第XX回 『食べられるように腐らせる方法』―オリュンポス本部― 前編
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議題: 食べられるように腐らせる方法
司会: テミス
書記: ムネモシュネ
参集メンバー: ゼウス、ヘルメス、アテナ、アポロン、アルテミス、アレス、プロメテウス、ヘスティア
参考人: ???
投書者: 冬を憂う名もなき村人
投書内容
毎年、冬になると食べ物が足りなくなって困っています。
夏や秋に採れた食べ物を冬まで保存しておきたいのですが、どうしても腐ってしまいます。
そこで思ったのですが、いっそのこと食べられるように腐らせてしまえば、長持ちするのではないでしょうか?
何か上手い方法はありませんか?
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オリュンポス本部、定例会議。
秩序と公正を司る女神テミスは、いつものように会議室の中央に立っていた。
隣では、記憶を司る女神ムネモシュネが記録の準備を整えている。
コン、コン。
―木槌が二度、打ち鳴らされた—
テミス:「それでは、第XX回神話系ミーティングを開会します。本日の議題は、 食べられるように腐らせる方法についてです」
ゼウス:「……何だ、その議題は?」
アテナ:「随分と物騒な表現だな」
ヘルメス:「でも、何をしたいかは分かるよ」
テミス:「地上の村人より、冬の食料保存について相談が届いています」
テミスが投書を読み上げる。
アルテミス:「冬の食料不足か。狩猟だけでは安定しない地域もあるでしょうね」
ヘスティア:「そうよ、冬の備えは家庭にとっても切実な問題よ」
プロメテウス:「食料が豊富な時期に蓄えられれば、冬の暮らしも随分と変わるだろう」
アレス:「で、食べられるように腐らせるって何だ?」
アテナ:「正確には、発酵について検討になるか」
テミス:「発酵?」
アテナ:「食品に微生物が作用することで、成分や性質が変化する現象です。その変化が人間にとって有用である場合、発酵と呼ばれることがある」
アレス:「腐敗と何が違う?」
アテナ:「微生物の働きによる変化という点では共通。ただし、人間にとって有益か、有害かという評価が異なる」
ヘルメス:「つまり、条件をうまく制御すれば、役立つ食品加工技術になるわけかい」
アテナ:「概ねその理解であっている。ただし、発酵食品なら必ず安全という訳でもない」
ムネモシュネ:「では、議題を『発酵について』に訂正しましょうか」
テミス:「投書者の発想を尊重して、そのままとしましょう」
ムネモシュネ:「……分かりました。議題名は原案を採用。審議対象は、発酵技術と食品の保存性として記録します」
テミス:「お願いします」
ヘルメス:「それなら、詳しい神様を呼んだ方がよくない?」
テミス:「心当たりが?」
ヘルメス:「いるじゃない。発酵の専門家が」
ゼウス:「うむ。酒のことなら詳しいだろう」
テミス:「……酒?」
ガチャ。
???:「待たせたな!」
葡萄の葉を飾った、陽気な青年が現れた。
ディオニュソス。
葡萄酒と陶酔、祝祭を司るギリシャ神話の神である。
ディオニュソス:「発酵の話をしていると聞いたぞ!」
テミス:「……まだ招集していませんが」
ディオニュソス:「発酵といえば酒だろう!」
テミス:「今回は保存食です」
ディオニュソス:「酒も発酵食品だ!」
テミス:「……それはそうですが」
そのとき、ディオニュソスは参集者の席を見渡した。
ディオニュソス:「……ん?」
視線が、栗色の髪をゆるくまとめ、生成りの衣に朱色の肩掛けをまとった一柱の女神のところで止まる。
ディオニュソス:「ヘスティアは呼ばれているのか?」
ヘスティア:「あら、ディオニュソス。久しぶりじゃないの」
ディオニュソス:「いや、久しぶりだが……」
ヘスティア:「ちゃんとご飯食べてる?」
ディオニュソス:「食べてるとも!」
ヘスティア:「お酒ばっかり飲んでちゃ駄目よ。たまにはちゃんとしたもの食べなさいね」
ディオニュソス:「……いや、そうではなくてだな」
ヘスティア:「あらあら、どうしたの?」
ディオニュソス:「なぜヘスティアは正式に呼ばれていて、私は呼ばれていないんだ?」
ヘスティア:「あらあら、そんなこと気にしてたの?」
ディオニュソス:「気にしているわけではない!」
ヘルメス:「……ああ、十二神の席の話?」
ディオニュソス:「違う!」
ヘスティア:「もう、昔のことじゃないの。細かいこと気にしないの」
ディオニュソス:「だから、気にしていないと言っている!」
ヘスティア:「はいはい。分かった分かった」
オリンポス十二神の一柱として数えられるのが、ヘスティアかディオニュソスか、諸説あり、ディオニュソスの心境は複雑かつ、ヘスティアには頭が上がらなかった。
ディオニュソス:「…………」
ヘスティア:「ほら、そんなところに立ってないで、こっちに座りなさいな」
ディオニュソス:「……いいのか?」
ヘスティア:「椅子くらいあるわよ。ねえ、テミス?」
テミス:「……正式な参考人としての参加でしたら、認めます」
ヘスティア:「ほら、よかったじゃない」
ディオニュソス:「……うむ」
ヘルメス:「完全にお母さんと息子だね」
ディオニュソス:「誰が息子だ!」
ヘスティア:「あらあら」
ディオニュソス:「…………」
テミス:「……では、ディオニュソスを参考人として迎えます」
コン。
テミス:「ただし、試飲会は禁止です」
ディオニュソス:「…………」
ヘスティア:「ほら、聞いてる?」
ディオニュソス:「聞いてる!」
ヘスティア:「あらあら、お返事は?」
ディオニュソス:「……はい」
ヘルメス:「本当にお母さんだ」
◇酒の神、発酵を語る
ディオニュソスは持参した葡萄の房を机に置いた。
ディオニュソス:「まず、葡萄には糖分がある」
アレス:「知ってる」
ディオニュソス:「その糖分を酵母が利用すると、アルコールと二酸化炭素が生まれる」
アテナ:「アルコール発酵だな」
プロメテウス:「なるほど。微生物の働きを制御して、食品を加工するわけか。人類にとって有益な技術になりそうだな」
ディオニュソス:「当然だ! 酒は文明を発展させる!」
テミス:「ただし、今回の目的は食料保存です」
ディオニュソス:「酒も保存できるぞ!」
アテナ:「適切な条件下では、アルコールによって保存性が高まる場合があります」
ディオニュソス:「ほら!」
アテナ:「ただし、すべての酒が長期保存に適しているわけではありません」
ディオニュソス:「…………」
ヘルメス:「まあ、実際に広めてみれば、ほかにも用途が見つかるかもしれないね」
テミス:「そうですね。では、まずアルコール発酵の基礎技術を提供し、その成果を観測しましょう」
コン。
第一次技術提供、承認。
◇一次技術提供の成果
――地上。
人類は、果実や蜂蜜などに含まれる糖分を利用し、酒を造る技術を発展させていった。
葡萄から造られるワイン。
蜂蜜を利用したミード。
さらに、穀物のでんぷんを糖へ変える技術と組み合わせることで、ビールをはじめとする穀物酒も発展していく。
各地で異なる原料と製法が用いられ、酒は単なる飲み物にとどまらず、祭礼や交易、宗教儀礼にも関わるようになっていった。
――長い年月が流れた。
オリュンポス本部。
ムネモシュネ:「第一次技術提供の経過報告を行います」
テミス:「お願いします」
ムネモシュネ:「地上では、各地で独自の酒造技術が発展しています」
映像板に、人類の暮らしが映し出された。
葡萄を搾る人々。
穀物を加工する人々。
酒を神々へ捧げる祭司たち。
そして、宴会を楽しむ人々。
ディオニュソス:「素晴らしい!」
アポロン:「音楽や祭礼との関係も深まっているようだ」
ヘルメス:「交易品としても価値があるみたいだよ」
プロメテウス:「人類は技術を受け取るだけでなく、自ら改良を重ねているわけか」
テミス:「文化的な発展としては、大きな成果ですね」
ディオニュソス:「だろう! 酒は文明だ!」
アレス:「しかし人類、糖分を見つけると何でも酒にしてないか?」
アテナ:「……否定できないな」
ディオニュソス:「それだけ酒が素晴らしいということだ!」
ゼウス:「うむ! 実に喜ばしい!」
ディオニュソス:「では、発酵技術の成功を祝して――」
テミス:「乾杯はしません」
コツ。
―木槌が小さく鳴らされた―
ディオニュソス:「…………」
テミス:「そもそも、冬の食料不足は解決したのでしょうか?」
ムネモシュネ:「現時点では、十分な成果は確認できていません」
テミス:「……そうですか」
ディオニュソス:「だが、酒は増えたぞ!」
テミス:「酒だけ増えても意味がありません!」
そのとき。
ヘスティア:「あらあら」
家庭と竈を司る女神ヘスティアが、穏やかに口を開いた。
ヘスティア:「みんな、すっかりお酒の話に夢中になっちゃって」
ディオニュソス:「酒造技術の成果を報告しているんだぞ!」
ヘスティア:「あらあら。立派なものねぇ」
ディオニュソス:「分かってくれるか!」
ヘスティア:「でもねぇ、お酒ばっかり飲んでたら、お腹が空いちゃうでしょう?」
ディオニュソス:「…………」
ヘスティア:「冬を越すんだったら、ちゃんと食べるものも用意しなくちゃね」
テミス:「……おっしゃる通りです」
ヘスティア:「あらあら、テミスも難しい顔して。少し休んだら?」
テミス:「いえ、まだ審議中ですので」
ヘスティア:「そう? 無理しちゃ駄目よ」
ヘルメス:「完全にお母さんだね」
ヘスティア:「それでね、私からも一つ提案があるんだけど」
テミス:「ぜひお願いします」
◇第二次技術提供――乳製品の加工と発酵
ヘスティア:「乳を使ってみたらどうかしら?」
アレス:「乳?」
ヘスティア:「そう。牛や羊、山羊から採れる乳よ。そのまま飲んでも美味しいけど、傷みやすいのが困りものなのよねぇ」
アルテミス:「なるほど、動物の乳の加工技術という訳なのね」
ヘスティア:「そうなの。そこで、乳酸菌の働きを利用するの」
アレス:「乳を腐らせるのか?」
アテナ:「発酵だ」
アレス:「……またその話か」
ヘスティア:「あらあら、そこは大事なところよ。何でも放っておけば食べられるようになるわけじゃないんだから」
アレス:「……そうなのか」
ヘスティア:「ちゃんとした方法で作らないと、お腹を壊しちゃうわよ」
アレス:「それは困るな」
ヘスティア:「でしょう?」
アテナ:「乳酸菌によって乳糖などが利用され、乳酸が作られることで、乳の酸性度が変化する」
ヘルメス:「それによって、ほかの微生物が増えにくくなる場合があるわけかい」
アテナ:「ただし、発酵した乳が必ず安全になるとは限らない」
ヘスティア:「ちゃんと作れば、ヨーグルトのような発酵乳になるのよ」
テミス:「なるほど。酒よりも、食料としての利用に向いていそうです」
ヘスティア:「それに、チーズもあるわよ」
ディオニュソス:「チーズ!」
ヘスティア:「あら、知ってるの?」
ディオニュソス:「ワインに合うからな!」
ヘスティア:「あらあら、結局お酒なのねぇ」
ヘルメス:「ブレないね」
ヘスティア:「チーズは乳を凝固させて、水分を取り除いたり、塩を加えたり、熟成させたりして作るの。微生物による発酵は重要よ」
ゼウス:「水分を減らせば、保存にも有利そうじゃの」
ヘスティア:「そうそう。よく分かってるじゃない」
ゼウス:「……まぁな」
ヘスティア:「もちろん、柔らかいチーズもあれば、長く熟成させる硬いチーズもあるから、全部同じように保存できるわけじゃないけどね」
プロメテウス:「家畜を飼う人々にとっては、有益な技術になるだろう」
テミス:「では、乳の発酵と加工について、適切な製造方法を人類へ提供しましょう」
コン。
第二次技術提供、承認。
◇第二次技術提供の成果
――地上。
人類は、家畜から得られる乳をさまざまな方法で加工していった。
乳酸菌を利用した発酵乳。
乳を凝固させ、水分を取り除いて作るチーズ。
塩を加えたり、熟成させたりすることで、風味や保存性を変化させる技術。
地域によって異なる気候や家畜、微生物環境のもと、多様な乳製品が生まれていった。
――さらに長い年月が流れた。
ムネモシュネ:「第二次技術提供の経過報告を行います」
テミス:「お願いします」
ムネモシュネ:「乳製品の加工技術が各地で発展しています」
映像板に、地上の光景が映し出された。
発酵乳を食べる人々。
乳を凝固させる人々。
チーズを熟成させる人々。
ヘスティア:「あらあら、みんな工夫してるわねぇ」
アテナ:「発酵だけでなく、水分の除去や塩分の利用によって、保存性を高めている例もあります」
ヘパイストス:「単純な発酵技術から、複数の加工技術を組み合わせる段階に進んだわけか」
プロメテウス:「人類の応用力は素晴らしいな」
テミス:「今回は、食料としての利用にも明確な成果が確認できましたね」
ムネモシュネ:「はい。ただし、乳製品の保存期間は種類や製法によって大きく異なります」
テミス:「……やはり、長期保存には課題が残りますか」
ヘスティア:「あらあら、焦らなくてもいいじゃない。少しずつ良くしていけばいいのよ」
テミス:「……そうですね」
ヘスティア:「それに、食べ物っていうのは、ただ長持ちすればいいってものでもないでしょう?」
テミス:「と、おっしゃいますと?」
ヘスティア:「美味しく食べられることも大切よ。せっかく作ったものなんだから」
アポロン:「確かに。食文化としての価値もありますね」
ヘスティア:「そうそう。家族みんなで美味しく食べられたら、それだけでも嬉しいものよ」
ディオニュソス:「そして、そこにワインがあれば完璧だ!」
ヘスティア:「あらあら。じゃあ、チーズでも切ってあげましょうか」
ディオニュソス:「おお!」
テミス:「……待ってください」
ヘスティア:「あら、テミスも食べる?」
テミス:「そうではなくてですね……」
ヘルメス:「もう料理の話になってるね」
アルテミス:「お肉とも合いそうよね」
ヘスティア:「はいはい。じゃあ、今度はお肉に合うものも考えましょうね」
テミス:「会議を料理教室にしないでください」
コツ。
―木槌が、打ち鳴らされた。
ヘスティア:「あらあら」
◇酒の神々、無断参加
ガチャ。
???:「酒造技術の発展と聞いて参った!」
テミス:「…………?」
さらに扉が開く。
???:「酒について議論していると聞いたぞ!」
???:「宴が開かれるのはこちらですか?」
テミス:「……誰が呼んだんですか?」
ディオニュソス:「私だ」
テミス:「帰ってください」
しかし、すでに世界各地から酒に関係する神々が集まっていた。
テミス:「……そもそも、正式な参加申請がありません」
ディオニュソス:「口コミだ」
テミス:「口コミで会議に割り込まないでください」
ゼウス:「まあ、酒造技術の成果を確認するうえでは、各地の神々の意見も参考になるのではないか」
テミス:「……試飲会にはしませんよ」
ディオニュソス:「もちろんだ!」
その返事だけは、妙に威勢がよかった。
そして、始まる酒の神々による酒の談義。
気がつけば会議室には、酒瓶、酒樽、杯が並んでいた。
テミス:「誰が酒を持ち込んで良いと言いましたか!?」
カン。
―木槌が、強く打ち鳴らされた―
アレス:「飲み比べないと違いが分からないだろ」
ゼウス:「うむ。学術的な調査だ」
アポロン:「ならば音楽も必要だろう」
テミス:「必要ありません!」
ディオニュソス:「では、発酵文化の発展を祝して!」
一同:『乾杯!』
テミス:「しません!!」
カン!カン!カン!
しかし木槌の音は、酒宴の喧騒に飲み込まれた。
その夜、発酵食品会議は事実上の酒宴となった。
翌朝。
オリュンポス本部、会議室。
テミスは、酒瓶と空の杯が散乱した会議室を見渡していた。
白板には、誰が書いたのか分からない文字が残されていた。
『発酵は文明である!』
その下に、
『酒はもっと文明である!!』
さらに、
『次回・世界の酒飲み比べ』
テミス:「…………」
最後の一文に大きな×をつける。
テミス:「却下です」
床で眠っていたディオニュソスが、寝言のようにつぶやいた。
ディオニュソス:「……まだ飲める……」
テミス:「帰ってください……」
ムネモシュネ:「なお、冬季の食料保存については、まだ結論が出ていません」
テミス:「…………」
ムネモシュネ:「発酵技術の普及は順調ですが、投書への正式回答は未作成です」
テミス:「……次回、必ず本題に戻します」
そう言って、テミスは静かにコーヒーを口にした。
―後編へ続く




