囚心 17(最終話)
「雅貴、邪魔」
呆れたような声がして、彼女の手が、ぐっと俺を押し退けようとする。
俺はそれを、にやにやと笑いながら受け止め、その手の力に反発するように、余計すり寄る。
「邪魔だってば」
「気にすんな。さわらせろ」
「ト・イ・レ!」
「んじゃ、俺も一緒に……」
と、わざと彼女の動きにあわせて動くと、「変態!」と、額にチョップが炸裂する。
あの日、よりを戻してから一年ぐらいたっただろうか。
彼女のアパートの前でストーカーのように突っ立っていたことは、今となってはいい思い出ということにしておこうか。ストーカーといえば、下手すると、今の方がストーカーじみているかもしれない。思えばあれが俺の実咲ストーカー人生のスタートだったのかもしれない。
あの日、意を決してチャイムを押した俺は、俺の姿を確認すると、懇願する言葉を拒絶するようにドアを閉めるという、強烈な洗礼を受けた。
どうしようかとドアの前で固まってしまったのは当然だろう。絶望して、両手両膝を地面につかなかったのは奇跡じゃないかと思うほど、あのときの俺のショックは筆舌に尽くしがたい。頭が真っ白になって、涙が滲む余地さえないほどに感情まですっ飛んだ。
あの時の絶望は、思い出しただけで、泣こうと思ったら泣ける自信がある。
その後は、ドアの向こうに彼女がいると信じて、バカみたいに人の気配のないドアの前で呼び鈴を押すことさえ出来ずに突っ立っている惨めさと、もう顔を見せてくれないのではないかという恐怖とで、情けないほどにパニックに陥っていた。
もうドアを開ける気はないのではないかと、もう一度チャイムを推すかどうか悩んでいたところでようやくドアを開けてくれた実咲に、すがらないと決めていたことさえもすっかり忘れて、必死に言い募ってしまったことは、後日心の中で「俺が幸せにするから許してくれ」と、思い返して言い訳などしてみたりしたものだ。
もっとも、幸せになっているのは、俺の方だったが、笑って隣にいてくれる実咲に、きっと彼女も幸せだと信じている。
よく、あのとき、実咲は俺を受け入れてくれたと思う。まだ好きでいてくれたことは奇跡じゃないかと思う。
彼女の部屋で拒絶された苦しみも、その拒絶を受け入れ認める事しかできない苦しさも、そして悔いることしかできないやるせなさも、謝罪すら受け取るつもりがない実咲の態度で思い知らされた自身の愚かさと仕打ちも、全てまだ鮮明に胸の中に残っている。
苦しい記憶だが、それらを忘れたくないと思っている。そうすれば、今手にしている幸せの価値を忘れずにすむのだから。忘れるよりも、この苦しみを背負って生きた方が幸せではないかと思う。少なくとも、今は、まだ。
いつか、そんな苦しい後悔が溢れる奥底の思いも、今の幸せを幸せと感じられる思いも、全てひっくるめて受け入れ前を向ける日が来るだろうか。穏やかに互いを大切に出来る日が来るだろうか。来るかもしれない、そうなればいいと思う。けれど、まだそんなに達観した状態は想像がつかない。今は、まだ苦しさで自分を引き締めないと、実咲の優しさにつけあがってしまうだろうから。
こうして一緒にいられることが一年が経ってもまだ嘘みたいで、未だに、彼女がそばにいないと落ち着かない。頭がおかしいんじゃないかと思うほどにつきまとっている。それなりに自重はしているが、実咲の方は、いろいろとうっとうしいらしい。
実咲自身を失いかけた反動と、ようやく手に入れた居場所への執着と、おそらく、いろいろな感情が混ざっているだろう。
実咲を苦しめるようなことはしないと誓ったあの日から、実咲の喜ぶことをしたいと思っていた。けれど、実際は、なかなかうまくいかない。
一言でいうなら、めんどくさいという感情が近いかもしれない。そんな事より、実咲の側にいたかった。実咲の側は居心地が良い。いろいろと認めてしまえば、あの頃の自分は何にイライラしていたのだろうと、思い返すと不思議に感じるほどに、実咲の傍らはひどく安らげた。
その感覚に甘えて、実咲を喜ばせたい気持ちとは裏腹に、気がつけば自分の方が甘えている。さすがにこれは怒るかな、とか思いながら、ついいろんな所に手を抜いたり実咲にまとわりついたりしていると、あきれたように実咲が見つめてくる。
叱られるか、と思ってどきどきしながら見ていると、困ったように笑って「甘えてる」と、頬をさわられたり。
それが気持ちよくて、思わず顔がゆるむと、なぜだか実咲の方がうれしそうに笑うのだ。
もうずっと誰かと一緒にいて、こんなに気がゆるんだことがなかった。こんな幸せは、あまりにも遠い記憶の中にしか存在しなくて、ひどくくすぐったい。
いろいろと張り詰めた生活をしてきたのだろうと過去を振り返る。特に相手が女なら、尚更に。隙を見せれば、つけいられる。つけいる隙を与えるようなへまをするわけにはいかなかった。
けれど、実咲はそれにつけいったりしない。当たり前のように受け入れてくれる。つけ入れられたとしても、自分に不利になったことはない。叱られてもそれさえ楽しかった。
実咲といるのは気持ちがいい。実咲の側にいて、人が一緒にいる方が一人よりずっと安らげるのだということを、初めて知った。
気を張らずにゆっくり出来る時間がどうしようもなく心地よくて、俺は以前のように実咲の為に頑張ることを諦めてしまう。
そしてそんな俺を「甘えている」と笑う実咲にほっとする。
実咲が許してくれたことがうれしくて、俺は彼女を抱きしめ頬をすり寄せる。
思い返せば、自分の行動は、親の気を引こうとしている子供のようだと思った。
実咲の関心を引きたくてたまらない。
何でもないこと、そう、たとえばスーツを脱ぎっぱなしにしてみたりとかして、彼女がどんな反応を示すのかを待つ。犬たちのおもちゃにされそうになって慌てて取り返したり、溜息ついて片付けてくれたり、放置プレイされたり、めんどくさそうに顔にバサッとかけられたり。そんな事がとても楽しい。
この前は夕食作るとき教えてとキッチンに入ってきた実咲に、教えながらちょっかい出したら、不埒な真似をした左手をペシリと叩かれ逃げられた。恨めしげに逃げた実咲を見ていたら、カウンターの向こうで、子供みたいに「いーっ」と顔をしかめられた。あの時は可愛くて萌え死にそうだった。
俺があまりにもしつこいせいで、ときどき嫌がらせに、以前俺が吹き出したどくだみ茶をそしらぬ顔で飲まされたりもする。が、意外と人間の味覚とは慣れる物で。さりげなく飲まされ続けて、とうとうその苦手だった味になれてきてしまっていることは苦々しい現実だ。その回数の裏に、実咲の怒りを感じる。「意外とおいしいでしょ」とにやにや笑う実咲に、そればかりは賛同しかねるが、あれから彼女がどくだみ茶にはまって自分から買うようになったどくだみ茶攻撃も、それはそれで楽しいというか、幸せというか、そう思わないでもない。
実咲が受け入れてくれている、実咲のいる場所が、俺の帰る場所。実咲のいるところが、俺の安心できる場所。そんなふうに今は思う。
そして、それを実感するたびに、俺はひどく後悔をする。こんな実咲を傷つけたことを。実咲の信頼を損なうようなことをした自分自身を。
なのに実咲は、こうなったのは、自分のせいもあるからと笑う。俺がそうしたくなるような自分を作ったからだと。
それは違う。たぶん、実咲があのままでも、俺は最終的に同じ事をしただろう。きっと、実咲に見捨てられるまで俺は気付けなかった。結局、自分は実咲を傷つける道しか選べなかっただろうと思う。
たぶん、誰かに思い知らされるまで……失敗するまで気づけないことだったのではないかと思う。
人は、経験なくして想像力を巡らすのは難しい。実咲に見捨てられる以前の自分では、気づく余地さえなかったのではないかと思う。
実咲を傷つけるより他、気付く道はなかった。もしかしたらあったかもしれないが、けれどそれは何年も先になっただろう。
だから、きっと俺には必要な通り道だった。実咲を傷つけ、見捨てられたことさえも、実咲との未来のために必要なことだったのではないかと思う。もしかしたら、今に繋がる最短の道だったのかもしれない。
それでも、と、悔いは止まらない。それは傷つけた事への免罪符にはならないのだから。女性を憎むことに安定感を求めたことが間違っていたのだから。
だから、実咲は悪くない。俺が悪いんだと話をしても、実咲は笑って首を振る。
どっちでも良いんだよ、と。彼女は笑って言うのだ。
「私にも出来たことがあったはずなのは、確かなんだから。雅貴のせいにしても、なんにもかわんないし、雅貴のせいにすればするほど、私は雅貴を信用できなくなって結局私自身が苦しくなるから。人のせいにするより、自分に出来たことを考えるのがずっといい。それを未来に繋げていく方が、ずっといい」
と。
だから、お互い様が良いよ、そう言って実咲は笑う。今一緒にいられるから、それでもういいよ、と。
だから、信頼させて。騙さないで。心変わりは仕方ないけど、裏切らないで。
まっすぐに見つめてくるその視線を受けて、俺は実咲を抱きしめる。何度も頷きながら、ありがとうと抱きしめながら、彼女に包まれているような安心感を覚える。
ここに居場所があった。
この居場所は、俺を閉じ込めることはない。実咲を抱きしめれば、俺をとらえて放さなかったこわばった感情がほどけてゆく。
居場所とは、家という入れ物にではなく、人にあるのだと知った。俺が執着していた家の形は、俺がなくした物への憧憬を詰め込んでいただけの物だったのだろう。
人は、人の中にこそ、居場所を作る。
帰って行ったとき、受け入れてくれる人の中に、存在意義を確かめるのだと知った。
実咲は、俺自身そのものを受け入れてくれる。取り繕わなくても、無理をしなくてもそこにいて良いと。きっとそれが、居場所があるという事なのだろう。
正直、実咲がどうしてここまで俺を思ってくれるのかが分からない。
そう言うと、実咲は笑う。
私も分からないよ、と。
それはそれで切なくて、こっそりと落ち込む。それを見て笑う実咲に、こんな俺を信用できるのかと尋ねると、困った顔をされた。
不安は、あるよ、と彼女は答える。雅貴がいつか私から離れていくかもしれないって、思うよ、と。でも、あの時の雅貴の言葉は、信用しているよ、と実咲は続けた。もう、私をだましたりしないって、それは信用しているよ、と。だから、不安でも、大丈夫だよ、そう言ってくれたのだ。
不安なときは、俺に言えよ、と言うと、彼女は「無理」と一言で答えると笑った。
不安なのは、雅貴を信用してないからじゃないから。私の心の問題だから、と。
そのかわりさ、
そう言って、彼女は微笑む。
雅貴が、私に対して、誠実でいてくれたら、それで良いよ。それがいい。そしたら、いつか、安心できるようになるかもしれないから、と。
実咲は人の心は変わっていくものだから、未来の心は誓わなくても良いと俺に誓わせてくれない。だから俺は、俺自身に誓う。
心が変わっていくのなら変わっていくのも良いだろう。
実咲への思いが変わることもあるかも知れない。実咲以上に大切に思う誰かが現れるかも知れない。
そんな事は、誰にも分からない。もちろん俺にも。
けれど、そんな日が来たとしても、俺はずっと、ずっと、彼女を大切にするのだと。実咲に対して誠実にいるのだと。
それだけは誓っている。
だから実咲。
これからも、傍にいてくれないか。
実咲が俺の居場所を与えてくれたように、俺もいつかお前の居場所になれるようになるから。
だから。
結婚しよう。
最後までお付き合い、ありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけたのなら、幸せです。