第3話 斬撃スキル
俺は、煉獄魔将ヴァラク・ブラックアイアンの言葉に従うわけじゃない。ただ、魔王軍の診療所で腐っているよりはマシだと思って、教練所に足を向けた。
ざわめく土煙。金属のぶつかる鋭い音。唸り声と怒号。
確かにそこでは、筋骨隆々たる魔族の兵士たちが、汗と泥にまみれて訓練に励んでいた。獣のような咆哮を上げながら木剣を振るう者、巨大な盾を構えて突進する者。混沌とした、しかし確かな暴力の熱気が場を満たしている。
俺はそばに転がっていた、使い古された木剣を一本、手に取った。
軽い。あまりに軽すぎる。
この世界に来て、俺の剣術は「進化」した。正確には、異世界のルールに適応し、変質したと言うべきか。
神官たちの目を盗み、前線で魔物を屠るうちに、ある「何か」が体に刻み込まれた。
――斬撃スキル。
脳裏に、冷たいシステムメッセージのような確信が走る。
斬撃スキルだぞ? ゲームや漫画じゃない、現実でだ。オタク心が沸き立たないわけがない。だが、ここでのそれは、生温かい血の匂いと、骨を断つ感触と共にあった。
「おい…そこの人間。」
ドスの利いた低い声が、訓練の喧噪を切り裂いた。
「ここは、テメェみたいなガラクタがいる場所じゃねぇ。さっさと帰んな。診療所のベッドで震えてろ。」
声の主は、角が太く、肌が岩のようにごつごつした巨漢の魔兵だ。周りの兵士たちが、それに呼応するように野卑な笑いを投げつけてきた。好奇心混じりの、しかし確実な侮蔑と嘲笑。
俺は無視した。ただ、木剣を振り続けた。
空気を斬る。かつてない切れ味の感覚が、腕を通り、脳を刺激する。
「聞こえてねぇのか、コラ!」
足音が近づく。獣臭い息づかいが背中に届く。
危険感知が、鋭く警鐘を鳴らす。
「それ以上近づくな。」
俺は振り向かず、低く言った。
「殺す。」
一瞬の沈黙。そして、爆発した怒り。
「生意気な!」
巨漢の魔兵が、本物の鋼鉄の斧を構え、唸りを上げて飛びかかってきた。
風圧。殺意。
その瞬間、時間が粘るように遅くなった。
俺はごく自然に、体の軸を半歩ずらし、手にした木剣を、ためらいなく一閃させた。
――斬撃スキル、発動。
木の刃が、光るわけでも、派手な効果音がするわけでもない。
ただ、一道の「線」が空間に走った。
次の瞬間、巨漢の首から上だけが、信じられないほどの滑らかさで宙に浮き、やがて地面に転がった。胴体はそのまま前のめりに崩れ落ち、黒い血潮が砂塵を染めた。
周囲の嘲笑が、一瞬で切断された。
凍りつくような静寂。
…そこから先は、あまりよく覚えていない。
色が、音が、感覚が、すべて「斬る」という一点に収束していった。
挑んでくる者。逃げ惑う者。叫ぶ者。すべてが、俺の剣の軌跡の前で等しく「断片」となった。
木剣は最早、木ではなかった。俺の延長たる、最凶の刃となっていた。
30分か? 1時間か?
気がつくと、教練場は静まり返っていた。さっきまでの喧噪は嘘のように消え、代わりに濃厚な鉄の臭いと、無数の黒い血溜まりが広がっている。かつて兵士たちがいた場所には、もはや形を留めない「何か」が散らばっていた。
そして、その血の海の向こうから、一人の男がゆっくりと歩いてくる。
重厚な黒鉄の鎧。燃えるような赤髪。片方の目を覆う傷跡。存在そのものが周囲の空気を歪ませ、重圧としてのしかかる――煉獄魔将、ヴァラク・レオーネ。
殺される。
これだけの兵士を独りで屠った異端者。魔王軍の将たる彼が、見過ごすはずがない。次の瞬間、俺も床に転がる亡骸の一つに加わるだろう。そう覚悟した。
ヴァラクは俺のすぐ前に立ち止まった。
その巨体が月光を遮る。
彼はゆっくりと、鎧に覆われた巨大な手を差し出した。それは首を掴むためか、胸を貫くためか。
だが、その手は俺の肩に、ごく軽く置かれただけだった。
そして、ヴァラクは傷ついた片方の口元をわずかに歪め、地の底から響くような深い声で、俺の耳元に囁いた。
「……期待以上だ、異世界人よ。」
その言葉と共に、肩にあった手の重みが、嘲笑でも懲罰でもなく、ある認証のように感じられた。
教練場は、血と静寂と、たった二人の男だけが残る異様な空間となった。
俺は、まだ温もりの残る木剣の柄を握りしめ、沸き上がる不可解な高揚と共に、赤髪の魔将を見つめ返した。




