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ヴィクトリア朝の特許事務所 ― 魔法の権利、保護します  作者: みんとす
第一章 魔法を特許庁に出した日
6/17

6. 橋の下

 昼になっても。

 夜になっても。


 アラベラは大学へ問い合わせ、下宿を訪ねた。大家は怯えた顔で言った。


「昨夜、先生は熱があるようでした。外套もなく出て……まだ戻りません」


 アラベラはすぐにブライスを訪ねた。

 彼は顔色を変えた。それからほんの一瞬、自分の研究室と、学部長の顔と、大学での自分の立場を考える目をした。だがそれは本当に一瞬だった。


「探そう」


 外套を取る途中で、彼は言った。


「あいつは一人で飲まない男だが、追い詰められると別だ。心当たりはある」


 それだけで十分だった。



 アラベラとブライスは二手に分かれた。


 ブライスはキングズ・カレッジ周辺からストランド沿いの酒場へ向かった。追い詰められたときに限ってカウンターの端に座る男だ。


 一軒目は空振りだった。二軒目で似た背格好の男を見つけたが、人違いだった。

 三軒目。四軒目。ストランドの灯りが途切れ、テムズ河畔の暗がりに出た。ブライスは足を止め、冷えた手を息で温めた。エドウィンがここにいる理由はない。どこにもいないのかもしれない。


 アラベラはリンカンズ・インからブラックフライアーズ方面へ向かった。法曹の街の夜は静かだ。ガス灯が石畳を黄色く染め、遠くで辻馬車の蹄が鳴る。彼女はこの道を何年も歩いてきた。法廷への書類を届けに、夜遅くまで。だが今夜は、自分が守ると決めた人間を探して歩いている。


 下宿はその途上にあった。大家をもう一度訪ねた。大家は玄関口に立ったまま、夜着の上に肩掛けを巻いていた。


「出るときの様子は」


「南の方へ……橋の方へ歩いていきました。呼び止めたのですが」


 南。橋の方。それだけだった。


 ネルには何も告げていない。

 ネルはテムズ南岸を走った。


 サザーク。ネルが育った街だ。


 石畳は北岸より荒く、ガス灯の間隔は広い。テムズの臭気が夜霧と混じり、喉の奥を擦る。倉庫の壁の影に猫が光り、遠くの汽笛が河面を滑ってくる。コスターモンガーの荷車が一台、売れ残りを片づけもせず橋のたもとに放置されていた。


「外套もない紳士を見なかったか」


 夜番の男に聞く。首を振られた。荷車の傍で焼き芋を売っていた老婆に聞く。「さあね」。


 ネルは土地を知っていた。人を知っていた。誰に声をかければ夜の南岸で情報が取れるか、身体が覚えている。だが今夜は、その身体が空回りしていた。知っている顔に聞き、知らない顔にも聞き、誰も見ていなかった。


 バンクサイドの古い階段を降りかけたとき、河岸で番をしていた老人が声をかけてきた。


「お嬢ちゃん、ずいぶん走り回ってるな」


「人を探しています。外套もない紳士を見ませんでしたか」


「紳士かは知らんが、ブラックフライアーズの下手で、ずっと座っている男はいたな。紙を持っていた」


 ネルは走った。


 ブラックフライアーズ橋のたもと。川辺の石段。


 エドウィンがいた。

 濡れたまま座り込んでいる。ノートを抱えている。傍らにマッチの箱があった。


 ネルはそこで止まった。


 声をかけようとした。だが、足が動かなかった。

 ソーベルに会いに行ったとき、何が起きたか。あの男を追い詰め、事故が起き、人が傷つき、そしてこの男がここにいる。


 自分が声をかけるべき人間ではない。


 ネルは踵を返した。走った。来た道を戻り、橋を渡り、北岸の通りをアラベラの姿を求めて駆けた。



 アラベラがネルの声を聞いたのは、ブラックフライアーズ橋の北詰だった。


「先生! いました。橋の下手、南岸の石段です」


 ネルは息を切らしていた。だがそれ以上は言わなかった。自分が見たものの描写も、自分の感想も、何も付け足さなかった。


 アラベラは走った。



 石段にエドウィンがいた。

 靴が片方脱げかけていた。襟は雨で首に貼りつき、膝の上のノートだけを庇うように背を丸めている。


 彼はもう長い時間ここにいた。


 雨が降り始めてから、どのくらい経っただろう。テムズが黒く光り、対岸の倉庫の灯りが水面に揺れていた。彼はノートを膝の上に置き、マッチを一本だけ擦った。炎が橙色に揺れて、ノートの表紙を照らした。


 百回の失敗。成功の夜の涙。請求項を巡る喧嘩。「あなたが見つけたものを世界へ着せる服が要るからです」。あの言葉を信じた。出願書類がまとまりかけた朝、窓際に立って安心した。守られると思った。


 二度信じた。

 二度裏切られた。

 一度目は発見が奪われた。二度目は安堵が奪われた。

 三度目はない。


 マッチの炎が指先に近づいて、痛みで手を振った。火は消えた。ノートは濡れていた。雨で濡れて、燃えなかった。


 それが何かの啓示だと思えるほど、彼はもう楽観的ではなかった。ただの物理だ。水は紙を燃えにくくする。そこに意味はない。


 だが指は、もう一本のマッチを擦らなかった。


「帰るぞ」


 ブライスの声だった。北岸の酒場を回って見つからず、ブラックフライアーズ橋を渡ってきたらしい。外套の肩が濡れていた。


 エドウィンはノートを見たまま言った。


「燃やそうと思った」


 間があった。


「これがなければ、誰も傷つかない。ソーベルも盗まなかった。事故も起きなかった。あの男の手も焼けなかった。全部、これが始まりだ」


 アラベラは怒るより先に震えた。

 怖かったのだ。

 ノートがなければ全て起きなかった——だが同時に、文鎮が三インチ浮いた夜も起きなかった。


 このまま彼が死んでも、きっと世間は"気の病んだ学者"の一行で済ませる。

 そしてソーベルだけが、残った紙で勝つ。


「いいえ」と彼女は言った。

 雨の音に負けぬように。


「それだけは駄目です」


「なぜ」


「あなたが死ぬのは勝手です」


 ブライスがぎょっとした。

 だがアラベラは止まらなかった。


「けれど、そのノートを道連れにするのは許しません。

 あなたはそれで終われても、残された側は終われない。

 ソーベルが勝つ。

 粗悪な模倣が、本物の顔をする。

 あなたは傷だけ残して逃げることになる」


 エドウィンがようやく彼女を見た。


「逃げる、か」


「ええ。

 高潔に壊れようとしているだけです」


 引き出しの奥の手紙が脳裏をよぎった。開けないまま五年。捨てられないまま五年。


「私はそういう男を一人見た。二人目は見ません」


 エドウィンはしばらく黙り、やがて激しく咳き込んだ。血が混じった。ブライスが顔色を変える。


「動けるか」


「……少し」


「なら死ぬのは後日にしてください」とアラベラが言った。

「まず異議申立書を書きます」


 ブライスが思わず笑い、次に泣きそうな顔になった。



 橋の上で、ネルが待っていた。


 何も聞かなかった。三人が石段から上がってくるのを見て、ただ横に並んで歩き始めた。


 エドウィンはネルの存在に気づいていたか分からない。彼はブライスの肩を借り、ほとんど引きずられるようにして歩いた。


 だがアラベラは気づいていた。

 ネルが走って呼びに来たこと。自分では声をかけなかったこと。


 今はまだ何も言わない。

 いつか、言うべきときに言う。


 まだ戻れる。

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