5. 粗悪な模倣
エドウィンは公報の写しを机に広げた。
ソーベルの先願は、悪い意味で見事だった。
理論を理解していない。だが理解していないなりに、見栄えのする部分だけを拾っていた。溝付き基板。銀線。記号列。浮揚現象。読む者に「何かありそうだ」と思わせるには十分だ。
そして肝心なところ――張力較正、閾値検知、遮断導体、安全停止――は曖昧だった。
「最低だ」とエドウィンは言った。
「ええ」とアラベラは答えた。
「そして最低のものほど、人目を引きます」
◇
新聞は喜んだ。
「大学発、妖術機械の騒動」
「フェアチャイルド氏周辺に危険実験」
事故を起こしたのは自分ではない。
だが、世間はそんな区別をしない。
アラベラは事故の報を聞いた翌日、ネルを見た。
ネルはいつもの席で公報を読んでいた。顔が白かった。
「あなたが行ったのね」
ネルは手を止めた。公報を閉じた。目を上げなかった。
アラベラはそれ以上問わなかった。
因果の鎖は、ネルにも繋がっている。そしてアラベラ自身にも。
あの日、先願の文面に目を落とした。ネルの手が震えているのは見えていた。見て、目を戻した。十九の書記見習いがどこへ走るか、想像しなかった。
ネルの手が、閉じた公報の上で動かなかった。
アラベラは何も言わなかった。叱ることもできた。だが叱る資格があるのか、分からなかった。
◇
大学も同じだった。
学部長はエドウィンを呼び出した。
「外部から苦情が来ている。理事会にも届いた」
「事故を起こしたのはソーベルです。私の実験ではない」
「新聞は君の名も出している」
「誤りだ」
「世間にとって、訂正は見出しの十分の一ほどの価値しかない」
「では私は何をしろと」
「沈黙したまえ、しばらく」
「沈黙は承認です」
「違う。沈黙は保留だ。大学は嵐が過ぎるのを待つ。それは君を切ることとは違う」
「だが研究は止まる」
「君の研究の意義は理解している。だが今この瞬間、大学にとっては君の正しさより、君の静かさの方が価値がある」
学部長は立ち上がり、窓の方を向いた。
「不愉快だろうが、それが制度だ」
◇
エドウィンはアラベラの事務所に戻った。外套を脱がず、椅子に座った。ネルが紅茶を運んだが、手をつけなかった。
追い打ちは続いた。
庁からの審査報告だった。
発明の性質が十分に記述されていない。作用の原理および安全停止の条件について、明細書の記載が所定の方式を満たしていない。補正を求める、と書かれていた。
突き返された、ということだ。
さらに付記があった。同じ領域で、先に出願した者がいる。ソーベルの名が、庁の書式の中に活字で印刷されていた。
アラベラは読み終えたあと、エドウィンの顔を見た。
彼は椅子に座ったまま、妙に静かだった。
庁にまで、あの男の影が届いている。
エドウィンの中で、何かが折れる音がした。
研究室で文鎮が浮いた夜、彼は泣いた。十余年の失敗が報われたと思って泣いた。世界を正しく記述すれば、世界は正しく応えてくれる。それが彼の信仰だった。
今、その信仰が嘘だったと突きつけられている。
正しく書いた。誰よりも正確に。失敗の一つ一つを、誤差の一桁の一桁まで記録した。それでも盗まれた。盗んだ男の方が先に名前を書き、盗まれた側が「危険」と呼ばれ、大学は切り、庁は受理を拒んだ。
正しさは、何も守ってくれなかった。
父が言った。世の中は証明では回らんぞ。
あの言葉は正しかったのだ。
自分が一生をかけて否定しようとしたものが、結局は正しかったのだ。
その認識は、数式の誤りとは違った。直しようがなかった。
彼は初めて自分の研究を恥じた。恥じるべきは何もないと分かっていて、なお恥じた。文鎮を浮かせた夜の涙が、今は自分を嘲っているように思えた。
そしてもう一つ。
あの朝。出願書類がまとまりかけた朝。窓際に立って安心した、あの数分間。
初めて守られると思った。正しく書けば、正しく守られると信じた。
あの安堵が胸の奥で裏返った。同じ場所が、同じ形で、もう一度焼けた。
「終わった」と彼は言った。
声が自分のものではないように聞こえた。
「まだです」
「盗まれた。
笑われた。
大学は私を切る。
庁は信じない。
何が残る」
「ノートが残る」
「紙切れだ」
「違う。
人は成功だけ盗めても、失敗の地層までは盗めない」
エドウィンは乾いた笑いを漏らした。
「君はいつもそうだ。
人間の痛みを、証拠に変える」
「そうしないと守れません」
「守れていない!」
その一言が、彼女の胸にも深く刺さった。
守れていない。
父を。
そして五年前の依頼人を。
母の「あの目」が一瞬よぎった。
「今日は帰ってください」と彼女は言った。
「命令か」
「お願いです」
エドウィンは何も言わず、ノートを抱えて出て行った。
翌朝、彼は来なかった。




