婚約者の魅力が迷走中
馬車に乗るのは久しぶりである。カラカラと車輪が回る音、それを引く馬の蹄の音やときたま嘶く声。遠くの方では街道の梢が小風に揺られてさざめく音や、鳥のさえずり、たまに獣の鳴く声も聞こえる。今走ってるのは、まだ森の側か。
体に感じる振動で、座面越しに馬車が走る路面の凹凸を感じる。普段馬に乗ったときの感覚に慣れていると、それがなんとなく物足りない。
俺はせめてもの慰めとして、先ほどからずっと窓の外を眺めていた。
――それにしても。
俺はふと思い出したように座席の対面を見遣った。
そこには、俺の婚約者殿が窓辺にもたれかかった姿勢で規則正しく胸元を上下させている。
何なんだこの子。
さっきから全く起きないんだが。
まあ、朝からどこか疲れていて眠そうだったので、馬車の中で寝ていけばいいって言ったのは俺だけどな?
身体の関係がある恋人がいながら、他の男の前でこうも無防備にしていていいんだろうか。俺が婚約解消に応じる気がなければ、この半年間で既成事実を作られるかもしれないということを、彼女はちゃんと理解しているんだろうか。
「……ん」
レティシアが微かに動く。ようやく起きたのだろうか、と思ったがどうやら違ったようで、もぞもぞと姿勢を変えて再び呼吸を深くする。……おい。
その拍子に、さらりと艶のある髪が流れ、隠れていた首筋を露わにする。そこにつけられた赤い痣が目に入り、急にいろいろなことに合点がいった。
――そういうことか。
クラトめ、本当にいい性格をしている。もしかして、実は寝取って欲しくて俺を煽ってるのか?
レティシアもレティシアである。彼女の他人への関心の薄さも問題なのだ。
諸君は小説の恋愛描写を読んで、「何でこんなにわかりやすいのにお互いの気持ちに気付かないんだ?」と思ったことはないだろうか。
小説は映像が見えない読者のために、さまざまな情景を言葉を尽くして描写し、想像を補完する。特に感情の機微は詳しく書かれるものだ。
だが、現実で小説の中のような感情の表出をする人間がいるか?例えば、辛いときに「今にも泣きそうな顔で我慢する」人間。俺は幼子が泣き出す直前くらいしか、この表情をする奴を見たことがないし、そんな表情は普通維持できない。
「ヤンデレ」なんてまさにそうだ。文章上で、「ヤンデレ」たちは嫉妬や独占欲、時に殺意をむき出しにする。クラトはそういったあからさまな言動をみせず、普段は異常性をうまく包み隠している。
しかし、俺はクラトが精神疾患者なのではないかと気付いた。奴の瞳を「昏い」と表現したのは、実は比喩でもなんでもないのだ。
カークランドでは、怪我で働けなくなった男や、夫を亡くした女、親を亡くした子ども――追い詰められて心に余裕がなくなったり、色々なことを諦めて生きる気力を失い始めると、人間はときにああいう目になる。この世界では精神医学はあまり発達していないが、異世界では「うつ」と呼ばれる症状である。
実際、精神的に追い詰められている人は、必ずではないが瞳孔が開きがちになり、瞳の色が影を落としたように昏く見えることがあるのだ。
俺はそうしたサインに気付いた。クラトと対面で話す機会を得たのは、契約書を見せたあの時が最初であったにもかかわらず。
彼の言動も、常軌を逸しているとは言わないまでも、どことなく情緒不安定な部分が垣間見えていた。俺より接点があるレティシアならば、「鬱」の知識がなくとも普通は何かしら違和感に気付くはずだ。
彼女はクラトと親密な関係にあるのに、それに対して何のケアもしていない。
そもそもクラトに執着されているということは、出会った頃にクラトが心を開くような何がしかの行動を起こしたはずだ。
しかし、それも含めて彼女は気付いていない可能性がある。
クラトの心は中途半端に救われて、まだ傷付いている残りの部分も救い上げられることを渇望している。そして、彼はそれがレティシアにのみ可能だと信じているのだ。だから彼女に固執している。
どうしてそれを気付かずにいられるのだろう、と考えたとき、彼女の無関心さを思い出した。
彼女はおそらく、クラトに対しても関心が薄いのである。
まさかそんな、と思ったが、そう考えれば辻褄が合うのも事実だ。
さすがに好意があることには気付いているのだろうが、もしかしたらあまりにもわかりやすく好意を示されるから、相手の気持ちを推察したり、聞き出そうとする努力の必要性を感じなくなってしまった、とか。
もしくは、気付いていて目を背けているか。……これはこれで問題だと思うが。
要するにクラトの上っ面の愛情だけを都合よく享受して、その下で彼がレティシアに執着する理由や、精神的に追い詰められていることには見て見ぬ振りをしているということになる。
クラトがレティシアだけに執心する限り、彼の心には彼女の言葉が最も届きやすいはずなのにな。
こうなるとクラトも哀れな男だ。
殻を破った雛は初めて見た相手を親と慕う、という話を思い出す。
人間不信の殻に閉じこもっていた彼は、初めて自分に癒しを与えてくれた女性を慕い、彼女に愛と救いを求めてしまった。
しかし、レティシアはクラトが与えてくれる好意を甘受するだけで、クラトの望みには気付かない。挙句、クラトを救うどころか彼の前から逃げようとしたために、大切に育ててきたレティシアへの想いが歪んで強い執着となった。
今の状況はそういうことなのかもしれない。




