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ヴィクトリア朝の特許事務所 ― 魔法の権利、保護します  作者: みんとす
第一章 魔法を特許庁に出した日
5/17

5. 粗悪な模倣

 エドウィンは公報の写しを机に広げた。


 ソーベルの先願は、悪い意味で見事だった。

 理論を理解していない。だが理解していないなりに、見栄えのする部分だけを拾っていた。溝付き基板。銀線。記号列。浮揚現象。読む者に「何かありそうだ」と思わせるには十分だ。


 そして肝心なところ――張力較正、閾値検知、遮断導体、安全停止――は曖昧だった。


「最低だ」とエドウィンは言った。


「ええ」とアラベラは答えた。

「そして最低のものほど、人目を引きます」



 新聞は喜んだ。


「大学発、妖術機械の騒動」

「フェアチャイルド氏周辺に危険実験」


 事故を起こしたのは自分ではない。

 だが、世間はそんな区別をしない。


 アラベラは事故の報を聞いた翌日、ネルを見た。

 ネルはいつもの席で公報を読んでいた。顔が白かった。


「あなたが行ったのね」


 ネルは手を止めた。公報を閉じた。目を上げなかった。


 アラベラはそれ以上問わなかった。


 因果の鎖は、ネルにも繋がっている。そしてアラベラ自身にも。

 あの日、先願の文面に目を落とした。ネルの手が震えているのは見えていた。見て、目を戻した。十九の書記見習いがどこへ走るか、想像しなかった。


 ネルの手が、閉じた公報の上で動かなかった。


 アラベラは何も言わなかった。叱ることもできた。だが叱る資格があるのか、分からなかった。



 大学も同じだった。

 学部長はエドウィンを呼び出した。


「外部から苦情が来ている。理事会にも届いた」


「事故を起こしたのはソーベルです。私の実験ではない」


「新聞は君の名も出している」


「誤りだ」


「世間にとって、訂正は見出しの十分の一ほどの価値しかない」


「では私は何をしろと」


「沈黙したまえ、しばらく」


「沈黙は承認です」


「違う。沈黙は保留だ。大学は嵐が過ぎるのを待つ。それは君を切ることとは違う」


「だが研究は止まる」


「君の研究の意義は理解している。だが今この瞬間、大学にとっては君の正しさより、君の静かさの方が価値がある」


 学部長は立ち上がり、窓の方を向いた。


「不愉快だろうが、それが制度だ」



 エドウィンはアラベラの事務所に戻った。外套を脱がず、椅子に座った。ネルが紅茶を運んだが、手をつけなかった。


 追い打ちは続いた。


 庁からの審査報告だった。

 発明の性質が十分に記述されていない。作用の原理および安全停止の条件について、明細書の記載が所定の方式を満たしていない。補正を求める、と書かれていた。

 突き返された、ということだ。

 さらに付記があった。同じ領域で、先に出願した者がいる。ソーベルの名が、庁の書式の中に活字で印刷されていた。


 アラベラは読み終えたあと、エドウィンの顔を見た。

 彼は椅子に座ったまま、妙に静かだった。


 庁にまで、あの男の影が届いている。


 エドウィンの中で、何かが折れる音がした。


 研究室で文鎮が浮いた夜、彼は泣いた。十余年の失敗が報われたと思って泣いた。世界を正しく記述すれば、世界は正しく応えてくれる。それが彼の信仰だった。


 今、その信仰が嘘だったと突きつけられている。


 正しく書いた。誰よりも正確に。失敗の一つ一つを、誤差の一桁の一桁まで記録した。それでも盗まれた。盗んだ男の方が先に名前を書き、盗まれた側が「危険」と呼ばれ、大学は切り、庁は受理を拒んだ。


 正しさは、何も守ってくれなかった。


 父が言った。世の中は証明では回らんぞ。

 あの言葉は正しかったのだ。

 自分が一生をかけて否定しようとしたものが、結局は正しかったのだ。


 その認識は、数式の誤りとは違った。直しようがなかった。


 彼は初めて自分の研究を恥じた。恥じるべきは何もないと分かっていて、なお恥じた。文鎮を浮かせた夜の涙が、今は自分を嘲っているように思えた。


 そしてもう一つ。

 あの朝。出願書類がまとまりかけた朝。窓際に立って安心した、あの数分間。

 初めて守られると思った。正しく書けば、正しく守られると信じた。

 あの安堵が胸の奥で裏返った。同じ場所が、同じ形で、もう一度焼けた。


「終わった」と彼は言った。

 声が自分のものではないように聞こえた。


「まだです」


「盗まれた。

 笑われた。

 大学は私を切る。

 庁は信じない。

 何が残る」


「ノートが残る」


「紙切れだ」


「違う。

 人は成功だけ盗めても、失敗の地層までは盗めない」


 エドウィンは乾いた笑いを漏らした。


「君はいつもそうだ。

 人間の痛みを、証拠に変える」


「そうしないと守れません」


「守れていない!」


 その一言が、彼女の胸にも深く刺さった。


 守れていない。


 父を。

 そして五年前の依頼人を。

 母の「あの目」が一瞬よぎった。


「今日は帰ってください」と彼女は言った。


「命令か」


「お願いです」


 エドウィンは何も言わず、ノートを抱えて出て行った。


 翌朝、彼は来なかった。

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