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杜陵遺誡録 ~【1話完結】日常を侵食するルール系ショートホラー~  作者: ぐるぐる


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004_市街地路地裏における滞留事案

二〇〇八年の六月二日。

前日に降った大雨の名残で、杜陵市の中心部は朝から濃密な湿気に沈んでいた。

濡れたアスファルトから立ち上る生温かい蒸気と、中川から吹きつける冷たい風が混ざり合い、路地裏にじっとりと澱んでいる。


杜陵大学の二年、軽音学部に所属する僕――一戸タカヒサの頭の中は、今朝もパチンコのことばかりだった。

二限の講義をサボって駅前のホールへ向かおうと、古いアーケード商店街を歩いていたときのことだ。


普段なら古本屋と金物屋が並んでいるはずの場所に、人が一人ようやく通れるほどの薄暗い隙間が開いており、その奥に見たこともないパチンコ屋の入り口があった。

黄ばんだプラスチックの看板には、かすれた文字で屋号が書かれている。


自動ドアを抜けると、強烈なタバコのヤニと機械油が混ざり合った、大昔の遊技場特有の匂いが鼻を突いた。

大音量の軍艦マーチが鳴っているはずなのに、なぜか水底から耳を澄ましているように、すべての音がひどくくぐもっている。


空いていた古い羽根モノの台に座り、千円札を入れた。

タバコに火をつけ、紫煙を吐き出しながら丸いハンドルを握る。

弾かれた銀色の玉が、ガラスの向こうで乾いた金属音を立てて跳ね回る。


違和感に気づいたのは、しばらく打ち続けてからだった。

数十発に一発の割合で、明らかに異質な「青い玉」が打ち出されていた。

誰かが一円パチンコ用の色付き玉を混ぜたのかと思ったが、その玉の挙動は異常だった。


盤面を転がり、入賞口や下のアウト口へ落ちるその瞬間。

音も立てず、まるで最初から存在していなかったかのように、ふっと虚空へ掻き消えるのだ。


手元の上皿やドル箱を見ても、青い玉は一粒も混ざっていない。

自分の持ち玉にないなら、店員に不正を疑われる心配もないだろう。

深く考えずに打ち続けるうちに、ドル箱にはそこそこの玉が溜まっていた。


だが、ハンドルを握る右手の指先から、氷水を流し込まれたような尋常ではない寒気が這い上がってくる。

頭の芯が冷え切るようなひどい倦怠感に襲われ、これ以上打つ気力が失せた。

中途半端な玉数だったが、カウンターでタバコに交換し、逃げるように店を出た。


翌朝。

目覚まし時計で目を覚まし、枕元を見た僕は首を傾げた。

昨日交換したはずのタバコの箱が、どこにも見当たらない。

部屋中を探したが、影も形もなかった。


*


サークル棟の古びた軽音部室。

コンクリートの冷たい空気が澱むその部屋で、私――及川は、パイプ椅子に座ったまま机の上に深く突っ伏していた。

極度の精神的な消耗で、頭痛が鳴り止まない。


私の視界の端には、数日前から常に「エプロン姿の女」が立ち続けている。

両目の焦点が狂い、顔に黒い空洞のあるあの怪異。

無視し続けても、逃げ場のない圧迫感が確実に私の体力を削り取っていた。

いつもなら手放さないノートPCを鞄から出す気力すらない。


そこへ、スチール扉が開き、二年の後輩である一戸が入ってきた。

彼は私の異様な様子に戸惑いながらも、場を和ませようとしたのか、能天気な声で昨日見つけたという商店街の隙間の古いパチンコ屋の話を始めた。


青い玉が消える。勝ったはずの景品が現実から消滅する。

その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏で過去のノートの記録といくつもの断片が結びついた。


推測だが、彼が見つけたのは物理的な店舗ではない。

都市の隙間に生じた歪みであり、迷い込んだ人間の熱や生気を対価として吸い上げる『捕虫網』のようなものだ。

入賞口に消える青い玉は、遊技者から何かを奪い取った痕跡なのかもしれない。


いつもなら、この推論を伝え、二度と近づかないためのルールを厳格に指示するところだ。

だが、今の私には、彼にそれを詳細に説明し、警告を理解させるだけの余裕がまったく残っていなかった。


「そこは……もう行くな」

それだけ言うのが精一杯だった。


「え? でも、あそこ――」

「いいから、もう喋るな」


一戸が何かを言いかけたが、私は無理やり会話を断ち切った。

彼の命運よりも、今は私自身が直面している圧倒的な不条理から精神を保つだけで精一杯だったのだ。


*


及川先輩の血走った目と、あの酷い顔での忠告は確かに気味が悪かった。

だが、昨日はなんだかんだ言って千円で1カートン分勝ったのだ。

講義を終える頃には、恐怖よりもあのハンドルの振動と、玉が跳ねる感触が頭を支配していた。


気づけば、僕は再びあの薄暗いアーケード商店街に足を運んでいた。

昨日と同じ隙間に、同じ黄ばんだ看板。

自動ドアをくぐり、同じ台の前に座る。


たまに打ち出される青い玉は、相変わらず吸い込まれる直前にふっと消え失せていく。

大勝ちはしないが、手元の玉が尽きることもない。


盤面を見つめていると、周囲の音が完全に遮断され、世界に自分とこの台しか存在しないような奇妙な全能感に満たされた。

身体の芯は凍えるように冷たいのに、脳の奥だけが焼けるように熱い。


それからというもの、僕は大学へ行くのを完全にやめ、連日のようにその店へ通い詰めた。

食事の味がしなくなり、指先は血の気が引いて青黒く変色していった。

どれだけ寝ても全身を鉛のような倦怠感が縛りつけている。

それでも、あの暗がりでハンドルを握り締めている時だけは、生きている実感がした。


――息子が、日に日にやつれ、正気を失っていく。

大学へ通っているはずの息子の異様な衰弱に耐えかねた母親が、家を出る息子の後をつけたのは、六月の半ばを過ぎた曇天の午後だった。


商店街を歩く息子は、泥酔したような覚束ない足取りで、古い金物屋と空きビルの境目にある、幅一メートルにも満たない路地の隙間へと入り込んでいった。

配管が剥き出しになり、室外機から生温かい埃の混ざった風が吹き付けるだけの行き止まり。

母親が息を殺して角から覗き込んだ時、目にした光景に喉が凍りついた。


薄暗い路地の最奥。

息子は、雨水で黒ずんだコンクリートの壁に向かって直立していた。

右手は腰のあたりで虚空を握り、何もない空間をねじるように親指を小刻みに震わせている。

息子の両目は異様なほど爛々と見開かれ、ただの灰色のブロック塀を食い入るように凝視していた。


「……入れ、入れ、そこで入れ……」

かすれた声で呪文のように呟いていた息子が、不意に路地裏を引き裂くような甲高い奇声を上げた。


「よっしゃあ! 当たった!!」


何もない冷たい壁に向かって両手を突き上げ、息子は一人、狂ったように笑い転げていた。

足元には、踏み躙られた無数の吸い殻と、泥水に塗れた空のタバコの箱が、足の踏み場もないほど散らばっていた。


*


『杜陵大学周辺 環境安全ガイド』

更新日:二〇〇八年六月十八日


【事例018】市街地路地裏における擬似遊技場の幻視および滞留事案


【症状】

商店街の建築物間の狭隘な隙間(路地裏の壁面)において、存在しない遊技施設(パチンコ店等)が認知される。

一度侵入すると強い射幸心と多幸感を伴う幻覚に捕らわれ、現実空間では行き止まりの壁面に向かって長時間の滞留および発声行為を繰り返す。

遊技中、盤面上で特定の玉(青色)が突如消失する、あるいは獲得したはずの景品(タバコ等)が現実空間で消失する等の現象を伴う。


【対処法】

見慣れない店舗や路地の出現を認知した場合、決して足を踏み入れてはならない。

初期段階であれば本人の意志による現場離脱が可能だが、滞留が常態化した場合、自力での現実復帰は極めて困難となる。


【備考】

該当学生(軽音学部2年)は家族によって保護されたものの、極度の脱水症状および低体温症、手指の軽度な凍傷が確認されている。

なお、事案発生時、相談を受けた管理者が心身の著しい疲弊状態にあったため、十分な予防措置・ルールの伝達が行われなかったことが確認されている。

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