのに……君も僕だけだと言ったくせに!」
涙を浮かべて首を振るレティシアを、クラトは絞り出すような声で詰った。
「全部、君が悪いんだよ、レティシア」
腕を拘束している以外、クラトはレティシアをこの上なく丁寧に、恭しく扱った。彼の熱い掌と唇に余すところなく暴かれて、思考はどろどろに蕩かされる。
自分の身体だというのに、何一つ思い通りにならない。唯一言葉だけは拒絶を紡ぎ続けたが、「いや」も「やめて」もクラトを苛立たせ、必要以上に煽っただけだった。
「逃がさないよ、レティ……絶対に」
初恋の男の、欲情混じりの掠れた声が耳から注ぎ込まれる。
……ああ、頭がおかしくなってしまいそう。
自分の身体が、全身で彼を欲しがっているのがわかって泣きそうになる。それはおそらくクラトにも伝わっていたのだろう。
レティシアを内側から引き裂くような痛みと、まともな考えを奪い去るほどの熱を与えて、彼はぞくりとするほど淫靡に微笑んだ。
「もうこれで、君は僕のものだ」
その瞬間――レティシアの心には絶望と、諦観と……奇妙なことに僅かな安堵が広がった。
クラトに傷物にされた以上、まともな嫁ぎ先などもう望めないだろう。かと言って、クラトがレティシアを正妻にすることも考えられない。そうできるなら、クラトはこんなふうにレティシアに夜這いをかけて純潔を散らすような手段を取る必要はなかったはずだから。
要するに、レティシアはクラトの愛人にされるのだろう。
実際、その通りになるはずだった。
それなのに。
「――別に構いません」
理知的なグレーの双眸がレティシアを真っ直ぐに射る。
レティシアの婚約者がライゼル以外の誰かだったのならば、これ以上クラトへの気持ちに思い悩む必要もなかっただろう。
――――――――――
「申し訳ないが、そのお申し出は承服しかねる」
初めて関係を持ってしまった翌日、クラトは堂々とレティシアの部屋で朝を迎え、起こしに来た侍女の前で二人の仲を明るみにした。邸内には直ちに箝口令が布かれたが、当然の如く知らせを受けた父の執務室に二人揃って呼ばれる。
そこで、クラトは将来的にレティシアを公爵家に迎えたいと父に申し出た。もちろん、立場は愛人として。それに対する父の返事が、それだった。
この執務室に入ってからずっと顔を俯けていたレティシアは、父の思わぬ言葉に顔を上げる。
一方、クラトは笑顔すら浮かべていた。
「こちらが下手に出たから勘違いされたかな。
公爵家から貴領に少なくない援助が出ているのは、誰のおかげか分かっておられるのか?」
ディラム伯の顔がさっと強張る。
「この申し出を受けなければ支援を打ち切る、と?」
「嫌だな。その言い方ではまるで僕が貴方を脅しているみたいだ。貴方には昔匿っていただいた恩がありますから、仇で返すような真似はしたくありません。
ただ、そうですね……もう一年以上何の見返りもなく支援し続けて、そろそろ周囲の貴族たちからの視線が痛くなってきました。『いくら恩があるとは言え、ディラム伯爵ばかりを贔屓するのはいかがなものか』とね」
顔から血の気が引いていくのが分かった。指先がどんどん冷たくなる。心が――。
「貴方の仰ることは分かった。しかし、今この場で決めることはできない。……今日のところはお帰りを」
クラトは鷹揚に頷いた。
「良い返事を期待しています。――また来るよ、レティ」
クラトはすっかり青褪めているレティシアを見下ろし、ふっと瞳を揺らしたように見えた。けれどもそれは一瞬のことで、次には完璧な笑みを浮かべて彼女のおとがいを持ち上げ、冷たい頬にキスをする。
「逃さないって、言ったはずだよ」
昨夜の情事を思わせる、掠れて、どこか切羽詰まった声に、知らず背中が震える。それは昨夜植え付けられた官能を揺さぶると同時に、レティシア自身にクラトへの怯えをも自覚させた。




