黒猫を愛でる少女との邂逅⑤
少女は猫を抱えたまま腰をわずかに落とした。略式だが洗練されたカーテーシーである。
「助力に感謝いたします。私はイサラ。失礼を承知で、これ以上の名乗りは控えさせていただきますわ」
レティシアが息を呑む。ダンは、たぶんこれだけの情報ではこの場で何が起こっているのかわからないだろうし、今はその方が幸せだ。
「その点は心得ています」
俺は予想が当たったので大した驚きは無いが、イサラも俺が平然としていることをなんの不思議も感じていない顔で受け止めた。「姫様」と呼ばれていたところに鉢合わせたのだから、彼女も俺が何かしら察していることには気付いているのだ。
「ところでイサラ嬢、我々は向こうに馬車を待たせているのですが、よろしければご一緒しませんか? ご宿泊先の近くまでお送り致します」
イサラは使用人の目を潜って抜け出してきたに違いない。付き人があるなら彼女を一人になどできるはずがないのである。
しかし、イサラは「いいえ、結構です」ときっぱりと首を振る。
俺は呆れを顔に出さないよう、真面目な顔で指摘した。
「では、歩いて帰られるのですか? その猫を抱えたまま?」
成猫は大体5キロくらいの重さがある。
ホテルまで、歩いて30分くらいかかる。
乗合馬車は、動物を乗せたがらない。
「……」
「……」
普段重たいものなど持ち慣れない深窓のご令嬢の腕が、この後の苦行を予期して早くもふるふるし始める。
イサラは耳を赤くして俯いた。
「……お言葉に甘えます」
そうして下さい。
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「まあ、それではもしかしてそのお菓子……」
「そう、そうなんです!とっくに乳母の娘が食べてしまっていたの。それなのにリンダときたら……あ、リンダは乳母の名前なのですけれど」
「ふふ……あ、ごめんなさい、笑っては失礼ですわよね」
「いいの、誰が聞きとがめるでもないことですし」
「もちろん、そちらの婚約者さんも黙っていてくだされば、よね?」
俺は楽し気な二対の瞳に見つめられ、苦笑しつつ胸に手を当てて見せた。
「仰せの通りに、お嬢様方」
当のお嬢様方は俺のお道化た仕草に顔を見合わせてくすくす笑い合った。そしてまた、毒にも薬にもならない話に花を咲かせる。意外というか……信じがたいことに、この二人は馬車の中ですっかり打ち解けていた。いやおかしいだろ。
猫は呑気にイサラの膝の上で背中を撫でられている。一方、自分から気が逸れてほっとした俺は、声をかけられるまでそうしていたように遠い目で窓の外に視線を向けた。何やら、今日はこんなことばかりしている。それというのも、すべてレティシアが原因だ。彼女の考えなしともいえる言動は今に始まったことではないが、さすがに今回ばかりは常軌を逸している。
イサラの態度は、まだ分かる。彼女がレティシアのことを知っているとは思えない。しかし、レティシアが知らないはずはない。現に先ほど何かに気付いたような仕草をしたではないか。それだというのに……。
俺には理解しがたい。
車内は異様なほど平和的な空気のまま、目的地であるホテルの門前に着いた。馬車が停まり、馭者が扉を叩いて外から到着を知らせる音で、女たちは姦しくお喋りしていた口を閉じた。
「あら、もう着いたのかしら?」
「楽しい時はあっという間ですね……」
この空間を楽しめるその神経……いや、もう何も言うまい。
「ライゼル殿、レティシアさん、ご親切にここまでありがとう」
何も知らないイサラは、無邪気にほほ笑む。
「私、人を見る目はある方なの。だからお二人のことを信頼して、ここに名を明かします。私はイサラ・キスタ・ラダ・カン・イーサル」
俺とレティシアは揃って息を呑む。正体は薄々勘付いていたが、ここまで信用されたことが予想外だった。




