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ヴィクトリア朝の特許事務所 ― 魔法の権利、保護します  作者: みんとす
第一章 魔法を特許庁に出した日
7/17

7. 地味なものだけが

 エドウィンは三日寝込んだ。風邪をこじらせた。


 アラベラは事務所に戻ると、引き出しを開けかけた手をそのまま押し戻した。

 そのあいだ、ソーベルの先願に対する異議の準備を進めた。眠れない夜は、書面に使った。

 彼は真正発明者ではない。先立つ実験から得た不完全な知識に基づく。完成態を開示していない。先に紙を出しただけで、完成した発明を先にしたわけではない。


 さらに自分たちの出願については、ソーベル側からの異議と補正要求の双方を見越して、自発的な縮小補正を準備した。広い理論ではなく、元の明細書に記載された具体的実施態様へ収斂させる。


 ブライスには陳述書を頼んだ。

 あとは物証だ。部屋使用簿。購入請求書。工房記録。音叉の注文帳。そして、ソーベル自身の署名が入った秘密保持の覚書。


 並べたとき、見えた。

 エドウィンの注文には線径が三種、板の加工が八回、合わなかった音叉の返品まである。ソーベルの注文は一回きりだ。成功した寸法だけが、迷いなく指定されていた。


 証拠は地味だ。

 だが地味なものだけが、人を救う。



 ネルは大学の事務局に通っていた。


 用務員の記録と突き合わせ、エドウィンが研究室を使った日付と時間帯を一覧にした。購入請求書と工房記録も揃えた。数字の転記は正確だった。


 庁の書庫にも通った。ソーベルの先願の詳細を公報で確認するためだ。古い棚の奥で、番号の振られていない綴じ込みを一つ見かけた。表紙に潰れた封蝋の痕がある。円と、線と、何か小さな形。事務員に止められ、それ以上は触らなかった。

 ただ、速記帳の隅に封蝋の形だけを走り描きした。理由は自分でも分からなかった。


 だが、それだけでは足りなかった。


 請求書の束を揃える手が止まった。あの日のことだ。自分がソーベルに詰め寄った。手には何もなかった。ソーベルは焦った。準備不足のまま実演をした。真鍮球が天井を突き、ガラスが割れ、男が火傷した。


 その男を、ネルは探しに行った。


 アラベラには言わなかった。


 サザークから始めた。倉庫街の労働者は、事故の噂を覚えていた。「あの実演会か。真鍮が飛んだやつだ。バタシーのジムが手をやられたらしい」。名前が出た。


 バタシーの煉瓦工場まで歩いた。冬の日暮れは早く、工場の煙突が橙の空に黒い線を引いていた。門番に聞くと、ジム・クラークという男は怪我の後も働いていた。休めば日銭が止まる。そういう仕組みだ。ネルの父もそうだった。印刷機で指を挟んだ翌日、同じ機械の前に立っていた。


 ネルは待った。仕事が終わるのを。


 クラークは大きな男だった。煤で顔が黒く、右手に包帯を巻いていた。包帯の下は、まだ皮膚が赤かった。


「あの実演会のことを聞かせてほしい」


「何の用だ。あんた、記者か」


「弁理士の事務所の者です。あの装置を本当に作った人の代理人の」


「本当に作った人? あの大袈裟な男じゃないのか」


「違います。ソーベルは盗んだんです。本物の発明者は別にいて、安全に止める仕組みも作っていた。あの事故は、それを抜いたから起きた」


 クラークはしばらくネルを見ていた。それから、工場の壁に寄りかかり、話し始めた。


 真鍮球が浮いた。最初は綺麗だった。だが止まらなくなった。ソーベルが装置に手を出したが、何もできなかった。球が天井にぶつかって裂けた。破片が飛んだ。自分は手を上げて顔を庇ったが、手の甲に破片が当たり、そのまま焼けた。熱かったのは一瞬で、その後はずっと痺れていた。


「医者に行ったか」と聞くと、首を振った。「金がない。工場で怪我したわけじゃないから、新しい法律も使えん」。


 ネルは全てを書き取った。火傷の部位。大きさ。日付。場所。目撃した状況。ソーベルが装置を止められなかったこと。


 書き取りを畳んで上着の内側に入れたとき、クラークが言った。


「それで何になる」


「証拠になります」


 クラークは何も言わなかった。ただ包帯の巻かれた手を見下ろした。


 工場の門を出ると、もう暗かった。バタシーからサザークへ戻る道を、冬の風が吹き抜けていた。ネルは上着の前を掻き合わせた。指先の感覚がなかった。



 翌朝、ネルは証言の書き取りをアラベラの机に置いた。


 アラベラは読んだ。顔を上げた。ネルを見た。


 何も言わなかった。


 だが、その書き取りを、異議の書面に組み込んだ。



 四日目に起き上がったエドウィンは、以前より十歳老けて見えた。頬が削げ、手首が細くなり、声が少し掠れている。だが目は澄んでいた。橋の下で何かを燃やし損ねた男の目だった。


 最初にしたことは、ノートを開くことだった。明細書のためではない。あの夜の走り書き——ガルバノメータの微小変動。自分の装置のどの倍音とも一致しない振動数。

 閉じた。今はまだ、追う余裕がなかった。


 アラベラは言った。


「あなたの明細書も補正します」


「まだ戦うのか」


「今さら何を」


「私は橋の下で、かなり見苦しかったぞ」


「ええ。今後の交渉で少し使えそうなくらいには」


 彼は弱く笑った。

 それで十分だった。

 まだ戻れる。



 補正会議は、以前よりずっと静かだった。


 エドウィンはもう、美しい理論を前面へ出そうとはしなかった。手元の明細書に赤で線を引き、自分から削った。


「請求項一。

 位置決め溝付き基板、中央支持座、張力較正子……安全計器、および遮断導体を備える作用発生装置」


「"安全計器"ではなく"閾値検知部"です」


「閾値検知部。——すまん、まだ舌が慣れない」


「慣れます。それで、その閾値検知部ですが」


「鏡検だけでは弱い」

 エドウィンが即座に切り返した。

「銀線振幅のガルバノメータ併用例も入れよう」


「いいですね。

 請求項二。請求項一に記載の装置において、前記張力較正子が音叉その他の共鳴基準により線材張力を所定範囲に設定するもの」


「"所定範囲"は本文で複数値を置く。広すぎるとまた叩かれる」


「ええ。

 請求項三。請求項一または二に記載の装置を用い、所定順序で記号刻設を行う作用発生方法」


「順序は主実施例を固定しよう。変形は従属で逃がす」


「請求項四。請求項三に記載の方法において、閾値超過時に遮断導体により共鳴を崩壊させて作用を停止させる安全停止方法」


 エドウィンは頷いた。


「今度は第四項が浮いていない」


「ようやく弁理士の言葉を覚えましたね」


「覚えたくて覚えたわけではない」


「人はたいてい、そうやって法律を学びます」



 三月の終わり、補正後の完全明細書が受理された。閲覧室に並んだその日から、装置の構造は誰の目にも触れうる状態になった。


 公告日から二ヶ月。異議申立期間だった。ソーベルが動くことは分かっていた。


 期限の三日前に、届いた。


 アラベラは封を切り、読み、ファイルに綴じた。


「準備はできています。行きましょう」

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