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杜陵遺誡録 ~【1話完結】日常を侵食するルール系ショートホラー~  作者: ぐるぐる


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005_学生寮における寮母の目撃事案

二〇〇八年五月二十六日――


杜陵大学教育学部の女子寮は、キャンパスから少し離れた住宅街の裏手にある。


私――東雲リョウは、今年の春からこの寮で暮らしている。


実家は杜陵市から百キロ以上離れた沿岸部にあり、通学することが物理的に不可能だったからだ。


古い鉄筋コンクリート造りの寮は、初夏の時期になると廊下にじっとりとした湿気が籠もる。


そこで暮らす学生の顔ぶれには少しずつ見慣れてきたが、私は「寮母さん」とだけは、ほとんど言葉を交わしたことがなかった。


すれ違うときに軽く会釈をするだけの関係だ。


年齢は八十代くらいに見えた。


いつも少し背中を丸めて、ゆっくりと廊下を歩いている。


その日の朝も、私は薄暗い一階の廊下で彼女とすれ違った。


いつもなら無言で頭を下げるだけだったが、なぜかその時は、珍しく顔を上げてしっかり挨拶をしようと思ってしまった。


「おはようご――」


言葉は途中で凍りついた。


至近距離で見た寮母の顔には、決定的な違和感があった。


左右の目の焦点が、まったく合っていなかった。


右目は天井の蛍光灯を、左目は床の隅を、それぞれ明後日の方向を向いて固定されている。


そして、鼻の下にあるはずの「口」が、人間のそれではなくなっていた。


唇も、歯も、舌もない。


ただマネキンの顔を乱暴にくり抜いたような、真っ黒な空洞がぽっかりと開いているだけだった。


ヒュウ、ヒュウ、と。


その空洞の奥から、冷たく乾いた風のような音が漏れ出ている。


悲鳴すら出なかった。


私は持っていたトートバッグを取り落とし、靴を履くのももどかしく寮を飛び出した。


無我夢中で走り、寮から三十メートルほど離れたアスファルトの上で、膝から崩れ落ちるようにへたり込んだ。



*



アスファルトに座り込んで、過呼吸になりかけている一年生を見つけた。


同じ寮に住んでいる、東雲という女子学生だった。


彼女は私の顔を見るなり縋り付き、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、パニック状態でまくし立てた。


「寮母さんが……寮母さんの顔が、おかしいんです!」


焦点の合わない両目。


口の代わりにある、不気味な黒い空洞。


彼女は相手を「寮母」だと思い込んでいるため、年齢や服装といった全体像の描写はすっぽり抜け落ち、ただその顔の異常さだけを震える声で繰り返した。


私はありのまま彼女に事実を告げた。


「この寮の管理人は、六十代の男一人だけ。寮母なんて、最初から存在しない」


東雲が息を呑み、さらに顔面を蒼白にさせる。


恐怖を煽るつもりはない。事実を伝えただけだ。


「気づいていないふりを続けて、やり過ごしなさい。メアドを交換しましょう。何かあれば連絡をちょうだい。」


過去の記録から導き出せる生存のセオリーだけを言い渡し、私は東雲をその場に残して寮へと歩き出した。


しかし、その日の夕方。


大学の図書館から戻り、自分の部屋の前に立った時だった。


薄暗い廊下の奥に、女が立っていた。


寮にいるはずのない、エプロン姿の四十代くらいの女だ。


目をそらせと過去の経験が私に警鐘を打つ。


が、東雲の話が頭をよぎり、思わず顔をみてしまった。


両目の焦点が、完全に別々の方向を向いている。


そして鼻の下には、ぽっかりと黒い空洞が開いていた。


ヒュウ、ヒュウ、と空気が抜ける音がする。


冷たい悪寒が背筋を這い上がった。


東雲から話を聞くまでは、私もこの寮で暮らしていて、ただの一度もあんなものを見たことはなかったのだ。



*



無視していればやり過ごせる。


及川先輩のその言葉だけを信じて、私は数日間を必死に耐えていた。


しかし、意味がなかった。


大学の図書館の書架の隙間。


深夜のファミレスの窓ガラスの向こう。


駅前の商店街の人混みの中。


視界の片隅には常に「それ」がいて、明後日の方向を向いた目のまま、私に付きまとっていた。


気づかないふりをしても無駄だ。向こうは完全に、私を正面から見据えている。


限界に達した私は、及川先輩に連絡をとり、サークル棟の古びた軽音部室へ駆け込んだ。


部室のパイプ椅子には、及川先輩が座っていた。


目の前のノートPCは閉じられており、彼女は虚空を見つめたまま、微動だにしていなかった。


「及川先輩……! ダメです、ずっと付いてくるんです! どうしたら……」


「……無意味だった」


及川先輩は、ひどく冷たく、静かな声で言った。


感情の乗らない声色はそのままだが、どこか疲労しているようにも見えた。


「気づかないふりは無意味だ。私も先日から、アレに付きまとわれている。エプロン姿の四十代くらいの女に」


「え……?」


私は思わず、恐怖を忘れて聞き返した。


「四十代……? エプロン姿? でも、私が寮で見たのは、八十代くらいの老婆で……」


その瞬間、及川先輩の双眸がスッと細められた。


「……あんた、先日私に、そんな特徴は一言も言わなかったわね」


ぴたりと、部室の空気が凍りついた。


そうだ。あの時私はパニックになっていて、ただ「目と口がおかしい」とだけ泣き叫んだのだ。


「……トリガーは、視覚による認知じゃなかった」


及川先輩は机の上の分厚いノートに視線を落とし、推論だけどと前置きをしたうえで、忌々しそうに言った。


「先日あんたが私に伝えたのは、目と口の異常だけ。そして私の前に現れたのは、その二つの特徴だけを備えた、まったく別のガワを被った何かだった」


血の気が引いた。


「アレにとって年齢や服装なんて誤差でしかないんでしょう。アレは、伝聞によって特徴を認知し、『そういうものがいる』と頭の中で知覚した人間のところに現れて、憑きまとう」


及川先輩の推論の意味を理解し、私は絶望的な寒気に襲われた。


私が、先輩に感染させたのだ。


そしてもし、私が他の誰かに「こんな怖い目に遭っている」と相談してしまったら。


今度はその相談された人間が、アレに付きまとわれることになる。


「もし、この推論が正しいなら。誰かに話すたびに、話した相手にも伝播する。活字にして不特定多数に読ませれば、読んだ人間の数だけ増える可能性がある」


及川先輩は、手元にあった古いノートをバタンと強く閉じ、その上に手を置いて重い声で宣言した。


「今のところ、直接的な危害は確認されていない。まずは2人だけの問題にとどめましょう。……これ以上巻き込む人間を増やさないためには、私とあんたで、口をつぐむしかない」


私たちは、誰かに助けを求めることすら許されない。


これ以上、誰にも話すことはできない。


それでも、あの黒い空洞は、私たちがどこへ行こうと付いてくる。



*



『杜陵大学周辺 環境安全ガイド』

ローカル下書きフォルダ:【未公開テキスト】


【事例017】伝聞による概念伝播および恒久的な付きまとい事案


【症状】

伝聞(文章の閲読を含む)をもとに伝播・発生する怪異。

どこまでの情報粒度で伝播のトリガーが引かれるか(許容範囲)が不明確なため、対象の具体的な視覚的特徴については一切記載しない。


【対処法】

本怪異に関する情報を完全に秘匿すること。

伝播の詳しい条件や詳細は現在検証中。


【備考】

本件の記録は、次期管理者への引き継ぎを含め、詳細をすべて秘匿とする。

(※本テキストは概念伝播の危険性を考慮し、具体的な特徴を省いた警告文としてのみローカルに留め置くこと)


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