65 緊急事態
「――あら、マリーさんだわ」
「マリーさん、こんにちは!」
今日一日の仕事を終えたマデリーンが工場の外へ出ると、近隣住民たちが次々と彼女に声をかけた。
既にこの地区の人気者となった彼女は、あっという間に取り囲まれてしまった。
「皆さん、ごきげんよう」
「今日は良い天気ですね、マリーさん」
美しく心優しいマデリーンは、女性たちの憧れであり、男性たちの理想そのものだった。
「マリーさん、これプレゼント!」
「あら、いいんですか?嬉しいですね」
マデリーンに手渡されたのは、可愛らしいピンク色の紙に包まれた一粒のキャンディだった。
彼女がプレゼントを貰うのも、特に珍しいことではなかった。支援活動に積極的なマデリーンは、住民たちから好意的な目を向けられている。
「私もお姉ちゃんにプレゼント!」
「あら、ありがとう。チョコレートかしら?」
彼女の着ているワンピースのポケットは、あっという間にお菓子でいっぱいになった。
「マリーさん、このあとお茶でもどう?みんな、マリーさんとお話したいって言ってるんだけど」
「気持ちは嬉しいですが、今日は少し予定があるんです。また誘っていただけると嬉しいです」
「そう……残念だね」
スケジュールが迫っていたマデリーンは、そのまま立ち去って行った。
住民たちは、そんな彼女の後ろ姿をじっと見つめていた。
「そういえば、マリーさんって一体何者なんだろう?」
一人の少女がポツリと呟いた。
類を見ない美貌も、貴族のような立ち居振る舞いも、とても平民とは思えない。
「さぁ……噂によると、どこかの高貴なお嬢様なんじゃないかって」
「まぁ、そんなお方が身分を隠してこんなところに来ているだなんて……」
正直、信じられない。
彼らは全員、貴族には良い印象を抱いていなかったから。
いつも偉そうにしていて平民のことなんて何も考えていない、傲慢な貴族たち。
「マリーさんが何者であろうと、私たちが探るようなことではないよ。あの方が貴族だろうと平民だろうと、良い人に変わりはないんだから」
「それもそうですね……」
彼らはマデリーンの正体に薄々勘付いていながらも、あえて知らないフリをした。
***
それから数日が経つと、ヴィルヘルムの誕生日当日となった。
ちょうどマデリーンの回帰から二ヵ月が経過し、九月の上旬に差し掛かる。
猛暑の夏が過ぎ、季節は秋に移り変わった。この頃になると暑さもだいぶマシになってくる。
昼はまだまだ暑苦しいが、夜になると肌寒さを感じる。
(もうすぐ、冬になるんだなぁ……)
冬にはマデリーンの誕生日がある。
誕生日を祝われたことが一度もなかったせいか、特に気にしていなかった。
極寒の冬は好きではなかった。世の恋人たちからしたらロマンチックな存在であろう真っ白な雪も。
ちょうど実母が亡くなったのが、雪が降りしきる冬の日の夜だったからだ。
「王妃陛下、香水はきちんと国王陛下の元に贈っておきました」
「ご苦労様、助かったわ」
マデリーンはこの日、侍女にヴィルヘルムへのプレゼントを届けるよう依頼していた。
前世と違って二人の関係は良くなっているものの、それでもプレゼントを面と向かって渡す勇気はなかった。
以前からヴィルヘルムに贈り物を拒否されてばかりいたからだろうか。
マデリーンは過去を回想しながら、王妃宮の庭を一人歩いていた。
愛の象徴である薔薇園。マデリーンは真っ赤な薔薇にそっと手を触れた。
(今日は陛下も外には出ないでしょうし……ちょっとくらい好き勝手してもバレなさそうね)
ヴィルヘルムは母親の命日である誕生日は毎年部屋にこもっている。
おそらく、今年も部屋の外には出ないだろう。
「今日はどこにも出かけないのですか?」
「そうね……最近、ちょっと働きすぎているような気がするの。今日くらいゆっくり休もうかなって」
「それもそうですね。陛下は仕事をしすぎなんですよ」
侍女の言う通りだった。
最近のマデリーンは王妃の仕事に加え、ロベルタ伯爵が行っている事業の手伝いまでしている。
睡眠も毎日最低限で、休む暇もないような生活を送っていた。
(何だか眠くなってきたわ……まだ九時だけど、今日は早めに寝ようかな……)
いつも十二時近くまで起きていることの多いマデリーンだが、仕事の疲れが溜まっていたこともあり、散歩をやめて部屋に戻ることにした。
そのとき、背後から彼女に近づく足音が耳に入った。
「――王妃陛下に近づくとは、何者ですか!」
ついていた侍女は咄嗟に振り返り、その人物を制止した。
マデリーンも続いて後ろを振り向いた。
「…………あなた」
そこにいたのは、見覚えのある人物だった。
「――王妃陛下!どうか、どうかお助けください!」
目に涙を溜めて必死に訴えてくるその人物は、ソフィアの侍女の一人だった。
彼女は駆け寄ると、膝を地面についてマデリーンのドレスのスカートにしがみついた。
「助けてだなんて、どうかしたの?」
「実は、側妃様がお倒れになられてしまって……」
「……何ですって?」
侍女の話によると、妊娠中のソフィアが突然体調を崩して倒れたのだという。
部屋にこもっているヴィルヘルムを頼ることはできず、王宮内で次に権力の高いマデリーンの元へやってきたとのことだった。
彼女のお腹には、王家の血を引く子が宿っているのだ。いくらマデリーンがソフィアを好きではないとはいえ、放置することはできない。
「……わかったわ、側妃の元へ案内してちょうだい」
「はい、陛下」
彼女は感激したかのように目を輝かせた。
(大変だわ、大事には至らないといいけど)
しかし、このときのマデリーンは気付いていなかった。
―――彼女の見えないところで、侍女の口元が醜く弧を描いていることに。
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