8. 紙にしたら同じものかどうか
ブリジッドの家の扉を叩くとき、手は震えなかった。訓練のおかげだった。三度、同じ間隔で叩く。依頼人の前では揺れない。それが体に染みついている。
扉が開いた。
ブリジッドが立っていた。前に来たときは椅子に座ったまま迎えた。今日は立っている。顔色は悪い。だが窓辺のゼラニウムには水がやってあった。土がまだ湿っている。
「また来たの」
「はい」
扉を開けたまま奥へ戻った。閉めなかった。入れ、ということだろう。台所の椅子に向かい合って座る。前と同じだ。前と違うのは、紅茶が注がれたことだった。二つ。一つをアラベラの前に置く。
アラベラは口を開いた。
「聴聞のやり直しを申し立てます。そのために、いくつか、あなたに確認しなければならないことがあります」
「確認」
「はい」
紅茶を啜る音がした。薄い茶色の目がアラベラを見ていた。
「あんた、あの後一度も来んかったね」
アラベラの手が膝の上で止まった。
「聴聞の前にも後にも。板ができたとも言いに来んかった。あの人——フェアチャイルドさんも来んかった。板が出来上がって、紙を出して、法廷に出て、うちが見たのは全部その場だった」
事実だった。一語も間違っていない。
「名前は聞いていた。あの人の名前で出すと、あんたは言った。言ったよ。でも出来上がったもんは見せてもらっとらん。法廷であれを見せられて、あんたの手の動きを表しているのかと聞かれて——何も言えんかった」
「はい」
「うちの手を紙にして、うちに見せんまま出した」
「はい。一八八三年法の——」
「法の話はいいよ」
二週間のあいだに、事実を並べ直し終えた人間の声だった。
「筋の話だよ。おばあちゃんから預かったもんだから。誰のもんでもない。でも筋は通すもんだ。紙にする前に見せるのが筋だよ。できたもんがどんなものか、出す前に見せるのが筋だよ」
アラベラは頷いた。否定する言葉を持っていなかった。
「その通りです。名前は伝えた。でも出来上がったものを見せなかった。法が求めない手順だから飛ばした。それは——私の判断の誤りです」
ブリジッドの目がわずかに動いた。確かめるように、アラベラの顔を見る。
「あんた、あの男の人と墓場で何か話したんだろう」
「フェアチャイルドが——」
「フェアチャイルドさんが来たとき、うちは言ったよ。あの人、お母さんのところへ行ったかもしれんって。前に来たとき——初めて来たとき、あんた、お母さんの話をしたからね。工房のこと。仕立てのこと」
アラベラは記憶を辿った。あのとき台所で、説明の合間にマーサの話をした。なぜ弁理士になったか。父の発明が盗まれたこと。母が一人で家計を立て直したこと。ブリジッドは問い返しもせず、黙って聞いていた。だが覚えていた。
「追い詰められた人間が行く場所は二つだよ。親のところか、死んだ人のところ。あんたは両方行っただろう」
アラベラは答えなかった。答える必要がなかった。ブリジッドはもう知っている。
「墓場で、あの人に何か言われたんだね。それで段取りを作り直して、うちのところに来た」
「はい」
「それで、確認したいことがある、と」
「はい」
ブリジッドは紅茶のカップを置いた。両手を膝の上に戻す。赤い関節。前と同じ手だった。
「聞くよ」
アラベラは手帳を開いた。
「聴聞のやり直しには、新しい証拠が必要です。フェアチャイルドとブライスが、あなたの治療中の物理的な計測データを取ります。ガルバノメータで誘導電流の変動を記録する。前回の座標記録やモアレの写真とは別の方法です。この家で、治療しているところを隣で測ります。治療そのものではなく、計測への協力として扱います。あなたに余計な不利が出ない形にします」
「計測ね」
「はい。あなたが治療しているところを、隣で計器を使って測る。前と同じですが、前と違うのは——」
「うちが知っている、ということだね」
アラベラは頷いた。
「前回は、何を測っているのか、何のために測っているのか、伝えなかった。今回は全部説明します。計測の目的も、データの使い方も、法廷で何を主張するのかも」
ブリジッドは黙っていた。窓の外で誰かが洗い物をしている水音がした。
「うちがやれって言ったのは本当だよ。あんたが無理に紙を書いたんじゃない。聞いたよ。うちが答えた。嘘じゃない」
アラベラの喉が詰まりかけた。許可だった。合意ではなかったが、許可だった。
「でもね」
ブリジッドの手が膝の上で開いた。
「紙にしたら同じものかどうか、まだ分からん」
あの日と同じ言葉だった。台所の椅子で、同じ声で。だが、その先が違った。
「今度は見てみるよ。あんたたちが何を測っているのか。うちの手が紙の上でどんな形になるのか。見せてくれるなら、やる」
アラベラは手帳に書いた。日付と、ブリジッドの承諾。今度は具体的な内容を知った上での同意だった。前回のような白紙委任ではない。
「フェアチャイルドとブライスに連絡します。それと——記録係として、ネルを連れてきます。うちの事務所の書記です。サザークの道を知っている子です」
「あの子ね。何度か見かけたよ。この辺りを走り回っていた子だろう」
アラベラは頷いた。立ち上がる。
「ブリジッドさん」
「何」
「ありがとうございます、は——今は言いません。手順が終わったら言います」
ブリジッドは鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。
「来たら来たときだよ」
◇
四日後。ブリジッドの台所。
エドウィンは椅子を壁際に寄せ、折り畳み式の台を広げた。ガルバノメータを載せる。銅線のコイルと磁針。針の振れを読むための鏡と目盛り板。ブライスは窓辺に陣取り、乾板カメラの角度を調整している。
ブリジッドは部屋の中央で椅子に座っていた。その向かいにマクナマラが座っている。膝を出し、手を待っている。
ネルは隅にいた。膝の上にノートを開き、ペンを持っている。アラベラが「時刻と手順だけ書け」と指示した。ネルは頷き、ペン先を紙に当てた。
エドウィンは鞄から布に包んだものを取り出した。銅板だった。台の上に置いた。
「これが、あなたの手の動きを写したものです」
銅板に目を落とした。指は触れなかった。六角形の線。曲線。交差点。自分の手が作る見えない編み物が、金属の上に凍っている。
長い沈黙があった。
「綺麗だね」
それから首を傾けた。あの癖。
「——でもこれは、うちの手じゃないよ」
エドウィンは何も言わなかった。
その目がエドウィンに向いた。
「これで分かるの。紙にしたら同じかどうか」
「分からない。だが近づくことはできる」
手が差し出された。
治療が始まった。
ブリジッドの手がマクナマラの膝の上を動く。十インチの距離。指が開き、閉じ、回る。八日間の記録と同じパターンだが、速さが違った。迷いがない。何を見られているか知っている手だった。知っていて、なお同じことをしている。知識が動きを変えていなかった。
ガルバノメータの針が振れた。
〇・七目盛。前回の銅板彫刻時より大きい。エドウィンはノートに書いた。手が動いているあいだだけ振れる。手が止まると針が戻る。二回、三回と繰り返した。相関は明らかだった。
ブライスが声を出さずに口を動かした。「記録した」。
五回目、ブリジッドの手がマクナマラの膝から離れた瞬間、ネルの右手がノートの上で小さく動いた。ペン先が紙を滑って線が走る。同時に、ガルバノメータの針がもう一度振れた。〇・二目盛。ブリジッドの手は止まっている。
エドウィンは針を見た。ブリジッドの手は止まっている。だが針が動いた。
ブリジッドが首を傾けた。マクナマラではなく、隅にいるネルのほうを見ていた。あの癖——匂いを確かめるような傾き。
エドウィンはノートに書いた。「治療停止後、微小変動。0.2。外部共鳴。N.H.」
十七回の計測を三日で終えた。二日目の朝、治療を終えたブリジッドが椅子から立ち、ガルバノメータの前に来た。針を見る。自分の手を開いて、閉じた。針は動かなかった。
「治療のときだけかい」
エドウィンは頷いた。少しだけ目を細め、それから戻って、次の治療では初日より速く手を差し出した。
三日目の夕方。記録をまとめている最中、ブライスが帰った後、エドウィンはノートを遡った。銅板の射影図。六角形の頂点。頂点の並びと、今日の計測で記録した針の振れのパターン。
なぜ同じなのか。
ブリジッドの手の動きが作る対称群と、旧書庫で見たゼロの紋章が持つ群構造。別々の場所で、別々の人間が、同じ配置に辿り着いている。偶然なら説明がつく。だが偶然でないなら——答えはまだなかった。
ネルが記録の束を揃えていた。事務所は午後から開ける、とアラベラに言われていた。時計を見て、立ち上がる。
「フェアチャイルドさん、記録は三部です。一部は先生に、一部はブライスさんに、一部は事務所の棚に」
「ああ」
ネルが出て行った。サザークの路地を、あの足の速さで事務所に戻るのだろう。午前はここで記録を取り、午後は事務所を開ける。その往復は三日間ずっと続いた。トリーナへの手紙のことをネルは一度だけ口にした。「返事がまだです」。それだけだった。
◇
計測が終わった夜。エドウィンは事務所でアラベラに記録を渡した。
数字の束。ガルバノメータの読み。モアレ写真との対照表。ブライスの署名入り。
「十七回中九回で有意な変動。暗示や自己暗示では説明できない。治療者の手の動きと誘導電流の変動に統計的な相関がある」
アラベラは記録を一枚ずつ捲った。数字を読む目だった。法令集を読むときと同じ目。
「これで判事が動くかどうかは分からない。だがこれがなければ動かない。——ありがとう」
エドウィンはノートを閉じた。事務所の窓が開いていた。八月の夜気が入ってくる。紙の端がかすかに鳴った。テムズの匂いはもう気にならなかった。
机の上には、記録の束があり、ブライスの署名があり、ブリジッドの同意を書きつけた頁があり、手帳には済んだ段取りに一本ずつ線が引かれていた。午後になれば、ネルはいつも通り事務所の扉を開ける。
足りなかったものは、そうやって一つずつ、机の上に並んでいた。




