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夫から三十年も放置されましたので、お飾りの妻は平気です~今さら愛されても困ります~  作者: 春乃りぜ
第二章 陛下の様子が変です

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60/100

60 彼の傷

マデリーンは目の前に立ちはだかるヴィルヘルムから顔を背けた。

ここへ来たことを咎められるのではないか、彼女は気が気ではなかった。



「陛下……」

「マデリーン……」



ヴィルヘルムは言葉を詰まらせる彼女にゆっくりと近づいた。



「……この怪我は、どうしたんだ?」

「あ……」



彼はマデリーンの絆創膏が巻かれた右手を取った。

つい昨日、薔薇の花びらを取り除くときに棘で刺してしまった箇所だった。プレゼントのことがバレてしまうといけないので、適当に嘘をつく。



「……紙で切ってしまったんです」

「そうか」



ヴィルヘルムはそれ以上深く追及することはしなかった。ただ、痛々しそうな表情で彼女の手を両手で握った。

予想外の彼の優しさを感じたせいか、今なら聞けるような気がした。



「陛下……一つだけお聞きしたいことがあるんです」

「……何だ?」



もしかすると、彼はこのときのマデリーンの表情から全てを悟っていたのかもしれない。

深刻そうな彼女の表情と、すぐ後ろにある側妃の宮。彼女が何を見たのか、誰にでも予想できる。



「――エステラ先代王妃陛下は、陛下にとってどのようなお方でしたか……?」

「……」



意を決して尋ねた彼女を前に、ヴィルヘルムは黙り込んだ。

エステラ王妃は人々にとっては、心優しい女性として広く知られていたからだ。

何て言えばいいのか、迷ってしまう。しかし、愛する女性に嘘をつくのは憚られた。



しばらくすると、彼はゆっくりと口を開いた。



「……俺にとっては、悪の権化のような人だったよ」

「……やはり、そうだったんですね」



ヴィルヘルムの返事は、マデリーンが予想していた通りだった。

おそらく彼は、エステラ王妃から虐待を受けていたのだろう。



(エステラ王妃の死因は事故死となっているけれど……きっと罪を重ねすぎて処刑されたのね)



そしてその後、彼女の実家である公爵家は社交界に姿を現わさなくなった。

表向きは娘の死を悲しんでいるからだと言われていたが……。



マデリーンは真実を確かめるように、彼の顔を見上げた。

目の下に濃いクマができている。何日もまともに眠れていないようだ。

彼の不眠症は噂に聞いたことがあったが、先代王妃の虐待が原因だったとは知らなかった。



「陛下が話したくないのであれば、私は聞こうとは思いません。部屋に戻りましょう。今日くらいはきちんと寝ないと、お互いに」



マデリーンは穏やかに微笑んだ。

眠れていないのは、実は彼女も同じだった。

とはいえ、ヴィルヘルムのように連続ではなく、今日だけだったが。



一日眠れないだけでも憂鬱だというのに、何日も続けて不眠が続く彼の気持ちは計り知れなかった。



マデリーンの提案にも、ヴィルヘルムは動こうとはしなかった。

何かに悩んでいるかのように、視線は宙を彷徨っている。



(……私たちは友達だもの。こういうときは手を引いてあげないと)



友情という意味の薔薇を送ったこともあり、マデリーンは既にヴィルヘルムを親友のような存在として見ていた。

彼の手を掴んだ彼女は、ゆっくりと本宮までの道のりを歩いた。

その間、ヴィルヘルムは特に抵抗することもなく、ただ黙って腕を引かれながら歩いていた。



お互いに一言も発さない、何とも不思議な時間だった。

だけど、不思議と気まずいとは感じなかった。前世を経て彼との関係が変わり、彼女がヴィルヘルムに抱く感情も変化している。



本宮についたマデリーンは、ヴィルヘルムの自室に入った。

実は正妻でありながら、彼の部屋に入るのは初めてだった。



(殺風景ね……陛下らしいと言えば、陛下らしいわ)



マデリーンはヴィルヘルムを室内の大きなベッドに寝かせた。

彼は横になると、彼女の意図を汲んだのか、すぐに目を閉じた。

ヴィルヘルムが眠りについて一安心したマデリーンは、部屋から立ち去ろうとした。



しかし、寝ているはずのヴィルヘルムが彼女の腕を掴んだ。

マデリーンは仕方がないなと思いながらも、しばらくは彼の傍を守り続けた。



(私の贈った薔薇……飾ってくれていたのね)



すぐ傍には、マデリーンがつい先日プレゼントした黄色い薔薇が花瓶に生けられていた。

捨てられていたらどうしようかと思っていたが、大切にしてくれていたようで安心した。



(この夜のこと、きっと一生忘れないだろうなぁ……)



彼女が初めて、彼の部屋で過ごした真っ暗な夜。

カーテンの隙間から見える夜空には、綺麗な星が浮かんでいた。



自身の手を離さないヴィルヘルムの姿が、なぜかとても弱々しく感じられる。

身体はずっと自分よりも大きいのに、縮こまっているせいか今日は小さく見えた。



どれだけ大きな傷を背負って生きてきたのだろうか。どれだけの苦痛に耐えてきたのだろう。

マデリーンは三十年以上も彼を見ていながら、全くそのことを知らなかった。



『――人々が口にする噂だけが真実とは思わないでください』



かつてダニエルに言われた言葉が、鮮明に頭によぎった。

愛していると口先だけで言いながら、彼のことをしっかりと見ていなかったことに、今さら気が付いた。



「おやすみなさい、陛下……」



ヴィルヘルムが完全に眠った頃、マデリーンはそっと彼の手を引きはがして部屋を出た。




読んでくださってありがとうございます!


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