第XX回 『食べられるように腐らせる方法』―オリュンポス本部― 後編
◇会議再開――酒宴の後始末
オリュンポス本部、定例会議。
前回の会議から、しばらく後。
会議室はようやく元の姿を取り戻していた。
ただし、テミスの表情は晴れない。
コン、コン。
―木槌が二度、打ち鳴らされた―
テミス:「それでは、前回に引き続き、食べられるように腐らせる方法について、継続審議を行います」
ヘルメス:「今日は随分と静かだね」
アレス:「酒がないからな」
テミス:「本来、会議に酒は必要ありません」
ディオニュソス:「異議あり!」
テミス:「却下します」
カン。
―木槌が強く打ち鳴らされた―
ディオニュソス:「まだ何も言っていない!」
テミス:「言わなくても分かります」
ヘスティア:「あらあら、ディオニュソス。今日はちゃんとお水を飲んできた?」
ディオニュソス:「……飲んできた」
ヘスティア:「それならよろしい」
ヘルメス:「完全に保護者だね」
ムネモシュネ:「前回までの成果を確認します」
映像板に、これまでの技術提供の成果が表示された。
『第一次技術提供――酒造とアルコール発酵』
『第二次技術提供――乳製品の加工と発酵』
ムネモシュネ:「酒造技術および乳製品の加工技術について、地上での発展を確認しています」
テミス:「いずれも有益な成果でした。しかし、投書者が求める冬季の食料保存については、まだ十分な回答が得られていません」
アテナ:「保存性を高めるには、発酵以外の加工技術も重要になりそうだ」
プロメテウス:「一方で、人類は発酵技術を独自に発展させている。ほかの用途についても調査する価値はあるだろう」
ヘスティア:「あらあら、だったら料理への応用も調べてみたらどうかしら?」
テミス:「料理ですか?」
ヘスティア:「そうよ。発酵って、食べ物を長持ちさせるだけじゃないでしょう? 美味しくすることにも使えるのよ」
アルテミス:「確かに、乳製品も保存以外の目的で食べられていたわね」
アポロン:「食文化への影響という観点だね」
ヘスティア:「そうそう。食べ物っていうのは、毎日の楽しみでもあるんだから」
テミス:「……分かりました。保存技術の検討に関連する範囲で、料理への応用についても審議しましょう」
ムネモシュネ:「それでしたら、日本から興味深い報告が届いています」
テミス:「日本支部からですか?」
ムネモシュネ:「はい。食物を司る女神より、参考人として参加したいとの申し出がありました」
テミス:「正式な申請ですね?」
ムネモシュネ:「確認済みです」
テミス:「……それはよかった」
ヘルメス:「前回のこと、相当根に持ってるね」
テミス:「当然です」
コン。
テミス:「では、参考人の入室を許可します」
◇日本の発酵文化――食物の女神
ガチャ。
???:「失礼いたします」
現れたのは、穏やかな表情を浮かべた一柱の女神だった。
大宜都比売神。
日本神話に登場する食物の女神であり、五穀や食物の起源に関わる神として知られている。
オオゲツヒメ:「日本の食物を司る、オオゲツヒメと申します。本日はよろしくお願いいたします」
テミス:「ご丁寧に、こちらこそ、よろしくお願いします」
ヘスティア:「あらあら、遠いところからご苦労様。お茶でも飲む?」
オオゲツヒメ:「ありがとうございます。では、後ほどいただきます」
ヘルメス:「すっかりお客さんを迎えるお母さんだね」
ヘスティア:「あら、せっかく来てくれたんだから、おもてなししなくちゃ」
テミス:「……それでは、発酵技術の応用についてご説明をお願いします」
オオゲツヒメ:「はい。日本でも、微生物の働きを利用した食品加工技術が発展しております」
女神は、持参した小さな壺を机に置いた。
アレス:「何だ、それは?」
オオゲツヒメ:「味噌です」
ヘスティア:「あら、いい香りねぇ」
オオゲツヒメ:「大豆や米、麦などを原料に、麹の働きで成分を分解しながら、微生物による発酵や熟成を進めた調味料にございますわ」
アテナ:「麹菌が作る酵素と、ほかの微生物の働きを組み合わせているわけだな」
オオゲツヒメ:「はい。塩分や製法によって保存性も変わりますが、料理に深い味わいを与えてくれます」
ヘスティア:「それは素敵ねぇ。どんな料理に使うの?」
オオゲツヒメ:「では、こちらを」
オオゲツヒメが裏手でゴソゴソする。
そして湯気の立つ椀が並べられた。
テミス:「これは?」
オオゲツヒメ:「味噌汁です」
ヘスティア:「あらあら、美味しそう」
ヘルメス:「……ところで、一つ聞いてもいい?」
オオゲツヒメ:「はい。何でございましょう?」
ヘルメス:「それ、どこから出したの?」
目の前にはどこから出て来たのかわからない湯気の立つ、あったかい味噌汁。
会議室に、妙な沈黙が流れた。
オオゲツヒメ:「……調理場で作ってまいりました」
ヘルメス:「本当に?」
テミス:「ヘルメス。何の確認ですか?」
ヘルメス:「いや、ちょっとした噂を聞いたことがあるから…」
オオゲツヒメ:「…昔話でございましょう、噂には尾ひれがつきものでございますから」
ヘスティア:「あらあら、ヘルメス!」
ヘルメス:「ん?」
ヘスティア:「せっかく作ってきてくれたのに、そんな聞き方は失礼でしょう?」
ゼウス:「そうだぞ、ヘルメス」
ヘルメス:「……ごめんなさい」
ヘスティア:「それに、ちゃんと作ったかどうかは、調理場を確認すればいいじゃない」
テミス:「……もっともですね」
ムネモシュネ:「なお、過去の神話には、オオゲツヒメが身体から食物を取り出して振る舞ったという伝承が存在します」
ムネモシュネから爆弾が投下された。
ゼウス:「…………」
アレス:「…………」
アレスは、口まで行きかけた、手にしていた椀を静かに置いた。
オオゲツヒメ:「……今回は違いますわよ」
アレス:「……そうか」
オオゲツヒメ:「はい」
アレス:「……なら、いただこう」
ヘスティア:「あらあら、冷めちゃうわよ」
テミス:「……では、試食を続けてください」
ヘルメス:「ちなみに、昔の話って――」
テミス:「それ以上の追及は不要です。」
コン。
―木槌が打ち鳴らされた―
ヘスティア:「それじゃあ、冷めない内にいただきましょう」
ヘスティアが味噌汁を一口飲む。
ヘスティア:「……あら」
少し目を丸くした。
ヘスティア:「いいわねぇ。温かくて、ほっとする味だわ」
オオゲツヒメ:「お褒めいただき、ありがとうございます」
ヘスティア:「寒い日なんか、これがあったら嬉しいでしょうねぇ」
アルテミス:「山菜や茸を入れても美味しそうね」
オオゲツヒメ:「はい。地域や季節によって、さまざまな具材を利用しますわ」
プロメテウス:「食材を組み合わせることで、栄養面でも工夫できるわけか」
アレス:「肉を入れてもいいのか?」
オオゲツヒメ:「もちろんです」
アレス:「良し!」
テミス:「……何が『よし』なんですか」
アレス:「大事なことだ」
ヘスティア:「あらあら、野菜も食べないとだめよ」
ヘルメス:「アレス、好き嫌いは良くないよ」
アレス:「子供扱いするな!」
◇醤油という調味料
オオゲツヒメ:「続いて、こちらをご紹介します」
今度は、黒褐色の液体が入った小瓶を取り出した。
そして会議室にはいつの間にか、簡易キッチンが準備されていた。
既に熱した鉄板の上に肉が焼かれている。
ヘルメス:「何だい、その黒い液体は?」
オオゲツヒメ:「醤油です」
アテナ:「こちらも麹を利用するのか?」
オオゲツヒメ:「はい。大豆や小麦などを原料に、麹菌や酵母、乳酸菌などの働きを利用して造りますのよ」
ヘスティア:「あら、味噌とはまた違うのね」
オオゲツヒメ:「少量でも料理の味や香りを大きく変えられるんですよ」
アレス:「肉にも使えるか?」
オオゲツヒメ:「もちろんです」
アレス:「さっきも聞いた気がするが、大事なことだ」
オオゲツヒメ:「では、少し試してみましょう」
ジュウウウ……。
焼いた肉に醤油が垂らされる。
香ばしい匂いが、会議室に広がった。
ゼウス:「…………」
アレス:「…………」
ヘルメス:「…………」
アポロン:「……これは」
アレス:「美味そうだな」
ヘスティア:「あらあら、いい香り」
オオゲツヒメ:「加熱すると、香ばしさが一層引き立つんです」
アテナ:「発酵によって生じた成分が、加熱によってさらに変化するわけか」
ヘルメス:「これは人類、料理に凝り始めるね」
ヘスティア:「いいじゃない。毎日の食事が楽しくなるわよ」
ディオニュソス:「ワインにも合いそうだな!」
テミス:「……あなたは本当にブレませんね」
ディオニュソス:「酒の神だからな!」
ヘスティア:「あらあら、だったら食べすぎないようにね」
ディオニュソス:「……はい」
テミス:「…………」
テミスは、いつの間にか料理の試食会になりかけている会議室を見渡した。
テミス:「……一応、確認しておきますが」
一同:「?」
テミス:「本日の議題は、食料保存についてです。」
ヘルメス:「覚えてるよ」
アレス:「肉は保存できるのか?」
オオゲツヒメ:「醤油に漬けるなどの加工方法もありますが、保存できる期間は条件次第でございますね」
アレス:「なるほど」
テミス:「……よろしい」
コン。
―木槌が打ち鳴らされた―
◇酒から生まれる調味料
オオゲツヒメ:「では、次にご紹介したいのはこちらです」
女神が取り出したのは、透明な液体の入った小瓶だった。
ディオニュソス:「ほう。酒か?」
オオゲツヒメ:「いいえ。酢でございます」
ディオニュソス:「酢?」
オオゲツヒメ:「お酒に含まれるアルコールを、酢酸菌の働きで酢酸へ変えたものになります」
アテナ:「アルコールを酸化させる、酢酸発酵というわけだな」
ディオニュソス:「…………」
テミス:「どうしました?」
ディオニュソス:「待て!」
オオゲツヒメ:「はい?」
ディオニュソス:「せっかく造った酒を?」
オオゲツヒメ:「はい」
ディオニュソス:「さらに発酵させて?」
オオゲツヒメ:「はい」
ディオニュソス:「酸っぱくするのか!?」
オオゲツヒメ:「はい」
ディオニュソス:「なんという冒涜!!」
テミス:「大げさですね」
ディオニュソス:「酒が死んでいる!」
オオゲツヒメ:「いいえ。調味料として生まれ変わったのです」
ヘスティア:「あらあら、素敵な考え方じゃない」
ディオニュソス:「酒の神としては複雑なんだ!」
ヘルメス:「でも、酒を造る技術がなかったら、酢も造れなかったんじゃない?」
アテナ:「酒を原料とする醸造酢については、そうだな」
オオゲツヒメ:「つまり、ディオニュソス様のおかげでもあるのでございます」
ディオニュソス:「…………」
ディオニュソスは少し考える。
ディオニュソス:「……そうか」
テミス:「納得しましたか?」
ディオニュソス:「つまり私は、酢の発展にも貢献したということか!」
テミス:「間接的には」
ディオニュソス:「ならば、酢の神を名乗っても――」
テミス:「名乗らないでください」
コツ。
―木槌が打ち鳴らされた―
ヘスティア:「あらあら、肩書きを増やしたいの?」
ディオニュソス:「そういうわけではない!」
ヘスティア:「じゃあ、今のままでいいじゃない」
ディオニュソス:「……うむ」
ディオニュソスは酸っぱい表情をしていた。
ヘルメス:「また丸め込まれたね」
オオゲツヒメ:「酢は、料理に酸味を加えるだけでなく、適切な条件では食品の保存性を高めることにも役立ちます」
アルテミス:「魚や野菜にも使えそうね」
オオゲツヒメ:「はい。酢の物や酢漬けなど、さまざまな料理に利用できます」
ヘスティア:「あらあら、料理の幅が広がるわねぇ」
テミス:「保存技術としても、有用な例ですね」
ムネモシュネ:「発酵調味料の応用として記録します」
◇日本酒の製法
ディオニュソス:「ところで」
テミス:「…………」
ディオニュソス:「日本にも酒はあるのか?」
オオゲツヒメ:「もちろんございます」
ディオニュソス:「おお!」
テミス:「……嫌な予感がします」
オオゲツヒメ:「米を利用した日本酒でございますね」
ディオニュソス:「米から酒を造るのか!」
オオゲツヒメ:「はい。麹の酵素によって米のでんぷんを糖へ変え、その糖を酵母が利用してアルコールを生み出します」
アテナ:「糖化とアルコール発酵が並行して進む、特徴的な製法だな」
オオゲツヒメ:「詳しいお話は、こちらの方から」
ガチャ。
???:「失礼いたします」
現れたのは、落ち着いた佇まいの神だった。
松尾大神。
日本で酒造の守護神として信仰される神である。
マツノ:「日本の酒造について、少々ご説明させていただきます」
テミス:「よろしくお願いします」
マツノ:「日本酒には、冷やして飲む楽しみ方もあれば、温めて飲む楽しみ方もございます」
ディオニュソス:「温めるのか!?」
マツノ:「燗酒と申します」
ディオニュソス:「実に興味深い!」
マツノ:「温度によって香りや味わいの感じ方が変わりますので」
ディオニュソス:「ぜひ試してみたい!」
テミス:「試飲はしません」
ディオニュソス:「少しくらい――」
ヘスティア:「あらあら、ディオニュソス」
ディオニュソス:「…………」
ヘスティア:「この前、飲みすぎて会議室で寝てたでしょう?」
ディオニュソス:「……覚えていない」
ヘスティア:「あらあら。それが問題なのよ」
ディオニュソス:「…………」
ヘスティア:「今日はお話を聞くだけにしましょうね」
ディオニュソス:「……はい」
ヘルメス:「すごいな。テミスが木槌を叩く前に止まった」
テミス:「……助かります」
ヘスティア:「あらあら、いいのよ」
◇第三次技術提供――料理への応用
発酵技術の調査は、さらに広がっていった。
地上では、酒や乳製品に加え、さまざまな発酵食品が生み出されていた。
豆や穀物を利用した調味料。
野菜を発酵させた食品。
魚を塩とともに発酵させた食品。
そして、地域ごとに独自の食文化が形成されていった。
ムネモシュネ:「第三次技術提供に関する経過報告を行います」
テミス:「お願いします」
ムネモシュネ:「各地で発展した発酵食品の製法を調査し、有用な知識を共有した結果、食品加工技術のさらなる発展が確認されました」
映像板には、世界各地の食卓が映し出された。
パンとチーズ。
酒と肉料理。
味噌汁と米飯。
醤油を利用した料理。
酢で味付けされた野菜。
ヘスティア:「あらあら、どこの食卓も美味しそうねぇ」
アポロン:「料理が芸術にもなった」
プロメテウス:「技術の発展が文化の発展につながったわけだ」
アルテミス:「狩猟で得た肉や魚の加工にも応用できそうね」
アテナ:「発酵は、食品の風味や食感を変える技術としても大きな価値がある」
テミス:「……なるほど」
テミスは、これまでの成果を見渡した。
テミス:「食文化への貢献という点では、非常に大きな成果ですね」
ディオニュソス:「当然だ! 酒から始まった文明だぞ!」
ヘスティア:「あらあら、酒だけじゃないでしょう?」
ディオニュソス:「…………」
ヘスティア:「みんなで作った成果じゃないの」
ディオニュソス:「……そうだな」
テミス:「では、発酵技術の料理への応用を正式に評価します」
コン。
―木槌が打ち鳴らされた―
第三次技術提供、成果確認。
◇発酵食品は、本当に保存食なのか?
さらに長い年月が流れた。
人類は発酵技術を利用し、数多くの食品を生み出していた。
酒、ヨーグルト、チーズ、パン。
味噌、醤油、酢。
そして、各地に根付いたさまざまな発酵食品。
食卓は以前とは比べものにならないほど豊かになっていた。
しかし、オリュンポス本部へ、一通の追加報告が届いた。
ムネモシュネ:「地上観測の追加報告です」
テミス:「お願いします」
ムネモシュネ:「発酵食品の保存期間について、当初の想定と異なる結果が確認されました」
テミス:「……異なる?」
ムネモシュネ:「発酵食品の中には、比較的短期間で傷んでしまうものが多数存在します」
アレス:「……保存食じゃなかったのか?」
ヘスティア:「あらあら、発酵させれば何でも長持ちするわけじゃないのよ」
アテナ:「発酵によって酸やアルコールなどが生まれ、保存性が高まる場合はある。しかし、それだけで長期保存が可能になるとは限らない」
ヘルメス:「ほかの条件も重要ということかい?」
アテナ:「そうだ。塩分、水分、温度、衛生状態など、複数の条件が関係する」
ヘスティア:「例えばチーズだって、柔らかいものと硬く熟成させたものでは、保存できる期間が違うでしょう?」
アレス:「そうなのか」
ヘスティア:「そうよ。何でも同じように置いておいたら駄目なの」
ディオニュソス:「酒なら長持ちするぞ!」
アテナ:「アルコール濃度や保存条件による。すべての酒が長期保存に適しているわけではない」
ディオニュソス:「…………」
オオゲツヒメ:「味噌や醤油も、塩分や製造方法によって保存性が変わります」
テミス:「……なるほど」
テミスは、これまでの成果を白板に書き出した。
『酒造技術の発展』
『乳製品の発展』
『発酵調味料の発展』
『料理文化の発展』
そして最後に、一行を書き加えた。
『長期保存技術としての有効性――条件付き』
テミス:「…………」
ヘルメス:「あれ?」
テミス:「何です?」
ヘルメス:「そもそも、最初の投書って何だったっけ?」
ムネモシュネ:「冬を越すための食料保存についてです」
ヘルメス:「……冬は越せるようになったの?」
沈黙。
アレス:「…………」
ディオニュソス:「…………」
ヘスティア:「…………」
テミス:「…………」
アテナ:「発酵によって保存性が向上する食品もある。しかし、冬越しに必要な期間を確実に保存できるとは限らない」
ヘルメス:「つまり?」
テミス:「……当初の目的については、まだ課題が残っています」
ディオニュソス:「だが、酒は増えたぞ!」
アレス:「料理もうまくなった!」
オオゲツヒメ:「調味料も増えてございますね」
ヘスティア:「あらあら、食卓も豊かになったわねぇ」
ヘルメス:「……で、冬は?」
テミス:「…………」
コツ。
―木槌が小さく打ち鳴らされた―
テミス:「そこは、今後の課題とします」
ムネモシュネ:「承知しました」
ヘルメス:「何百年もかけて?」
テミス:「…………」
ヘルメス:「結局、保存方法を探してたんだよね?」
テミス:「…………」
ヘルメス:「最初から乾燥させた方が――」
カン!カン!カン!
テミス:「それを今言いますか!?」
◇そもそも、何を解決する会議だったのか
ムネモシュネ:「……テミス、一つよろしいでしょうか」
テミス:「何でしょう?」
ムネモシュネ:「今回の投書を、もう一度確認していただけますか?」
テミス:「……?」
テミスは、最初の投書を手に取った。
『毎年、冬になると食べ物が足りなくなって困っています』
『夏や秋に採れた食べ物を冬まで保存しておきたい』
『いっそのこと食べられるように腐らせてしまえば、長持ちするのではないでしょうか?』
テミス:「…………」
ムネモシュネ:「投書者が求めていたのは、発酵技術でしょうか?」
テミス:「……いいえ」
ムネモシュネ:「では、何でしょう?」
テミス:「冬を越すための、食料の確保です」
アテナ:「……なるほど」
ヘルメス:「ああ、そういうことか」
テミス:「私たちは、投書者が提案した方法に注目するあまり、そもそもの目的を見失っていたのですね」
ムネモシュネ:「はい。発酵技術そのものは有益でした。しかし、最初に検討すべきだったのは、冬季の食料不足をどう解決するか、という点だったかと」
プロメテウス:「食料の生産量を増やす方法や、地域間で融通する方法も考えられるな」
アルテミス:「保存方法だけでも、乾燥や塩蔵、燻製などがあるわね」
ヘスティア:「冬の間に食べられる作物や、家畜の利用方法もあるわよ」
テミス:「…………」
テミスは静かに木槌を置いた。
テミス:「……これは、司会として反省すべき点ですね」
珍しく、誰も茶化さなかった。
テミス:「投書者の意見を尊重することと、投書者が提示した方法をそのまま議題にすることは、同じではありません」
アテナ:「提案された手段が、本当に目的に適しているかを検討する必要があったな」
テミス:「本来なら、議論を始める前に確認すべきでした」
少し間を置き、テミスは白板に書き加えた。
『投書の提案ではなく、投書者が解決したい問題を見極めること』
コン。
―木槌が打ち鳴らされた―
テミス:「今後の会議運営における改善事項とします」
ヘスティア:「あらあら、気づけたんだから、次から気をつければいいじゃない」
ヘルメス:「でもさ、そんなに落ち込まなくても大丈夫じゃないか?」
テミス:「……と、言いますと?」
ヘルメス:「今までいろんな会議をやってきただろう」
テミス:「ええ、確かに」
ゼウス:「農業のこととか、道具のこととか、人類の暮らしのこと、いろいろやった気がするのう」
プロメテウス:「確かに、それぞれの議題で人類の生活を改善するための技術や制度を検討してきたな」
ヘルメス:「だったら、今回の会議だけで冬の食料問題を全部解決しなくても、ほかの会議の成果で結構フォローできてる気がしないか?」
テミス:「…………」
ヘルメス:「ほら、食料を増やす方法もあれば、保存する方法もある。運ぶ方法だってあるだろう?」
アテナ:「複数の技術や制度を組み合わせることで、一つの問題を解決できるということか」
ヘルメス:「つまり、会議ごとに全部解決しようとする必要はないんじゃないか」
ムネモシュネ:「……過去の議事録を確認します」
記録が次々と映像板に表示される。
ムネモシュネ:「確かに、食料生産、道具の改良、交易、物流など、関連する審議の成果を組み合わせる余地があります」
テミス:「……なるほど」
ヘルメス:「今回だって、発酵食品が増えたんだから、無駄じゃなかっただろう?」
ヘスティア:「あらあら、そうよねぇ。毎日の食卓が豊かになったもの」
プロメテウス:「それに、人類は技術を自ら発展させている。神々がすべてを決める必要もないだろう」
テミス:「……そうですね」
テミスは、白板にもう一つの項目を書き加えた。
『各会議の成果を相互に活用し、問題の解決につなげること』
コン。
―木槌が打ち鳴らされた―
テミス:「今後は、関連する議事録の確認と、会議間の情報共有も重視しましょう」
ムネモシュネ:「承知しました。関連議題の照合を、今後の議事録管理に反映します」
ヘルメス:「ほら、これでまた一つ改善できた」
テミス:「ええ。ありがとうございます、お手柄ですヘルメス」
ヘルメス:「どういたしまして!」
ディオニュソス:「つまり、酒の発展もほかの会議に貢献できるということだな!」
テミス:「……もちろん、適切な範囲であれば」
ディオニュソス:「では、次の議題は酒に合う――」
テミス:「その話は結構です」
コツ。
―木槌が小さく打ち鳴らされた―
ヘスティア:「あらあら、せっかくいい話だったのにねぇ」
◇発酵技術の評価と今後の課題
テミス:「では、最終的な結論をまとめます」
アテナ:「発酵技術は、食品の保存性を高める場合がある。しかし、必ずしも長期保存に適しているわけではない」
ヘスティア:「でも、食べ物を美味しくしたり、料理の種類を増やしたりするのには、とても役立つわねぇ」
オオゲツヒメ:「味噌や醤油のように、発酵によって食品の価値が高まる例もあります」
ディオニュソス:「酒もな!」
テミス:「……ええ。酒もです」
テミスは、白板に二つの結論を書き出した。
『第一項:発酵技術は、人類の食文化の発展に大きく貢献した』
『第二項:長期保存技術としては、別途検討が必要である』
テミス:「以上をもって、発酵技術の普及を正式に承認します。ただし、投書者が求めた冬越しの食料保存については、継続課題とします」
プロメテウス:「人類の食生活を豊かにしたことは、確かな成果だろう」
ヘスティア:「あらあら、保存だけが食べ物の価値じゃないものねぇ」
テミス:「その通りです」
ディオニュソス:「つまり大成功だな!」
テミス:「部分的な成功です。」
コン!
―木槌が打ち鳴らされた―
発酵技術の普及を承認。冬季の食料確保については継続審議。
◇酒に合う最高のツマミ
テミス:「以上をもちまして、本議題を終了します」
コン。
―木槌が打ち鳴らされた―
静寂。
テミス:「…………」
ようやく、終わった。
そう思った。
ディオニュソス:「それでは」
テミス:「?」
ディオニュソス:「酒の製造技術が認められたということで、次は酒に合う食べ物について考えようじゃないか」
テミス:「…………」
アレス:「肉だな!」
アポロン:「チーズもよいだろう」
マツノ:「魚の干物も捨て難いですな」
アルテミス:「燻製肉なんかも合いそうね」
ヘルメス:「ナッツとか?」
ゼウス:「うむ! よいではないか!」
ヘスティア:「あらあら、みんな食べるのが好きねぇ」
テミス:「待ってください」
ディオニュソス:「では次の議題!」
『酒に合う最高のツマミについて』
テミス:「議題を勝手に追加しないでください!」
アレス:「ワインには肉!」
アポロン:「チーズ!」
マツノ:「日本酒には魚!」
ディオニュソス:「酒の種類ごとに検証しよう!」
ヘスティア:「あらあら、そんなに一度に食べたらお腹を壊すわよ」
テミス:「会議は終了しています!」
しかし、誰も帰ろうとしなかった。
テミスが静かに木槌を握る。
そのとき。
ガチャ。
会議室の扉が開いた。
◇ホーライ、会議場を制圧する
入口には、三柱の女神が立っていた。
エウノミア、ディケ、エイレネ。
良き秩序を司るエウノミア、正義を司るディケ、平和を司るエイレネ。
三柱はホーライと呼ばれ、テミスの娘たちとして知られている。
三柱は、無言で会議室を見渡した。
酒瓶。
酒樽。
料理。
皿。
大量のチーズ。
そして、白板に書かれた新しい議題。
『酒に合う最高のツマミについて』
エウノミア:「…………」
ディケ:「…………」
エイレネ:「…………」
テミス:「…………」
三柱の視線がテミスに注がれる。
テミスは顔を背けた。
エウノミア:「お母様」
テミス:「はい」
エウノミア:「会議は終了したのではありませんか?」
テミス:「終了しました」
ディケ:「では、これは?」
白板を指す。
テミス:「私は関与していません」
即答だった。
ヘルメス:「早いね」
ディオニュソス:「いやいや、ちょうどよいところへ来た! 君たちも好きなツマミを――」
ディケ:「黙ってください」
ディオニュソス:「はい」
アレス:「強い」
エイレネ:「本来、会議終了後は速やかに退出し、職員が会議室を整備することになっています」
ゼウス:「まあまあ、少しくらい――」
エウノミア:「ゼウス様」
ゼウス:「はい」
エウノミア:「何日、通常業務を止めていますか?」
ゼウス:「…………」
アレス:「ゼウスが負けた」
アテナ:「相手が悪いな」
エウノミアが片手を上げた。
ガチャッ!
別の扉から、職員たちが入室する。
ヘルメス:「包囲されてるね」
アレス:「いつの間に!?」
ディケ:「酒類、回収」
職員:「はい」
ディオニュソス:「待て! それは私の――」
没収。
ディオニュソス:「あっ」
エイレネ:「食品類は厨房へ」
アレス:「その肉は俺の――」
回収。
アレス:「ああっ!」
エウノミア:「私物をまとめ、速やかに退出してください」
アポロン:「竪琴は?」
エウノミア:「私物ですので、お持ち帰りください」
アポロン:「はい」
神々が次々と退室していく。
ディオニュソス:「待ってくれ! まだツマミについて何も――」
ディケ:「正式に議題として提出されていますか?」
ディオニュソス:「いや…」
ディケ:「却下」
ディオニュソス:「では今から――」
エウノミア:「受付時間外です」
ディオニュソス:「明日なら――」
エイレネ:「明日は会議予定がありません」
ディオニュソス:「では、いつなら――」
三柱:『帰ってください』
ディオニュソス:「…はい」
最後まで残っていたゼウスが、ゆっくり立ち上がった。
ゼウス:「最高神として、一言よいか?」
エウノミア:「どうぞ」
ゼウス:「…………」
周囲を見る。
酒はない。
料理もない。
参加者もほとんどいない。
テミスは娘たちの後ろで、静かにコーヒーを飲んでいる。
ゼウス:「……本日の会議は、大変有意義であった」
エウノミア:「ありがとうございます」
ゼウス:「では解散!」
ディケ:「すでに解散しています」
ゼウス:「はい」
最高神、退室。
数分後。
エイレネ:「会議場、正常化しました」
ディケ:「無許可の飲食物、撤去完了」
エウノミア:「関係者、全員退出確認」
テミス:「…………」
娘たちを見る。
テミス:「助かりました」
エウノミア:「お母様」
テミス:「はい」
エウノミア:「もっと早く呼んでください」
テミス:「……はい」
ヘスティア:「あらあら、みんな頼もしくなったわねぇ」
エウノミア:「……ヘスティア様」
ヘスティア:「でも、あんまり厳しくしすぎちゃ駄目よ。お仕事が終わったら、お茶でも飲んで休みなさいね」
エウノミア:「……はい」
ヘルメス:「……ホーライまで面倒見られてる」
ヘスティア:「あら、ヘルメス。まだいたの?」
ヘルメス:「…………」
エウノミア:「退室を」
ヘルメス:「はい」
扉が閉まった。
こうして、発酵食品に関する審議は、ようやく完全終了した。
◇投書への回答
後日、正常化された会議室。
テミスは完成した決議書を手に、投書への正式回答を読み上げた。
コン。
【冬を憂う名もなき村人への正式回答】
発酵技術を利用することで、食品の保存性を高められる場合があります。
ただし、発酵させれば必ず長期保存できるわけではありません。
食品の種類や製法によっては、発酵後も短期間で傷んでしまうため、塩分、水分、温度、衛生状態などの管理が必要です。
一方、発酵技術は食品の風味や性質を変化させ、乳製品、酒、調味料など、多様な食品の発展に貢献しました。
冬を越すための食料保存については、発酵以外の技術も含め、引き続き検討することとします。
テミス:「以上です」
ムネモシュネ:「正式回答として記録しました」
テミス:「なお、追加事項として――」
『会議室への無許可の酒類持ち込み、および会議終了後の無許可の宴会を禁止する』
ムネモシュネ:「そちらも記録しました」
テミス:「……ようやく終わりましたね」
ムネモシュネ:「お疲れ様でした」
テミス:「……ありがとうございます」
テミスは、ようやく落ち着いてコーヒーを口にした。
◇欄外――冬を越すための保存食
こうして、人類は発酵技術によって豊かな食文化を手に入れた。
しかし、そもそもの目的であった長期保存については、必ずしも期待どおりの成果が得られたわけではなかった。
なお、この後、冬を越すための食料保存という課題は、乾燥や塩蔵などの技術の改良から、さらに時代を経て瓶詰や缶詰などの保存技術へと発展していくことになる。
――だが、それはまた別の会議の話である。




