9. 魔法が詐欺でなくなる日
聴聞が再開される前日の夜。墓地からの帰路に書かれた段取りが、二週間で形になっていた。
ブリジッドはサザークの家にいた。保釈中だった。
マクナマラの声が隣の部屋から聞こえた。呻き声だった。膝が腫れている。二週間、誰も手を当てていない。
台所の椅子に座ったまま、壁を見ていた。
マクナマラがまた呻いた。
立ち上がり、隣の部屋に入った。
「ブリジー——やらなくていいよ。大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよ、おばあちゃん」
あの先生は、この手の動きを紙の上の名前で呼んだ。名前がついても、手が届くものは変わらない。
手をかざした。十インチ。指が動いた。
おばあちゃんの膝は待ってくれない。
◇
聴聞が再開されたのは、翌朝だった。
治安判事裁判所の廊下は、前回より空いていた。八月に入っていた。法服の男たちが海辺か田舎に消えている。普段なら弁護士と書記で溢れる廊下に、足音がまばらだった。ここにいる人間は全員、休暇を捨てて来ている。
アラベラは廊下に立っていた。フィッツジェラルドが隣にいる。この男は休暇を返上して来た。父の代からの義理だけでは説明がつかない出廷だった。モレッティが少し離れた場所にいる。ブライスが傍聴席に向かった。ネルも傍聴席にいた。
エドウィンは証人席の前で待っていた。上着の袖を正し、背筋を伸ばしている。ノートを持っていた。あの分厚いノート。
ブリジッドが入ってきた。
前回と違って、手が動いていた。膝の上で、指が小さく開いたり閉じたりしている。無意識だった。手が仕事を忘れていない。
アラベラはその手を見た。
あの手を紙に落とした。銅板に彫った。意匠として登録した。そしてその紙が凶器になった。
だが今日は、紙の意味を変える。
◇
ホワイト判事が着席した。六十代の顔。表情は読めない。法の文言に忠実な人間の顔だ。
「弁護側。前回の審理以降、追加の主張はありますか」
フィッツジェラルドが立った。
「あります。弁護側は証人を二名申請いたします。キングズ・カレッジ物理学講師トマス・ブライスの紹介によるエドウィン・フェアチャイルド氏。および聖儀典省信仰促進者ルカ・モレッティ神父」
「許可します」
◇
エドウィンが証言台に立った。
法廷は狭かった。木の壁と木の床。窓が二つとも開いている。八月の通りは静かだった。傍聴人は十人ほど。だがエドウィンの声は、部屋の隅まで届いた。数学の講義で鍛えた声だった。
「ブリジッド・オコナーの手の動きを三次元座標で記録し、二次元平面に射影しました。結果、六角形に近い対称構造が現れます」
図面を提示した。銅板の射影図。対称群の解析。
「この対称構造は、群論的に分析すると、私が特許を取得した作用発生装置の記号配列と同じ対称群——二面体群D₆——の異なる表現です。同じ原理の、異なる実装です」
訴追側の事務弁護士が立った。フィッツジェラルドの目がわずかに動いた。この男を見るのは今日が初めてだった。教区牧師の金では雇えない——声の置き方が、そう語っていた。
「では、被告人に特別な力があるとお考えですか」
「いいえ」
エドウィンの声は静かだった。
「力は彼女にはありません。力はパターンにあります。彼女はパターンを正しく実行できる操作者です。薬剤師が処方を知っているように。鍛冶屋が焼入れの温度を知っているように。技能であって、魔力ではありません」
「しかし、その技能の結果は——」
「再現可能です。条件によって成功率は変動しますが、失敗例を含めて規則性があります。これは超自然現象ではなく、未解明の自然現象です」
訴追側の事務弁護士が一歩前に出た。
「フェアチャイルドさん。あなた自身の特許が取消の危機にあるのに、被告を擁護するのは利益相反ではありませんか」
エドウィンの声は変わらなかった。
「私の特許が潰れても、対称群は消えません」
法廷が静まった。訴追側の事務弁護士が何か言いかけて、やめた。数学者の声には、反論の余地ではなく、反論の必要がない種類の静けさがあった。八日間、あの台所で見た手が、この言葉を教えた。
ホワイト判事が図面を見ていた。理解しているかどうかは分からない。だが見ていた。
フィッツジェラルドが続けた。
「さらに、追加証拠の提出を申請いたします。キングズ・カレッジ物理学講師トマス・ブライスの計測記録です」
ブライスが傍聴席から記録を手渡した。フィッツジェラルドが受け取り、判事に提出した。
「モアレ縞を用いた幾何学的計測法により、〇・〇三ミリメートルの精度で手の位置を記録し、同時にガルバノメータにより治癒行為中の誘導電流を測定しました。十七回の施術で、再現可能な物理的変動が記録されております。暗示効果では誘導電流は生じません」
ホワイト判事が紙を受け取った。数字の並んだ紙。しばらく見て、傍らに置いた。表情は変わらなかった。だが置き方が、前回の「保留」とは違った。受け取った。
◇
モレッティが証言台に立った。
ローマン・カラーが白く光っている。法廷の中で、その襟は異質だった。プロテスタントの国の法廷に、カトリックの襟。
声は小さかった。だが明瞭だった。
「私はローマの聖儀典省から派遣された信仰促進者です。通称——悪魔の代弁者。私の職務は、奇跡の主張を否定することです」
書記のペンが宙で止まった。
「三ヶ月間、ブリジッド・オコナーの治癒行為を調査しました。成功例と失敗例の双方を記録しました。失敗例のほうが多い。成功と失敗のあいだに、信仰の深さとは無関係な条件の差があります」
モレッティは書類を提示した。調査記録。アラベラが最初に見たあの記録。失敗例の山。
「調査の結果、ブリジッド・オコナーの治癒は、カトリック教会の基準において奇跡とは認定できません」
——
「同時に、詐欺とも認定できません」
モレッティの声が、わずかに震えた。
「効果は測定可能です。条件による変動がありますが、完全な虚偽ではありません。私は奇跡を否定する専門家ですが、現実を否定する専門家ではありません」
法廷の空気が揺れた。
訴追側が動いた。
「モレッティ神父。ローマへの報告書には『奇跡の可能性を完全には排除できない』と書いたのでは?」
モレッティの声は小さかった。だが明瞭だった。
「書きました。そして今も同じ意見です。排除できないことと、肯定することは違います」
訴追側の事務弁護士は一瞬黙った。それ以上は追わなかった。
カー牧師が傍聴席で身じろぎした。モレッティの証言は、牧師にとっても予想外だったのだ。ローマの調査員が「奇跡ではない」と言うことは予想できた。だが「詐欺でもない」と言うことは。
◇
フィッツジェラルドが立った。
アラベラの論理を、法廷の言葉に変換する。弁理士が法廷で直接弁論できない以上、フィッツジェラルドの口がアラベラの口になる。
「弁護側の法的主張を申し上げます」
フィッツジェラルドの声は落ち着いていた。五十年の経験が声に出る。無駄がない。
「第一に、本件告発の性質について。本件はカー牧師による私人訴追であり、検察官の審査を経ておりません。告発人自身は被告人の手技を受けた者ではなく、施術を受けた住民からの苦情も一件も提出されておりません。被害者なき告発であります」
フィッツジェラルドは書類に目を落とさなかった。
「第二に、被告人の行為の性質について。被告人の手技が銅板に固定された意匠として特許庁に登録されております。この意匠のパターンに従えば、被告人以外の者にも同じ操作が再現できる。これは個人の霊能ではなく、物品に化体した技術であります。なお、催眠術や電気療法のように原理が未解明のまま広く行われている治療法が起訴されていない事実に鑑みれば、被告人のみを浮浪者法で告発することは選択的な起訴であります」
ホワイト判事の目が動いた。
「そして第三に。本件告発の背景には一七三五年妖術法の趣旨がございます。百六十年にわたり、国は魔法の存在を否定してまいりました。しかし——」
「英国特許庁は、審査のうえ、フェアチャイルド氏の作用発生装置に特許を付与しました。これは国の機関が、この種の現象を技術として認めたことを意味します。国が審査のうえ技術と認めた特許と、同じ原理を物品に固定した意匠。この二つが存在する以上、被告人の行為を詐欺と呼ぶことには重大な矛盾がございます」
訴追側の事務弁護士が声を上げた。
「告発側はフェアチャイルド特許の取消を高等法院に訴える旨を予告しております。加えて、弁護側が提出した意匠はフェアチャイルド氏が設計し銅板に彫刻したものです。被告人自身のものではございません」
フィッツジェラルドは書類を取り出した。
「取消訴訟は高等法院の管轄であり、本法廷の手続きではございません。そして意匠の所有権について。フェアチャイルド氏の観測記録の写しを提出いたします。八日間の全記録に一貫して、『手技は被観測者の固有技能、観測者は転写のみ』と記されております。転写者はパターンを所有しません。原パターンの保有者は被告人です」
ホワイト判事が記録を受け取った。八枚。全て同じ書式だった。
「第四に。弁護側から一点、法廷に開示いたします」
フィッツジェラルドの声が低くなった。弁護側が自ら不利な事実を差し出す——訴追側の事務弁護士が目を上げた。
「意匠登録にあたり、オコナー氏には計画を説明し、口頭の承諾を得ております。ただし、完成した銅板および出願書類は、提出前にオコナー氏に提示されておりませんでした。前回の聴聞ではこの事実が問われました。再開聴聞にあたり、弁護側はオコナー氏に完成品を提示し、新たな計測への同意を改めて得ております。法が求めない手順を省略した判断の当否は弁護側が引き受けるものであります。同時に、この経緯は計画的な詐欺の組織とは相容れない事実であります」
◇
訴追側が立った。
「追加証人の申請をいたします」
医師が証言台に立った。カー牧師の教区に近い診療所の医師だった。五十代。白い襟。声は穏やかだが、断定的だった。
「マクナマラ氏の膝を診察いたしました。関節の腫脹に物理的な変化は確認できませんでした。患者が『楽になった』と感じているのは、暗示効果です。物理的変化がなければ、これは技術ではありません。心理的効果を技術と呼ぶことはできません」
法廷の空気が変わった。
訴追側の事務弁護士が立った。声に力があった。
「整理いたします。医師は物理的変化を確認できませんでした。前回の聴聞において、被告人がこの銅板を見たことがないことは——この法廷での沈黙により示されております。そして先ほど弁護側自ら、完成した銅板を被告人に提示していなかったと開示されました」
一拍の間。
「弁護側は計測器の変動を主張されますが、医師の診察では被告人の手技に物理的な効果はございません。意匠と被告人の行為のあいだには——手続きにおいても、技術的な事実においても——断絶がございます」
アラベラの指が膝の上で白くなった。自分が先手で開示した事実が、訴追側の武器になっていた。正直に差し出した手順の欠落が、医師の証言と結ばれ、二重の断絶として突きつけられている。
訴追側の事務弁護士がさらに踏み込んだ。
「加えて申し上げます。被告人は保釈中も治癒行為を続けております。本法廷が『欺く』か否かを審理している、まさにその行為を、判決を待たずに。保釈条件の文言の問題ではございません。審理中の被告人としての自覚の問題、法廷そのものへの敬意の問題であります」
ホワイト判事がブリジッドを見た。
「被告人。保釈中に治癒行為を行いましたか」
ブリジッドが立った。
「やりました。おばあちゃんの膝が腫れてたから」
判事の眉がわずかに寄った。しばらくブリジッドを見ていた。
「——本法廷は、その手技が『欺く』に当たるか否かを目下審理している。被告人はこれを知りながら、判決を待たずに同じ行為を継続したと、今、自ら申し立てた。審理中の身として、軽率であると言わざるを得ない」
声が一段下がっていた。書記のペンが言葉をそのまま書き取った。
アラベラは息を詰めた。三つ目の打撃が、被告自身の口から出ていた。
◇
フィッツジェラルドが立った。声は変わらなかった。だが最初の言葉は、法の論点ではなかった。
「判事閣下のご懸念は、弁護側として受け止めます。そのうえで、二点、申し上げます」
書類を差し出した。
「第一に、保釈条件について。条件書には住居の指定と出頭義務の二項があり、治療行為の禁止は含まれておりません。訴追側は保釈の設定時にこの禁止を求めておりません。求めなかった禁止事項について、事後に違反を主張することはできません」
間があった。
「第二に、被告人の『軽率』について。被告人が手を動かしたのは、二週間、腫れた膝を抱えた老婦人の呻きを聞き続けた末のことであります。被告人の職能は、法廷の推移を計量して出し入れできるものではございません。これは法廷への挑戦ではなく、手技が職能として彼女の身体に備わっていることの、むしろ証左であります」
判事が保釈条件書に目を落とした。長く読んだ。書記に返した。
「保釈条件の点は、了解いたしました」
声は平坦に戻っていた。だが先ほど下がった一段は、まだ完全には戻っていない。フィッツジェラルドは続けた。
「次に、医師の所見について。先ほど提出いたしましたブライス講師の計測記録をご参照ください。ガルバノメータは治癒行為中に再現可能な誘導電流を記録しております。暗示効果では誘導電流は生じません。物理的変化がないのではなく、医師の診察法では捉えられなかっただけであります」
「そして訴追側が主張される断絶について。『完成品を見ていない』ことと『意匠が被告人の技法と無関係である』ことは、同じではございません。フェアチャイルド氏の八日間の観測記録は、被告人の手の動きから意匠への導出過程を一頁ごとに文書化しております。被告人はこの観測に協力しております。再開聴聞にあたり弁護側は完成品を被告人に提示し、被告人はこれを追認しております。さらに、新たな計測において、被告人の手の動きが銅板のパターンと同じ物理的変動を再現することが独立に確認されております。医師の診察法が捉えられなかったものを、物理学の計測器は捉えております」
「本法廷が被告人の行為を詐欺でないと判断されるならば、特許庁の技術認定と矛盾しない結論を、司法もまた示したことになります。逆に詐欺と判断されるならば、国は自らの特許付与と矛盾する立場に立つことになり、その根拠を示さねばなりません」
「いずれにせよ、『魔法は存在しない』という前提は、もはや自明のものとして法廷に置いておくことはできません」
判事が口を開いた。
「計測器が記録した数値と、医師が確認できなかった物理的変化との隔たりは残ります。弁護側はこれをどう説明されますか」
フィッツジェラルドが一瞬だけ間を置いた。
「それこそが、既存の診察法の範囲外に新しい技術が存在することの証左であります」
判事は頷かなかった。視線が書類に戻った。
アラベラの肩がわずかに上がった。用意した武器では、まだ足りない。計器の数値も、特許の論理も、数学の証明も——ブリジッドの手に触れたことのない言葉だけでは、あの手を法廷に届けられない。
◇
傍聴席から、声がした。
「あの——言ってもいいですか」
トリーナだった。赤子を抱いている。赤子が八月の暑さにぐずり、小さな声を上げていた。トリーナは揺すって宥めた。離さなかった。立ち上がっていた。
ネルの息が止まった。トリーナが——来ていた。あの手紙が届いていたのだ。
カー牧師が傍聴席で身じろぎした。トリーナはカー牧師を見なかった。判事を見た。
「ブリジッドさんに膝を治してもらいました。お医者さんには行ったことがありません。でも階段が降りられるようになりました。前は赤ん坊を抱いて降りられなかった。今は降りられます。嘘じゃありません」
素朴な声だった。法廷の言葉ではない。生活の言葉だった。
ホワイト判事が静かに言った。
「傍聴人は法廷で自由に発言できません。——弁護側、この方を証人として申請しますか」
フィッツジェラルドが立った。
「申請いたします」
「許可します」
トリーナは赤子を片腕に抱えたまま証言台に立った。宣誓を繰り返し、同じことをもう一度言った。同じ言葉だった。形式が変わっても、生活の言葉は変わらなかった。
判事の目が、医師を見た。医師は何も言わなかった。計器の数値ではない。診察の所見でもない。階段を降りられるようになった——それだけが、この法廷で否定されなかった。
◇
訴追側が最後の手を打った。
「被告人に法廷での実演を求めます」
ホワイト判事がブリジッドを見た。
「被告人。実演に応じますか」
ブリジッドが立った。判事の目を見て言った。
「しません」
法廷が静まった。
「この場で手を動かせば、あなた方の求めに応じて見世物をしたことになる。それは——妖術法が罰する行為そのものです」
拒絶が、論理になった。
ネルの右手が、膝の上でわずかに動いた。誰も気づかなかった。
沈黙が法廷を満たした。判事が書記を見た。書記がペンを止めた。窓の外で鳩が一羽、屋根を蹴る音がした。
フィッツジェラルドが立った。最後だった。
「一点、確認いたします。訴追側は『欺く』を立証する義務がございます。被告人が金銭を要求した証拠はなく、患者からの苦情もなく、被告人は近隣住民の求めに応じて手技を施したにすぎません。構成要件が充足されておりません」
◇
ホワイト判事はトリーナを見た。赤子を抱いたまま、傍聴席に座っている。
判事は長く黙った。
法廷に音がなかった。窓の外で馬車の蹄が遠くを過ぎていった。ガス灯の火が微かに揺れた。
判事が口を開いた。
「本件の告発は、一八二四年浮浪者法第四条に基づくものであります。同条は『巧妙な技芸により国王の臣民を欺く者』を処罰する。問題は、被告人の行為が『欺く』に該当するか否かであります」
判事は書類を見た。意匠登録の登録証書。エドウィンの図面。モレッティの調査記録。
「フェアチャイルド特許が審査のうえ有効に存続している事実、および弁護側が提出した計測記録が治癒行為中の物理的変動を示している事実は、本裁判所として無視し得ません。加えて、弁護側が提出した意匠の図面は、被告人の手技が個人の能力ではなく、物品に固定しうる再現可能な手順であることを示しております。国の機関が審査のうえ技術と認めたものを、本法廷が詐欺と断じるためには、相応の根拠が必要であります」
カー牧師の顔が強張った。傍聴席の後方に一度だけ目を走らせた。
「訴追側が提出した証拠は、被告人が手をかざして治癒を行ったという事実のみであります。被告人が金銭を要求した証拠はなく、被告人が巧妙な技芸により人を欺いたと認めるに足る証拠もありません。被告人は近隣住民の求めに応じて手技を施したにすぎません」
判事は杯の水を一口飲んだ。
「なお、告発側が予告されたフェアチャイルド特許の取消訴訟については、特許の有効性は高等法院衡平法部門で争われるべきものであり、本裁判所の事柄ではありません」
アラベラの肩が下りた。自分で力を入れていたことに、今気づいた。
「以上の理由により、本件告発を棄却いたします。被告人を釈放いたします」
判事が立ち上がった。
廊下に出る直前、フィッツジェラルドがアラベラの横を通りすがった。振り向きもせず、片方の目だけが閉じた。一瞬だった。
◇
法廷を出た。
廊下に光が差していた。八月の光。七月の容赦のない光とは、少しだけ違う光。廊下の窓が開いている。風が通っていた。七月の法廷では窓を開けるか閉めるかで揉めた。今日は最初から開いている。テムズの匂いが変わっていた。あの動かない腐敗臭ではない。風が川の上流から草の匂いを運んでいた。
ブリジッドが廊下に立っていた。指が、無意識に空中で小さな輪を描いている。仕事に戻ろうとしている。
アラベラがブリジッドの前に立った。
「ブリジッドさん」
「ありがとう」
「完全な勝利ではありません。告発の棄却であって、無罪判決ではない。同じ事実で再び告発される可能性は残ります」
「でも帰れる」
「帰れます」
ブリジッドの目が潤んだ。大きな手で目を拭いた。洗濯で荒れた赤い手だった。
「マクナマラのおばあちゃんが待ってる」
「待っているでしょうね」
「……ごめんね。あんなこと言って」
「あなたが言ったことは正しかった。紙を出したのは私です。あなたは頼んでいなかった」
「でもあんたが来んかったら、うちは今頃——」
「来なかったら、は考えません。来たから、ここにいる」
ブリジッドは頷いた。それから、アラベラの手を取った。大きな手が、アラベラの細い手を包んだ。暖かかった。治癒ではなかった。ただの手だった。
手が離れた。視線がエドウィンに移った。
「あの板、見たよ。綺麗だった。うちの手じゃないけど——うちの手がなければ、あれはなかった」
エドウィンは何も言えなかった。否定と受容がひとつの文に収まっている。数学では書けない等式だった。
それからアラベラを見た。
「守ってくれたんだね。——紙で」
それから何かを思い出した顔で付け加えた。
「言い忘れたことがある。祖母が死ぬ前に言ったことがある」
「『これを教えてくれた人たちがいた。昔は帳面に名前があった。名前と手順と、使ってよい範囲が書いてあった。今はもうない。帳面がなくなったから、好きにしていいのか、誰にも分からなくなった』」
自分の手に目を落とした。赤い。いつも赤い。
歩きかけて、振り返った。廊下の柱の傍に、ネルが立っていた。首をわずかに傾けた——相手の匂いを確かめるときの、あの癖で。少し長く見て、何も言わずに歩いていった。
廊下の角を曲がる直前、その指が一瞬、宙で止まった。開いたまま。すぐに閉じた。歩いていった。
廊下の先で、モレッティが帰り支度をしていた。上着の襟を直しながら、こちらを見た。
「モレッティ神父。報告は」
「『分類不能。判断を留保。追加調査を推奨する』と書きます」
ブライスが腕を組んだ。
「また来るのか」
「……来ることになるかもしれません」
モレッティの口元に笑みが浮かんだ。擦り減った笑みではなかった。初めて自分の報告書に正直を書けた男の笑みだった。
モレッティは小さく頭を下げ、廊下の奥へ歩いていった。ローマン・カラーの白が、八月の光の中で一度だけ光った。
エドウィンが足を止めた。
「帳面。——登録簿だ」
アラベラの頭に、引き出しの中のゼロの封書が浮かんだ。古い紋章の蝋封。円と三本線と星。
◇
引き出しを開けた。特許証書と未亡人の手紙と告発状の写し。三枚の紙。そして今日、四枚目の紙が入った。告発棄却の決定書の写し。
引き出しの底で、ゼロの封書が待っていた。蝋封に指を当てた。円と三本線と星。帳面。登録簿。ゼロは個人ではなかった。組織だ。
封書を戻した。引き出しを閉じた。
◇
全員が帰った後、アラベラは一人で事務所にいた。
いつものことだ。ガス灯の火が低くなり、壁の法令の切り抜きが影に沈む。
だが今夜は、机の上にネルの書き置きがあった。
「先生。明日の朝、砂糖を買ってきます。パーキンズさんの振り替えは木曜に確定しました。煙突換気弁について特許庁から通知が届いています。封は切っていません。——ネル」
アラベラは書き置きを読んだ。二度読んだ。砂糖を買ってくる。振り替えを確定させる。通知を封のまま置いておく。日常が、途切れずに並んでいる。
アラベラはガス灯の火を絞った。上着を取った。鍵を回した。
今度は、明日開けるために閉めた。
第二章お読みいただきありがとうございました!第三章もしばらくしたら投稿できるとおもい、、、ます。




