俺の母親と、ど屑の話③
隠しておきたいものというのは、自分の心の一部を預けているものなのかもしれない。もしそれを失くしてしまったら、怒ったり、悲しくなったり、悔しくなったり、落ち込んだりしてしまうだろう。
「そういう気持ちは、『物』だけに抱く感情ではないわ。例えば家族や、飼っている動物、友人、そして――恋人」
俺は自分の宝箱にどう頑張っても仕舞いこめないラインナップにまた首を傾げた。
「貴方にはまだちょっと難しいかしら……。そうね、最近お爺様からいただいた仔馬がいるでしょう?」
「カンバスのこと?」
「そう。貴方はカンバスをとても大切にしているわね?ブラッシングをしたり、餌をあげたり。カンバスも貴方にとっても懐いている」
「うん」
「でも、カンバスが貴方以外に懐いていたらどう思う?」
「カンバスはハンクとも仲良しだよ」
ハンクは我が家の厩番である。俺がカンバスに接する上でお手本にしている人でもある。動物に優しく接するので、馬にもとても好かれている。
アデライトはそれを聞いてちょっと困り顔になった。
「ええと、それなら……こんなところで持ち出すのも気が引けるけれど、貴方のお父さ――」
「やだ」
「まあ……即答だわ」
「カンバスが懐くはずない。厩に顔を出したこともないんだよ?」
それどころか、この城でもめったにお目にかからない。
「そうね。でも、これは『例えば』の話。例えば貴方のお父様が、ろくに顔を出したことのない厩にひょいっと現れて、何もしてないカンバスを撫でて可愛がっていたらどう?」
俺は嫌悪感に顔を歪め、想像の中で父の膝裏をゲシゲシ蹴った。
「カンバスに触るなって思う。すごく嫌。離れてほしい」
アデライトは苦笑している。
「まあ、そうよね。それが、嫉妬。やきもちよ。
貴方が夢で見るような過激な内容の小説を、わたしは読んだことがないけれど、物語性のある本というのは読み手を意識して書かれるものよ。わたしが思うに、貴方が夢で見た『愛』の示し方は、大勢の人たちに理解されやすいように創られたものだと思うわ」
「……どういうこと?」
「ほら、この前一緒に読んだ本があったでしょう?宝探しに行くお話」
「うん、面白かった」
「悪者をやっつけてすっきりしたり、宝物を見つけてわくわくしたり、ライゼルが主人公と一緒に冒険できるのは、その本に貴方が共感――つまり、自分が知っている気持ちと重ね合わせて、本の中の主人公と同じ感情を味わうことができるからよね」
正直に言えば、俺はそんなことを考えたこともなかった。母の話は、当時の俺には難しかった。
俺はそれを「そういうものなんだな」と飲み込み、訳知り顔で頷く。アデライトは本当にわかっているのだろうか、と訝しげだったが話を続けてくれた。
「ライゼルは『愛』ってどんなものだと思う?」
「うーん……『好き!』って思うこと?」
「じゃあ、『恋』って?」
「え?……え?『好き』ってこと……?あれ?」
「お母様への『好き』と、カンバスへの『好き』は同じ『好き』?それは『愛』?」
「えぇ……?わかんない……。母上もカンバスも好きだけど……同じなのかな……」
アデライトは一生懸命に考え込む俺を微笑まし気に見つめた。
「『愛』って難しいのよ。人によってとらえ方が様々で、誰もが共感できるはっきりした答えがないの。わたしはライゼルのことを愛しているけれど、どれくらい愛しているかを貴方に見せてあげることはできないわ。
そういう曖昧な感情を万人に共感してもらうために、小説ではもっとわかりやすい行動や感情と結び付けて描いているのね。好感、独占欲、嫉妬、優越感……全部、ライゼルくらいの年の子でも理解できる原始的で単純な欲求。愛情が何かを知らなくても、それなら皆がわかるわ」
俺は唸った。飲み込むにも難しすぎて全く頭に入らない。
「母上の話はむずかしいよ……」
「ふふ……ごめんなさい、そうよね。
あのね、結局何が言いたいかというと、『愛情』は人によって想うかたちが違っていて、共感することが難しくて、重いとか軽いとか簡単に比較することができないものだということよ。その本の内容を鵜呑みにするのではなくて、自分の頭でかみ砕いて考えなければだめよ」
そして彼女は、こうも付け加えた。
「もちろんこれもわたしの考え方だから、鵜呑みにしなくていいのよ。貴方が頑張って考えて得た答えがわたしのものとは違うことだってあるわ」
「なら……父上は?」
アデライトが俺の顔をまじまじと見る。俺は気まずくて目をそらしたが、彼女は思いがけず破顔した。
「さては、初めからそれが訊きたかったのね」
「うん……」
「そうねぇ……」
アデライトは僅かに言い淀む。ぼんやりとした視線の先には何でもない風景が広がっていたが、彼女の目に映っているものはそれではないのだろう。
「実を言うとね、以前はミーシアさんが羨ましかった頃があったの」
「え!?なんで?」
「今となっては認めたくないことだけれど、お父様はね……お母様の初恋なのよ」
「ええ!?しゅみ悪い……」
アデライトがくすくす笑う。
「ね?本当にね……」
「どこが良かったの?」
「うーん……一途なところ、だったのかしら……」
二人で顔を見合わせ、首を傾げる。一途という言葉が何となくしっくりこなかった。成人した現在の俺なら「固執」とでも表現するだろうか。
「……まあ、それはともかく。お父様のことが好きだった頃は、彼がミーシアさんに向ける言葉や仕草が羨ましかった」
好感、独占欲、嫉妬、優越感。まさに、物語の恋人たちのようなわかりやすい愛情表現。
「『あんなふうに愛されたい』って思ってしまったのよ。本当なら、それを向けられるのはわたしのはずだったのに、って。
でもね、貴方が産まれてから考え方がだんだん変わってきたの」
茫洋としていた母の瞳が、俺に焦点を結ぶ。
「貴方ほど大切な子はいないわ。ミーシアさんの代わりだけれど、貴方の母親になれて良かったって、心から思えるの」
「俺も母上が大好きだよ」
「ありがとう。……本当にいい子に育ってくれて、自慢の息子だわ」
アデライトはしばらく誇らしげに俺の頬を撫でていたが、ふとため息をついた。
「今では、あんなに羨んでいた旦那様の愛情表現が、恐ろしいものにさえ思えるの。いえ、あれは愛情なの……?
少なくとも、わたしが思う……欲しかったものじゃない。ミーシアさんは幸せなのかしら……」
「父上のは『愛情』じゃないってこと?」
「少なくとも、お父様のなかでは『愛情』なのではないかしら。物理的にも精神的にも自由を奪って、彼なしでは生きられなくさせられる。それほどの執着は、確かに好きでもない相手には向けようもないでしょうね……。
ただ、わたしの考える『愛情』とは違う、という話よ。彼は、自分以外の人間に尊厳があることを忘れているように見える。ミーシアさんには申し訳ないけれど、あの自己愛を向けられていたのが自分だったらと思うとぞっとするわ。このまま一生彼の目が醒めないでほしいとさえ思うときがある……」
俺は最後の言葉が引っ掛かった。
「どういう意味……?」
「あ……いいえ。今のは、内緒」
アデライトは困ったように微笑み、唇に人差し指を押し当てた。
俺がその言葉の意味を知るのは、それよりずっと後のことになる。




