60 彼の傷
マデリーンは目の前に立ちはだかるヴィルヘルムから顔を背けた。
ここへ来たことを咎められるのではないか、彼女は気が気ではなかった。
「陛下……」
「マデリーン……」
ヴィルヘルムは言葉を詰まらせる彼女にゆっくりと近づいた。
「……この怪我は、どうしたんだ?」
「あ……」
彼はマデリーンの絆創膏が巻かれた右手を取った。
つい昨日、薔薇の花びらを取り除くときに棘で刺してしまった箇所だった。プレゼントのことがバレてしまうといけないので、適当に嘘をつく。
「……紙で切ってしまったんです」
「そうか」
ヴィルヘルムはそれ以上深く追及することはしなかった。ただ、痛々しそうな表情で彼女の手を両手で握った。
予想外の彼の優しさを感じたせいか、今なら聞けるような気がした。
「陛下……一つだけお聞きしたいことがあるんです」
「……何だ?」
もしかすると、彼はこのときのマデリーンの表情から全てを悟っていたのかもしれない。
深刻そうな彼女の表情と、すぐ後ろにある側妃の宮。彼女が何を見たのか、誰にでも予想できる。
「――エステラ先代王妃陛下は、陛下にとってどのようなお方でしたか……?」
「……」
意を決して尋ねた彼女を前に、ヴィルヘルムは黙り込んだ。
エステラ王妃は人々にとっては、心優しい女性として広く知られていたからだ。
何て言えばいいのか、迷ってしまう。しかし、愛する女性に嘘をつくのは憚られた。
しばらくすると、彼はゆっくりと口を開いた。
「……俺にとっては、悪の権化のような人だったよ」
「……やはり、そうだったんですね」
ヴィルヘルムの返事は、マデリーンが予想していた通りだった。
おそらく彼は、エステラ王妃から虐待を受けていたのだろう。
(エステラ王妃の死因は事故死となっているけれど……きっと罪を重ねすぎて処刑されたのね)
そしてその後、彼女の実家である公爵家は社交界に姿を現わさなくなった。
表向きは娘の死を悲しんでいるからだと言われていたが……。
マデリーンは真実を確かめるように、彼の顔を見上げた。
目の下に濃いクマができている。何日もまともに眠れていないようだ。
彼の不眠症は噂に聞いたことがあったが、先代王妃の虐待が原因だったとは知らなかった。
「陛下が話したくないのであれば、私は聞こうとは思いません。部屋に戻りましょう。今日くらいはきちんと寝ないと、お互いに」
マデリーンは穏やかに微笑んだ。
眠れていないのは、実は彼女も同じだった。
とはいえ、ヴィルヘルムのように連続ではなく、今日だけだったが。
一日眠れないだけでも憂鬱だというのに、何日も続けて不眠が続く彼の気持ちは計り知れなかった。
マデリーンの提案にも、ヴィルヘルムは動こうとはしなかった。
何かに悩んでいるかのように、視線は宙を彷徨っている。
(……私たちは友達だもの。こういうときは手を引いてあげないと)
友情という意味の薔薇を送ったこともあり、マデリーンは既にヴィルヘルムを親友のような存在として見ていた。
彼の手を掴んだ彼女は、ゆっくりと本宮までの道のりを歩いた。
その間、ヴィルヘルムは特に抵抗することもなく、ただ黙って腕を引かれながら歩いていた。
お互いに一言も発さない、何とも不思議な時間だった。
だけど、不思議と気まずいとは感じなかった。前世を経て彼との関係が変わり、彼女がヴィルヘルムに抱く感情も変化している。
本宮についたマデリーンは、ヴィルヘルムの自室に入った。
実は正妻でありながら、彼の部屋に入るのは初めてだった。
(殺風景ね……陛下らしいと言えば、陛下らしいわ)
マデリーンはヴィルヘルムを室内の大きなベッドに寝かせた。
彼は横になると、彼女の意図を汲んだのか、すぐに目を閉じた。
ヴィルヘルムが眠りについて一安心したマデリーンは、部屋から立ち去ろうとした。
しかし、寝ているはずのヴィルヘルムが彼女の腕を掴んだ。
マデリーンは仕方がないなと思いながらも、しばらくは彼の傍を守り続けた。
(私の贈った薔薇……飾ってくれていたのね)
すぐ傍には、マデリーンがつい先日プレゼントした黄色い薔薇が花瓶に生けられていた。
捨てられていたらどうしようかと思っていたが、大切にしてくれていたようで安心した。
(この夜のこと、きっと一生忘れないだろうなぁ……)
彼女が初めて、彼の部屋で過ごした真っ暗な夜。
カーテンの隙間から見える夜空には、綺麗な星が浮かんでいた。
自身の手を離さないヴィルヘルムの姿が、なぜかとても弱々しく感じられる。
身体はずっと自分よりも大きいのに、縮こまっているせいか今日は小さく見えた。
どれだけ大きな傷を背負って生きてきたのだろうか。どれだけの苦痛に耐えてきたのだろう。
マデリーンは三十年以上も彼を見ていながら、全くそのことを知らなかった。
『――人々が口にする噂だけが真実とは思わないでください』
かつてダニエルに言われた言葉が、鮮明に頭によぎった。
愛していると口先だけで言いながら、彼のことをしっかりと見ていなかったことに、今さら気が付いた。
「おやすみなさい、陛下……」
ヴィルヘルムが完全に眠った頃、マデリーンはそっと彼の手を引きはがして部屋を出た。
読んでくださってありがとうございます!
ブクマ、いいね、評価などしていただけたら励みになります!




