95 処刑
マデリーンは、嗅ぎ慣れた薔薇の香りに包まれた。
その香りを、彼女は誰よりも覚えていた。忘れられるはずがない。マデリーンが初めて彼にプレゼントした、手作りの香水。
「―――陛下……!」
「……マデリーン、無事か?」
彼女を守るように胸に抱きしめていたのは、ヴィルヘルムだった。
いつの間に目が覚めたのか、彼はしっかりと意識を保った状態でマデリーンの前に現れた。
白いシャツを着ていた彼の右腕は、ソフィアの攻撃のせいで血が滲んでいる。
おそらくマデリーンを庇う際に刺されてしまったのだろう。
「ヴィ、ヴィルヘルム……!」
「その汚らわしい口で……俺の名前を呼ぶな……!」
ソフィアはようやく会えたと彼に縋り付こうとしたが、拒絶されてしまった。
ヴィルヘルムはひと暴れしたソフィアに冷たい目を向け、さっさと連れて行けと命じた。
普段の彼からは信じられないほど、軽蔑に満ちた眼差しだった。
ソフィアはその事実にショックを受け、大人しくなった。
「さっさと歩け!」
「……」
彼女が連行されたあと、マデリーンはヴィルヘルムの左腕を止血しようと自身の服を破いた。
シャツが白いせいで、赤い血が目立つ。
「陛下、血が……!」
「これくらい大したことはないさ。それより、お前が無事でよかった……」
傷口からして相当の痛みだろうに、ヴィルヘルムはマデリーンを心配させまいと微笑んだ。
本当は病み上がりで身体がしんどいときだろう。
にもかかわらず、彼はここまで駆けつけ、彼女を守った。
マデリーンへの深い愛がなければ、到底できないことだった。
彼の思いを改めて察し、マデリーンは泣きそうになってしまった。
「陛下……すぐに王宮へ戻りましょう……」
「ああ……そうだな」
マデリーンはヴィルヘルムの肩を支え、彼と共に宮へ戻った。
***
王宮へ戻ると、怪我をしたヴィルヘルムを見た医者はぎょっとした。
当然だろう、ようやく目覚めたのにまた大怪我をして帰ってきたのだから。
マデリーンは治療中、片時も離れることなく彼の傍を守り続けた。
王妃としての責任感からではない。
一人の女として、彼の妻として、彼を心配していた。傍で支えたいと、心から思っていた。
何日も眠っていたせいか、ヴィルヘルムは身体が動かしづらかった。
そんな彼のリハビリに付き合ったのもまた、ほかでもないマデリーンだった。
ヴィルヘルムが支えなしで歩けるようになるまで、彼女は彼を叱咤激励し、すぐ傍に居続けた。
そんな彼女の応援が彼を突き動かしたのだろう。
ヴィルヘルムは予定よりも早く公務に復帰することができた。
彼の復帰と同時に、マデリーンもまたいつも通りの日常に戻った。
ちょうど、ソフィアたちの処遇が決まる時期だった。
「ソフィア元側妃はきっとただでは済まないでしょう」
「ええ、そうですね」
その日、マデリーンの元を訪れていたのは摘発作戦に協力したカルロスだった。
彼は話したいことがあると言い、マデリーンのいる王妃宮を訪問していた。
彼が今からする話に関しては、何となく想像がつく。
わかっていて、あえて彼の言葉を待っていた。
一人の子供の一生がかかっている。彼がそれを背負うに相応しい人間かを、彼女はきちんとその目で見極めたかった。
カルロスはふぅと深呼吸を繰り返したあと、ゆっくりと頭を下げた。
「──陛下、ソフィア元側妃のお腹の子を、レスティンブルク大公家に引き取らせてもらえないでしょうか」
「……」
予想通り、レスティンブルク大公家はソフィアの子の親権を欲しがっていた。
大罪を犯したソフィアの子供ではあるが、彼らにとっては大切なリチャードの子供でもある。
「そうですね、私もそのほうがいいと思っていました」
前世のようにヴィルヘルムの養子として育てるよりかは、祖父母と叔父のもとで愛情を受けながら暮らしたほうが子供にとっても幸せなはずだ。
ソフィアは大公一家の手に子供が渡るのを恐れていたようだが、少なくとも彼女では一人の子を育てることができないだろう。
「私が大公となり、私の養子としてあの子を育てていくつもりです。父も母も協力すると言ってくれています」
「そうね、あなたならきっとあの子を大切にしてくれるでしょう」
マデリーンはカルロスと関わり、既に彼の人柄をよく知っていた。
彼が私利私欲のために子供を利用するような人ではないこと、わかっていた。
見極めるだなんて、最初からそんなことをする必要はなかった。
「どうか、あの子を幸せにしてあげてね」
「もちろんです、陛下」
カルロスは力強く頷いた。
彼は一度決めたことは必ずやり遂げる人間だ。きっと、大切な兄の忘れ形見である子を愛情深く育てるだろう。
子供には何の罪もない。
マデリーンにできるのは、ただソフィアの子の幸せを願うことだけだった。
***
「―――痛たた……出産ってこんなにも大変なのね……全く知らなかったわ……」
数ヵ月後、監獄の中でソフィアは出産した。
彼女はおよそ半日にも及ぶ陣痛に耐え、黒い髪の元気な子供を産んだ。
彼と同じ夜空のように黒い髪を見たソフィアは、産婆を押しのけて医者に飛びかかった。
「私の子!私に抱かせなさい!私とヴィルヘルムの子なのよ!」
「キャッ!」
彼女は医者の手から赤子を奪い取った。
生後数日の赤ん坊を抱くと、なぜか心が温かくなるようだった。
あぁ、この世の誰よりも愛おしい私と彼の子。私が愛情たっぷり注いで育ててあげないと―――
子供の顔をハッキリ視界に入れたソフィアは、銅像のように固まった。
「え……何、これ……」
―――生まれた子供の瞳の色は、黄金色だった。
ヴィルヘルムの持つ黒色ではない。かといって、自分と同じ色というわけでもなかった。
どうして?どうして彼と同じじゃないの?
子供を抱いたソフィアの手が、震え始めた。
「嫌……嫌よ……気持ち悪い……」
イヤーッ!という叫び声と共に、ソフィアは赤ん坊を放り投げようとした。
傍にいた騎士が慌てて阻止し、子供を彼女から取り上げた。
「大人しくしろ!子供になんてことをするんだ!」
「嫌!嫌よ!どうして黄金色なのよ!どうして彼と同じ色じゃないの!」
ソフィアは長い幽閉生活に疲れ果て、リチャード・レスティンブルクという存在を完全に忘れていた。
彼女の頭の中を占めていたのは、心にいたのは、ヴィルヘルムだけ。
初めて彼と出会ったときから、ずっと変わらない。
「あぁ……ヴィルヘルム……早く私に会いに来てよ……」
こんなときでも、彼女が思う相手は同じ。
いつになったら迎えに来てくれるのか。どうしてこんなにも長い間私の元へ来ないのか。彼女はもはや、まともな判断ができずにいた。
出産から一週間が経過した頃、ソフィアの牢の扉が突然開いた。
見慣れない二人の騎士が、目の前に立っている。
「―――出ろ」
「ああ、やっと彼が迎えに来てくれたのね……!」
ソフィアは手枷をジャラジャラと鳴らしながら、監獄の外へ出た。
数ヵ月ぶりの、外の世界。
ようやくヴィルヘルムに会える。私がどれだけこのときを待ち望んでいたか。
当然、彼は気付いていないだろうけど。
ソフィアは光へと続く輝かしい道を歩き続けた。
彼に会うのは実に数ヵ月ぶりだった。
嬉しいような、悲しいような、何だか複雑な気持ちだ。
―――ねぇ、ヴィルヘルム。
私、実はまだあなたのこと許してないのよ。
一度でも他の女を愛したんだから、当然でしょう?
私という存在がありながら、他の女に心を抱き、私をこんなところまで追いやった。
今気持ちが戻ったところで、私の恨みが消えるとでも?
ソフィアは真っ赤な唇を醜く歪ませた。
もし、次あなたに会ったら……
―――そのときは、ちゃんと殺してあげるね?
これから先、私以外の女に目を向けられないように。
一度浮気した夫を、許すわけがないでしょう?
「あぁ……なんて素敵なのかしら」
愛するヴィルヘルムの血で染まる自分自身を想像し、彼女は恍惚の表情を浮かべた。
最後の彼の記憶に自分が刻まれるのなら、悪くはない。
しかし当然、ヴィルヘルムに会うことなどできるはずがなかった。
彼女が向かう先は、ヴィルヘルムの元でもなければ、マデリーンの元でもない。
絶え間なく響く民衆の罵声の下、先に処刑された者たちの血で汚れた断頭台だった―――
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