誰かが悪いのか、誰も悪くないのか③
そうなんです、本日はディラム伯の代わりにエスコートの栄誉に預かりました。ディラム伯は僕の恩人でして。ええ、皆さんも僕が療養していたことはよくご存じでしょう?そうですね、彼の地はとても痛ましい災害に見舞われたようです……。伯も本当ならご自身の目で愛娘のデビューを見たかったことでしょうね。僕は彼女の兄のようなものですし、僕にはすでに大切な婚約者がいますから、レティシア嬢を預けるには適任と思われたのではないかな。
レティシアは、その日ずっと、クラトの隣で微笑んでいた。
それ以外の表情の作り方を忘れてしまいそうだった。
レティシアにはたぶん、覚悟がまるで足りていなかったのだ。父に諦めるよう言われるがまま別れの手紙を書き、クラトに待っていてほしいといわれるがまま彼に未練を残し続けた。
その結果がこれだ。
「どうしていつもあの方ばかり……。夜会の間中、ずっとアルラント子爵様にくっついて」
「仕方ないわ、お家同士の繋がりですもの」
「でも、彼女が子爵様に向ける目をご覧になって?残念ながら、彼にはまるで相手にされていないようだけれど」
「まあ。ふふ……それはそうよ、皇女様と結婚することが決まっているのだから。子爵様も罪なお方よね」
「お可哀想なレティシア様。アルラント子爵様と結ばれるはずもございませんのに」
同情の言葉のあとに、クスクスと笑い声が重なる。レティシアの不安と不審が揺さぶられる。
――そうなの?クラト様?
実際、彼はどうやってレティシアと結婚する気でいるのだろう。
(……いいえ、そもそも結婚する約束なんて……して、ないわ)
レティシアは、ようやくそのことに思い至った。
「レティシア嬢、次は私と踊ってくださいますか?」
「今夜もお美しい……」
「乾杯はお済みですか?グラスはこちらに」
「たまにはお目付役の側を離れて息抜きしたくはありませんか?」
「二人でテラスへ涼みに……」
「庭園へ散策に……」
クラトは夜会の度にレティシアに群がり、誘いをかける男性たちから彼女をさりげなく庇った。
「彼らはレティシアの良さを何一つ分かっていないのに、君の見た目だけで寄ってきているんだ。中身のない求愛なんて相手にしては駄目だよ」
レティシアはクラトに会うためにめいいっぱい着飾って夜会に参加し、クラトとだけお喋りし、クラトとだけ踊った。何の疑問も持たなかった。
――いや、本当は、疑問は常に一つだけあった。
「どうしたの、レティシア。浮かない顔だ」
いつものようにクラトのエスコートで夜会へ向かう馬車の中で、気遣わしげに声をかけられ、レティシアは上手に表情を作れなかった。
一度は遠慮して首を振ったが、クラトに対して隠し事はできない。彼は巧みにレティシアから話を聴き出した。
「……父から、手紙が来ました」
レティシアは震える声で告げた。
「領地の経営が、思わしくないみたいです。そろそろ、婚約者を決めるようにって」
「……」
「クラト様……わたくし……」
「駄目だ。許さない」
肩を、痛いほど強く掴まれる。
「いっ――」
「――!ごめん……」
クラトは痣になりかけた肩を優しくさすり、それからレティシアの拒絶を恐れるように恐々と抱き寄せた。レティシアが抵抗を見せなかったので、ほっと安堵のため息が頭上に聞こえる。
「僕から離れていこうとしないで、レティ……僕には君だけなんだ……」
「わたくしも貴方だけ……。でも、でもね……不安で不安で仕方ないの。わたくしたち、こんなにしがらみだらけで、本当に一緒になれるの……?」
「レティ……」
レティシアを抱きしめる腕を強め、クラトは意を決したように彼女の名前を呼んだ。
「レティシア、聴いて――」
クラトがその後に語った『計画』に、レティシアの目は零れ落ちそうなほど見開かれた。
「――じ、冗談、よね……?そんな……」
クラトは無情にも首を横に振った。
「いいや、本気だよ。……僕は君を手に入れるためならなんだってする」
その日の会場である貴族の邸宅に着くと、スレニル公爵家の馭者はいつものようにカーテンの閉まった窓をノックし、中の二人に到着を知らせる。
すると、途端に不自然なほどの沈黙が返ってきた。
走行音で内容までは聞こえないが、直前まで何か話しているような気配はあったので、「妙だな」と首を傾げつつもう一度ノックする。
「到着いたしましたよ」
「……ああ」
返事があったことにほっとして「今、扉をお開けします」と馭者台を降りた。
扉の下に踏み台を用意し、扉を開けた瞬間、それを待ちわびていたように中から人影が飛び出してきて仰天する。
「レティシア!」
やや高さのある馬車の入り口から乗り降りするとき、いかに踏み台があるとはいえ女性はエスコートを待つのが常識である。まして、これほど慌ただしく降りるなど。
案の定、レティシア嬢は地面に着いたところでバランスを崩しかけた。咄嗟に馭者が背中を支えて事なきを得たが、馭者は色々な意味で背筋が凍る思いだ。特に、主の表情などは確認することも憚られた。
体勢を立て直したレティシア嬢にお礼を言われ、恐縮しながら三歩は後ろに下がった。そして、冷たい目で睨まれているに違いない、と主をそっと窺い、また驚愕した。
「レティシア……レティ、待って……お願いだ……」
普段、弱み一つ見せない完璧な紳士として振る舞うクラトが今は見る影もない。縋るように名前を呼ばれ、レティシアは戦慄く唇を片手で抑え、涙を零した。
「……っ、ごめん、なさい……クラトさま……ごめんなさい!」
捨てられた子供のような風情で茫然と座り込むクラトに、馭者はおろおろした。
「け、喧嘩ですかな……?」
その瞬間、ガラス玉のような眼がこちらを向く。得体のしれない恐怖を感じ、心臓が竦み上がる。
「会話を、聴いたか?」
「……か、かいわ!?」
「馬車の中の会話だ。聞こえたか?」
声を裏返らせる馭者に何の反応も示さず、淡々と問う声はかえって恐怖を煽った。
馭者は首がもげそうなほどぶんぶん横に振る。
「……そうか」
クラトは瞬きの間に気持ちを切り替え、一部の隙もないしっかりとした足取りで馬車を降りてくる。地に足がつくと、主の一挙手一投足を固唾を呑んで見守っていた馭者に再び目を向けた。
「僕が連れて来ない限り、レティシアを決して帰すな」
今度はこくこくと勢いよく首を縦に振った。




