嫌疑
ため息をつき、大きく背伸びした後、カーテンを開けた。白い鼠色で輪郭があやふやな雲が空を覆っている。
窓を開け、首を突き出したが、青空の欠片は見つからなかった。もう夏休みに入ったのか、子供たちの声が響いている。
昼過ぎに中本から電話があり、居酒屋で飲むことになった。仕事のことが気になったものの、行き詰っているときは気分を変えるのが一番だ。
玄関を出ると、向かいの奥さんがこちらに背を向けて二人の息子を抱き寄せた。俺が会釈すると、肩越しに軽く会釈を返す。目を伏せ、表情をこわばらせているように見えた。
歩きながら、自分の服装をチェックする。Tシャツとデニムにスニーカー。ズボンのファスナーも確認したが、上まで閉まっている。気のせいだろうと言い聞かせた。
国道沿いにある「よいしょ」という居酒屋に入ると、一番奥の四人掛けのテーブル席に中本が座っていた。
「おぅ」
「よぉ」
鞄を置いて椅子に座る。まだ、それほど遅くないのに、多くの人がすでに顔を赤らめている。
話し声や食器の音、足音、バックグラウンドミュージック、椅子を引く音、注文を取る声、雑多な音がひとつにまとまって耳になだれ込んでくる。
「とりあえず、ビールでええか?」
「うん」
おしぼりをもって注文を取りに来た店員に、声を張って中ジョッキを二つ注文する。
「たばこ、吸うていい?」
中本は、そういうのと同時に、煙草の箱から煙草を一本取り出し、口にくわえた。
「ええよ」
ジッポライターの火に煙草の先端を近づけると、炎が吸い寄せられて、ジジジと音を立てながらオレンジ色に輝き、紫の煙がゆらりと立ち上った。
「お前、煙草は?」
「やめた」
「へぇ。ようやめれたな。俺はあかんわ」
煙草の煙が中本の諦め言葉とともに吐き出され、目の前が白く濁った。
店員がジョッキを持ってやってきたので、焼き鳥の盛り合わせと枝豆、キムチを注文した。
「乾杯しよか」
「おう」
二人はジョッキを持ち上げ、ぎこちなくジョッキを合わせた。
「ほんま久しぶりやな。何年振りやろ」
「高校卒業以来やから、十……いや、二十……二十七年か。えーっ」
「二十七年はびっくりやな。でもそっか、俺はすぐに東京に出たしな」
「そうやったな」
肉が付き、深くなったしわが年齢を物語っているけれども、笑う表情には中学の頃の面影がわずかににじみ出ている。
「中本は、結婚してんの?」
「うん。お前、知ってるかな。中三のとき、四組やった川本と」
「へぇ。同級生同士の結婚って、身近であるもんなんやな。写真とかないの?」
「これ」
中本は、少し照れ臭そうに笑いながら、スマートフォンに妻と子供の写真を表示させ、俺に見せた。
優しそうな女性が、女の子の横にしゃがんで一緒にピースサインを出している。
「あぁ、この人な。わかるわかる。子供いてるんや。へぇ」
俺は、スマホを中本に返し、手持ち無沙汰になった右手でジョッキをつかむ。
「蒼太、結婚は?」
「バツイチ」
中本は、あっという間にジョッキを空けて、通りかかった店員に生ビールを一つ注文する。
「子供は?」
「おらんよ」
「そか」
枝豆とキムチが運ばれてきた。
「なんで別れたん?」
「分かりやすく言うと、性格の不一致やな。俺が幼かったんやと思うわ」
「ほぉ」
「わがまま言うたつもりはなかったんやけど、出版社辞めてフリーランスになりたい言うたら、そこから亀裂が入って」
「なるほどな」
「そこから大変やったわ」
店の照明が煙草の煙に白くぼんやりと反射して、非日常の空間を作り出す。酒と煙草による麻痺と刺激が、気持ちを解放させ自分を語らせる。
「そういえば、中村どうしてるか知ってる?」「あぁ、何か聞いたな。海外にいてるとか……」「三組の川村、二年の時、金沢と付き合ってたんやで」「へぇ、それは知らんかったわ」「一組やったゲンさん、煙草で停学くらってたやろ?」「そうやったっけ? 覚えてないわ」
二人とも酔いが回って、椅子の背もたれにだらしなくもたれかかっている。
「そうや、忘れとった。蒼太、今週の回覧板、見た?」
「回覧板? 見てないけど」
「ここ数か月、学校近くの公園で不審者が目撃されてるらしい」
「へぇ」
「遊ぶ子供をスマホで盗撮するんやって。気持ち悪いやろ」
「気持ち悪いな」
中本は、上半身を起こし、テーブルに両肘をついて、前のめりになって話し続ける。
「犯人は、百七十センチ前後の中肉中背、年齢三十から四十代。髪を後ろで束ねて、サングラスをしているらしい」
「まるで俺やんか」
枝豆を手に取って、呆れて、半分笑いながら返すと、中本が神妙な面持ちで続けた。
「笑いごとやないんや。そういう情報が流れてる」
「え?」
「お前、ずっと家におるやろ? 昼間の目撃情報もある。狭い町やからな」
「怖いこというなよ」
酒のせいだけでなく、鼓動が強くなり、嫌な汗がにじみ出る。中本は、煙草を絶え間なく吸い続けている。
「PTAを侮らんほうがいい。俺、役員してるんやけど、主婦の情報収集力は半端ない」
「おいおい、まるで俺が犯人で決定みたいな言い方やないか」
急に中本が、知らない人に見えた。
「あ、あぁ……。そういうことか。腑に落ちたわ」
「なに?」
「向かいの奥さんが、俺を見て子供をかばうようにしたんや」
中本の表情と声色が硬くなる。
「俺も親やから、一応聞いておく。気を悪くしないで欲しい。お前、してないよな?」
「するか!」
「よかった。お前を信じる」
中本は、取り繕うようにジョッキを持ち上げ、ビールを流し込む。俺もどのようなリアクションが正解なのかわからず、同じようにビールを飲んだ。
店を出て、国道の歩道の端っこを一人でゆっくり歩く。信号待ちしている改造車の爆音が頭蓋骨に響いて痛い。
街の光を反射してぼんやりと明るい雲から雨粒が落ちて、俺の額に命中した。




