皇女の独り言
二人きりでありながら贅を尽くした晩餐の時間は、終始和やかな雰囲気が流れていた。
イサラがこの国や領地のことで質問をすれば、クラトは淀みなくそれに答えを返す。また、クラトも隣国からの旅中の出来事などを尋ねられれば、イサラも明るい話題で会話を弾ませた。
まだどこか他人行儀ではあるものの、初対面と思えばこの雰囲気は悪くないのではないか、とイサラは安堵を覚えていた。この国では余所者でしかない彼女は、夫となる男性が自身の味方となり、拠り所となってくれる人であることだけを切に願っていた。
クラトの整いすぎた容姿を目にしたときは、容姿など二の次で良いと思っていた彼女でも思わず感嘆のため息をつきたくなるほどだったが、同時に嫌な予感もあった。自国でイサラの周囲に居た見目麗しい男には良い思い出がない。
イサラの母国キプロスは、一夫多妻の国だ。男性は富と武功を誇り、養っている妻の人数が権威を示していた。当然、国で一番妻を娶っているのは皇帝である。
イサラには生まれた時点で義母が12人、異母兄姉は7人いた。しかし様々な思惑によって、その数は今現在も増えたり減ったりしている。他国に嫁ぐことが決まっていたイサラは皇位継承争いにこそ巻き込まれなかったものの、同盟を歓迎しない人間は少なからずいる。
イサラは自分の身を守るために、常に神経をすり減らすようにして周囲に気を配り続け、「人を見る目」を養ってきた。昼間に出会ったライゼル=カークランド辺境伯とその婚約者レティシアと交友関係を結びたいと感じたのも、自身の目を信じてのことだった。
「そういえば、本日お会いしたカークランド卿ですが」
イサラがその話題を口にしたのは、ライゼルたちに世話になった一件を、婚約者であるクラトと共有しておいた方が良いのではと思ったからだ。彼らに今日の御礼を贈りたいところだが、キプロスから来たばかりのイサラがそれを相談する相手はクラト以外にいない。
他意はなかったのだ。
けれども、次にクラトが口を開いた時、イサラは咄嗟に「失敗した」と感じた。
「……彼が、どうか?」
イサラは習慣から、クラトの一瞬の声の強張りを聞き分けた。
気のせいかもしれない。だが、思えばここに至るまで一度も、今日のことをお互いに話題にしてこなかった。イサラは無意識だったが、クラトは意図して避けていたのだとしたら……。
これまでも、いつだって、瞬きする間に下す判断が明暗を分けるような緊迫の日々を過ごしてきた彼女だった。産まれてきたときには三男五女の末姫だったイサラは、今や皇帝の三番目の娘と呼ばれている。ただ生き延びるだけのことが、容易なことではない場所だった。
今このときもその延長にあるのだと彼女は痛感し、目の前の男には軽く失望した。
イサラは朗らかに、初めから話すつもりだった通りに今日の経緯を説明する。
「――ですから、御礼を贈りたくて。親切にしていただいて嬉しかったのです。お二人とはこの先も懇意にしていきたいわ」
「ああ、それは良い考えですね」
「一応、キプロスにいる間にもこちらの慣習などは勉強しましたけれど、いざ実践となると細かいお作法が間違っていないか気になってしまって」
「そんなに堅苦しく考えなくとも大丈夫ですよ。しかし、不安を思われるお気持ちもわかります。僕で良ければご相談に乗りましょう」
「そうしていただけると助かります。クラト様はあのお二人と顔見知りのご様子だから、心強いわ」
「どうかな……こう見えて、カークランド伯とはまだ付き合いが浅いもので……。彼の領は僻地にあるので、社交シーズンであっても王都に滞在する期間が極端に短いのです」
クラトの話術は実に巧妙だった。ともすれば、先ほどの僅かな違和感はイサラの気のせいだったのでは、と思えるほどに。
けれどもイサラは慎重に会話を重ねながら、ヒントを拾い上げていく。
「婚約者のレティシア様も、毎年カークランド伯について行かれるの?こちらでは、そうやってお互いに夫婦仲を深めていくのね」
微かに、クラトが手にするナイフが食器にぶつかり音を立てた。本人は美しい顔に穏やかな表情を浮かべる。
「――二人が婚約したのは、今年のことです」
クラトは先ほどの些細な不手際を覆い隠すように、ゆったりと音を立てずにナイフとフォークを皿に置いた。
「あら、そうでしたの?」
「ええ、そう聞いています。それから、近頃は国境が落ち着いているおかげで観光旅行が流行ってきているようで、婚約者に限らず他領へ滞在することも当たり前になりつつありますね」
「なんだか不思議な感覚だわ……。キプロスは婚姻を結ぶまでお互いに顔を合わせないことも多いの」
「よく存じ上げていますよ。それで、僕らは今日まで対面する機会がなかった。
そういえば、僕も不思議に思っていたのですが、どうして今回はこちらの慣習に合わせてくださったのですか?」
イサラが嫁ぐことになったこの国――セントリア王国では、神に夫婦となることを誓い合う結婚式の前に、未来の伴侶を親族や知人にお披露目する婚約式がある。結婚式は夫婦の誓いの言葉が記された特別な羊皮紙に、聖職者立ち会いのもと署名をするという、地味なイベントだ。
キプロスでは逆に結婚式が盛大に行われる。というのも、「婚約」という制度があまり浸透していないのだ。欲しければ獲られる前に奪うような、短絡的というか野性的というか力技というか何というか……とにかくそういうお国柄であるので、結婚を予約しておくような制度がまどろっこしく感じられるのだろう。そのためキプロスでは、13歳から結婚できることになっている。
それはさておき、公にされてはいないが、本来イサラとクラトはキプロスの慣習を尊重して約一年後の結婚式の当日に顔合わせをすることになっていた。そこで、婚約式のような盛大なお披露目が予定されていたのである。
ところが先月、急遽キプロスの方から「皇女の希望」で入国を早めたいとの打診があり、セントリアのお歴々は首を傾げながらも外交上のメリットからその希望を歓迎した。キプロスの慣習に沿うのは彼の国の面子を立てる意味合いがあったのだが、キプロスの方からこちらの慣習に従うというなら対外的にはセントリア優位に見せられるため、願ったり叶ったりな提案だったのだ。
「それは――」
早くセントリアの人間になりたかったから、というのがイサラの正直な気持ちだった。
あの、この世のものとは思えぬほどの悪魔的美貌を持ったキプロスの支配者の手の届かない場所へ。顔も見たことのない異国の婚約者のもとの方がはるかに安全に思えた。早く、早く……逃げたかった。
そんな考えでいたから、こんなことになったのだろうか。
また、あの気の抜けない毎日を過ごす羽目になるなんて。
「早くこの国に馴染んで、旦那様と仲良くなりたかったからです」
嘘ではないが、全くの真実でもない言葉を口にして、出来るだけ邪気のない顔でにっこりと微笑みかける。すると、クラトはその口元にうっすらと笑みを浮かべた。
イサラの全身に、えも言われぬ寒気が襲い掛かった。
「それは光栄です。僕も、貴女とは上手くやっていきたいと思っていますよ」
そのあと、ふとクラトが時計を気にするそぶりを見せる。
「――おや、もうこんな時間だ。楽しいときはあっという間ですね」
楽しさとは対極にある感覚を今まさに感じているイサラは、努めて和やかに応じた。
「ええ、本当に」
「実はこの後、ホテルの支配人と話をすることになっていまして」
「あら、そういえばそんなことを仰っていらしたわね」
イサラも時計を見る。彼は、食事の前から今くらいの時間に何か用事があることを匂わせていた。食事は会話をしながらゆっくりと進められていたので、確かにクラトがそう言い出すのには不自然ではない。食事の途中で立つのはマナー違反とわかっていても、婚約者に蔑ろにされているとは感じさせない印象操作。
全て意図的なのだとすれば、出来すぎている。
「急ぎのご用事でしたら、どうぞ行ってらして」
「しかし、まだ食事の途中です」
「そうね、もうすぐ出てくる美味しいデザートを食べ逃すなんて、私もクラト様がお気の毒だわ」
「では、食事の途中で席を立つ無作法をお詫びして、デザートは貴女にお譲りしましょう」
イサラの、文字通り渾身の軽口に、クラトは意外にも先ほどとは別の笑みを浮かべた。しかしイサラが思わず瞬くと、それはあっという間に幻になった。
そのあと二、三言葉を交わし、クラトは速やかに退室してしまった。
気持ちを落ち着けようと紅茶の入ったティーカップに手を伸ばすが、持ち上げようとしたところで自身の手が小刻みに震えていることに気付いた。誤魔化すようにそっと両手を組み合わせる。幸い、イサラの手元が見える位置に使用人の姿はない。デザートが来るまでに、この震えは抑えておかなければ。
イサラは重たい溜息を吐いた。
「私……とんだ貧乏くじを引かされてしまったかしら……」
そのささやかな独り言は、誰にも聞かれることはなかった。




