32 芽生え始めた思い
その頃、ヴィルヘルムは執務室にいた。
執務中の彼の頭に浮かんでいたのは、妻のマデリーンだった。
つい先日彼女に言われた言葉が、彼の頭の中を永遠にループしていた。
『――最初から完璧にやらなくていいんです。回数を重ねていけば、きっといつかは上手にできるはずですから』
優しい笑顔を浮かべたマデリーンが、彼を慰めるようにそう言った。
ヴィルヘルムはルバーニ王家唯一の後継者として大切にされながらも、かなり厳しく育てられた。
幼い頃から全てを完璧にしなければならない、最初から満点でなければ意味がないと言われ続けた。
そんな彼にとって、マデリーンの言葉は救いだった。
きっといつかは上手にできるのだから、最初のうちは気にしないでいいと彼女は言った。
長い間重圧に押しつぶされそうになっていたヴィルヘルムは、その一言で気持ちが楽になった。
当然、彼女自身はそんなこと知る由もないだろうけど。
「陛下、せっかく私が王妃陛下に会わせてあげたというのに……前よりも執務に身が入っていないとはどういうことですか?」
「……彼女が気になってたまらないんだ」
「……もしや――ウィリーとして過ごしている間に王妃陛下と何かあったのですか?」
そう、ダニエルの部下ウィリーとはまさに姿を変えたヴィルヘルムだった。
あの日、ダニエルはヴィルヘルムに王妃の心を探るためにある提案をした。
それが、魔法で姿を変えて彼女に接触することだった。ヴィルヘルム相手では確実に良い面だけを見せようとするはずだから、彼は別の人物になる必要があった。
魔法を使って黒い髪を銀髪に変え、瞳は緑色にした。声までも変えるという徹底っぷりのおかげで、マデリーンはあれだけ執着していたヴィルヘルムにまるで気が付いていなかった。
どうせすぐにボロが出るだろうと思っていた彼だったが、マデリーンは以前とは別人のように穏やかで優しかった。
傲慢で気位が高い前とは打って変わって、お淑やかで高潔ささえも感じてしまうほどである。
こんなにも短期間で、人があそこまで変わるとは、ヴィルヘルムは信じられなかった。
(それに、彼女のあの言葉……)
『――今さら、遅すぎるのはわかっています。でも、せめて何かできないかなって……贖罪がしたいんです』
あのときのマデリーンの瞳に、嘘は感じられなかった。
おそらく彼女の贖罪がしたいという気持ちは本当なのだろう。
「そういえば陛下、前もマデリーン陛下の元へ行ったと聞きました。一回会えばわかるでしょうに……どうしてそんな面倒なことを?」
「う、うるさいな!一回だけでは彼女の真意を探ることができなかったんだッ」
ヴィルヘルムは何とか言い訳をし、本当の理由を誤魔化した。
――マデリーンに会いたいから、わざわざボランティアに参加したなんて照れくさくて言えなかった。
なぜかはわからないが、あの日から彼女の傍がとても心地よく感じてしまったのだ。
優しい言葉をかけられたからだろうか。だとしても、相手はあの最恐ストーカーのマデリーンだ。
あり得ないと思いながらも、ヴィルヘルムはつい足が動いていた。
「王妃は贖罪がしたいと言っていた」
「贖罪……王妃陛下もようやくまともになったようですね」
ヴィルヘルムが聞いた彼女の本当の気持ちに、ダニエルは笑みを溢した。
彼もまた、王妃の行動を不可解に思っていたうちの一人だった。あのとき見た彼女は雰囲気が変わっていたし、おそらくもう二度とヴィルヘルムに害はなさないだろう。
そう結論付けたダニエルは、ヴィルヘルムを安心させるようにその肩に手を触れた。
「陛下……王妃陛下のことをそっとしておいてあげてはいかがですか?彼女は彼女なりに、罪の償いがしたいんですよ。私たちが動くことは何も……」
「――いや、俺が彼女の行動を支援してあげなければならない」
「……………………はい?」
ヴィルヘルムの言葉に、ダニエルは口をぽかんと開けて固まった。
やっと王妃のことを気にせず執務に励んでくれると思っていた彼にとって、その答えは青天の霹靂だった。
「彼女の贖罪は、俺が手伝ってあげなければいけない」
「な、何を言っているんです……?」
そっとしておけばいいものを、手伝うだと?
ダニエルは呆れた様子でヴィルヘルムに尋ねた。
「またウィリーとしてマデリーン陛下に会いに行くおつもりですか?」
「……悪いか?」
「執務が終わらないとこっちも困るんですけど」
ダニエルは引きつった笑顔で答えた。
しかし、もはやヴィルヘルムは部下のそんな気苦労など眼中にもなかった。
今、彼の心にいるのは放置し続けてきた妻マデリーンだけ。
(俺は……もしかして、王妃に恋をしているのか……?)
彼女の笑顔が脳裏によぎり、彼は他人から冷たいと称される顔を真っ赤に染めた。
トクントクンと鼓動する胸。あの日から、幻想の中にいる彼女に何度も手を伸ばしかけた。
触れたいと願っても、あと少しのところで届かない。もどかしくてたまらない。
少し前まではいつも自分だけを映していた瞳が、今は他のものに向けられている。もし、彼女に他の男ができたとしたら――彼は耐えられそうもなかった。
「俺はどうかしてしまったようだな……」
ヴィルヘルムは鳴り止まない心臓と、溢れ出る感情を何とか抑え込むので精一杯だった。
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