誰かが悪いのか、誰も悪くないのか②
それから二年と数ヶ月をディラム領で過ごすうち、二人は徐々に距離を詰めていった。
おしゃべりするだけではなく、食事を一緒にとったり、手を繋いだりすることもあった。
「レティシア」
初めて言葉を交わしたときには僅かに幼い高さを残した彼の声は、徐々に甘さのある低い男性の声になってレティシアの名前を呼ぶ。
背もどんどん伸びて、レティシアの顔を覗き込むときには体を屈めてくれた。中性的な美貌はますます磨きがかかり、精悍さも加わって非の打ち所が見当たらない。
そんな魅力溢れるクラトは、しかし、レティシアにしか心を開かなかった。
レティシアはクラトが心を開いてくれるのは嬉しいものの、何となく彼を心配する気持ちもある。
それとなく他の人と交流するよう水を向けたことはあったが、彼はその話になるとわかりやすく機嫌が悪くなった。
「僕にはレティシアがいればいい」
「でも……」
「レティ……僕といるのが嫌になったの?」
「そんなこと!」
「じゃあ、そんな寂しいことを言って、僕を遠ざけたりしないで欲しい」
レティシアは、クラトの哀しそうな顔に弱かった。彼を笑顔にしてあげたい一心で「ごめんなさい、もう言わないわ」と言えば、彼は蕩けるような笑みをくれた。
正直に言えば、レティシアもクラトが自分以外の誰かと仲良くするのはなんだかモヤモヤする。それが恋だと、レティシアはいつしか自然に気付き、受け入れた。そうしてみると、クラトが自分だけに心を開いているという事実が彼女の心をくすぐる。
クラトが公爵領に帰ることが決まったとき、レティシアは思い切って彼に想いを告げた。彼も同じ気持ちだとわかって、涙が出るほど嬉しかった。
抱きしめられて、キスをされて、レティシアは何ひとつ将来の約束をしていないことに気付きもしなかった。
―――――――――――
――わたしはいつも、考えが足りない。
「……え?クラト様が、婚約……?皇女様、と……」
「そう、王都に戻られたのはそのためだ」
「そのこと、クラト様は……」
「もちろんご存じだ。もう数年も前から決まっていることだし、そもそもこの領地に身を寄せられていたのもそれが遠因だからな。キプロスとの同盟のために重要な婚姻なんだ。絶対に白紙には戻せない。だから、レティシア――」
彼のことは諦めなさい、と父は言った。
レティシアはどう返事したか覚えていないけれど、父の書斎を出てから部屋に閉じこもり、その日は一晩中泣きじゃくった。
――わたしだけって、言ったのに!婚約者がとっくに決まっているなら、あれはどういうつもりで仰ったの?わたしへの言葉は全部嘘だったの?それに、どうしてキスなんて……!
レティシアの心はぐちゃぐちゃだった。裏切られたような悲しみと苦しみで胸が痛い。恨みがましくクラト様を詰れたら。
しかし、一晩経って涙が枯れると、レティシアは諦観に支配されていた。
――わたしは玩ばれていた……?クラト様は、わたしのことなんか、本気じゃなかったんだわ。
年上の彼からすれば、レティシアは懐いてくる子供のようなものだったのかもしれない。あまりに無邪気に恋情を向けるから、邪険にもできなかったのだろうか。だったら、あの口付けは……。でも……。
レティシアは頭を振って、浮かびそうになる甘い期待を必死で振り払う。
そうして気が変わらないうちに、彼にお別れの手紙を書いた。
ところがクラトからきた返事は「別れる気はない」というものだった。
彼はレティシアが消極的な意見を書くたび、「今は詳しいことを言えないが、どんな手を使ってでも必ず君を妻にするから待っていてほしい」と繰り返し文面で訴えた。
地位も容姿も恵まれ、一時の恋人であっても引く手数多であろう彼ほどの男性が、レティシアのような小娘に言葉を尽くして愛と赦しを請う。そうした手紙の数々は、レティシアへ「もしかしたら」というどうしようもないほど愚かしい希望を抱かせた。
それでなくとも、レティシアにとってクラトは忘れがたいひとだ。あれほど完璧な男性に恋をしてしまったレティシアが、その本人から求められて他の男性に目を向けられるはずもない。
レティシアからはいつしか、捨てられるのではという彼への疑心と、この関係を拒絶しなければという良識が削がれていき、手紙のやり取りは彼女の社交界デビューの年までずるずると続くことになった。
そして、デビューのために訪れた初めての王都で、彼女はより一層男性的な魅力を増したクラトに再会する。
王都のディラム伯邸に颯爽と現れた彼は、レティシアの手を取り、社交界デビューのエスコートをさせて欲しいと請い願った。舞い上がったレティシアが、父の許可もなくその場で頷いてしまったのも無理からぬことだった。
本来ならば、婚約者のいないレティシアのエスコート役は父の役目だ。
けれども領地が被災したために余裕のない父は、懸念を残しつつも結局はそれを承諾し、領地へ蜻蛉返りせざるを得なかった。
デビューの日、ディラム邸に迎えに来たクラトは着飾ったレティシアを前に感極まって言葉を失い、頬を赤らめて賛辞を尽くした。
レティシアはレティシアで、夜会用に身なりを整えたクラトに心臓を鷲掴みにされ、初心な反応しか返せない。
まともな常識など忘れ、浮かれ切っていた。
ともに乗り込んだ馬車で、初めての夜会をクラトと過ごせる高揚感ではしゃぐレティシアに、クラトはずっと愛おしげな眼差しを注いでいた。
だが、ふと会話が途切れたタイミングで、彼は言いにくそうに切り出した。
「レティシア、僕が手紙に書いた約束を覚えている?」
――どんな手を使ってでも必ず君を妻にするから待っていてほしい。
「もちろん、覚えているわ」
「良かった……ねえ、レティシア。僕たちが結ばれるのは簡単なことじゃない。けれど、僕はそれを諦めたくないんだ」
レティシアも頷く。クラトは優しく微笑んだが、すぐに表情を曇らせた。
「僕らの関係は、本当なら後ろ暗いことは何一つない。だが、今しばらくは周囲に悟られるわけにはいかない」
レティシアはもう一度頷いた。クラトには婚約者がおり、外交も絡んでいる。難しい立場にいるのだ。
「だから……人目のある場所では、僕はきっと心にもないことを言わなければならない。それを先に、謝っておきたくて」
レティシアは首を振った。いいの、クラト様。わたくし、わかっているわ。
「ありがとう……」とクラトは呟き、馬車の中でレティシアをそっと抱き寄せた。




