7. 膝を折った後の手順
朝の七時半に、エドウィン・フェアチャイルドは二つのことを同時に知った。アラベラ・グレインジャーが消えたこと。そして自分がその理由の半分であること。
ブライスが下宿に来た。ノックではなく、ドアを叩いた。開けると、帽子も被っていなかった。
「事務所が閉まっている。ネルが中にいる。合鍵で開けたらしい。アラベラはいない」
「いつから」
「昨夜だ。事務所を閉めて出て行った。ネルが今朝来たら鍵が外からかかっていた。窓も全部閉めてあった」
ブライスの目は据わっていた。皮肉を言わないブライスは、事態が深刻であることを意味する。昨夜、下宿で数字を追い直した。銅板の対称群。計測値の欠落。ノートの頁に朝までかかった結論が一行だけ残っている——足りない。ブライスの拳が扉を叩くまで、そのことしか考えていなかった。
「俺はサザーク方面を当たる。お前は事務所へ行け。ネルが一人だ」
◇
リンカンズ・イン近くの事務所に着いたとき、扉は開いていた。
ネルが机に向かっていた。窓が三つとも開いている。七月の朝の空気が事務所の中を通り抜けていた。昨夜まで閉め切られていた窓を、この十九歳が開けたのだ。
机の上にファイルが積まれていた。全て閉じてある。その端に、封をした手紙が一通。宛先は「トリーナ」。未送付。便箋をもう一枚引き寄せたところだった。
「フェアチャイルドさん」
ネルの手が止まり、顔を上げた。不安を隠す気がない目だった。だが逃げていない。
「パーキンズさんの振替は処理しました。他のファイルは閉じたままにしてあります。先生が閉じたものだから」
エドウィンは事務所の中を見た。整然としている。混乱ではなく、撤退の跡だった。パーキンズの封書が処理され、トリーナへの手紙が書かれ、窓が開いている。全部、この子がやったことだった。
半年前なら飛び出していただろう。ソーベルの工房に一人で乗り込んだ十九歳は、今朝、窓を開けて机に向かっている。
エドウィンはその変化を見た。見て、束の間、言葉を探した。人に信頼を渡す語彙が、自分には少なかった。
「ネル」
名前を呼ばれて、ネルの目が少し開いた。この男に名前を呼ばれたのは初めてだった。
「事務所を開けておいてくれ。もうやっていることを、続ければいい」
ネルは頷いた。背筋が伸びている。怖がっているが、逃げない顔だった。
「先生は——戻りますか」
「分からない。だが事務所が開いていなければ、戻る場所がない」
ネルの目が一瞬揺れた。それから机に向き直った。便箋をもう一枚引き寄せた。
◇
午前の陽が傾き始めた頃、サザークに着いた。テムズの南岸。橋を渡る間、川の匂いが重かった。七月の水は動かない。
ブリジッドの家は路地の奥にあった。煉瓦の壁に木の扉。窓辺の鉢植えのゼラニウムが萎れかけていた。二週間前に来たとき、土は湿っていた。今は乾いている。花も葉も垂れている。手を当てる人間の手が、止まっていた。
扉を叩いた。少し間があって、ブリジッドが出てきた。保釈中。顔色が悪い。だが手は膝の上で動いていた。指が小さく開いたり閉じたりしている。仕事を忘れていない手だった。
「フェアチャイルドさん」
「アラベラが消えた。昨夜から事務所を閉めて、どこにもいない」
手が止まった。首をわずかに傾けた。匂いを確かめるような癖。それから目を伏せた。
「……うちのせいかもしれん」
エドウィンは何も言わなかった。聴聞の後、面会室で何があったかは聞いていた。ブライスが教えてくれた。「守るって、こういうことだったの」。その言葉の重さを、目の前の女は知っている。
急に立ち上がりかけた。椅子が鳴った。腰が浮き、大きな手が肘掛けを掴んだ——そして座り直した。保釈中だった。自分の足では行けない。
「急いで」
それだけだった。行き先は言わなかった。
「あの人、お母さんのところへ行ったかもしれん」
◇
ボンド・ストリートに着いたとき、陽は頭の上にあった。朝の影がなくなり、路地の石畳が白く焼けている。
マーサ・グレインジャーの工房は、二本入った路地にあった。仕立て師の看板。窓が開いている。
扉を開けた。鈴が鳴った。
マーサは作業台に向かっていた。針が動いている。布を刺し、糸が通り、引く。秋物の仕立てを夏にやる。手が止まらない女だった。
作業台の端に、男物の上着が畳んであった。仕立て直しではない。布が古すぎる。肘のあたりが擦り切れ、何度も裏から当て布をした跡がある。誰のものだったか、聞かなくても分かった。二十年前の布を、今も直している。針を入れるたびに糸が通り、それだけが夫と繋がる手触りなのだろう。
「すみません。エドウィン・フェアチャイルドと申します」
「知ってる」
振り向かなかった。針は止まらなかった。
「あの子の依頼人だろう」
「ええ」
「来たよ、昨日。来て、全部話して、出て行った」
針が布を刺す音だけがあった。アイロンの蒸気が夏の空気と混ざり、工房は息苦しかった。
「どこへ行ったか、ご存じですか」
「あの子が最後に行く場所は、父親の墓だよ」
マーサの目は作業台に向いたままだった。乾いた目だった。二十年前に泣き終えた人間の目だった。
「あんたが、あの子を追い詰めたのもあんたかい」
「いいえ」
エドウィンの声は静かだった。曖昧さは嫌いだ。
「あの人に助けられたのが私です」
針が止まった。
糸が布の上で垂れた。張っていた糸が力を失い、針先から離れて布の表に落ちた。マーサの右手の指が白くなっていた。針を握りすぎている。
——のも。
エドウィンはその一語を聞いていた。追い詰めたのかい、ではなく、追い詰めたのもあんたかい。「も」には自分が含まれている。この女は知っているのだ。昨日、娘に「お前も父親と同じだ」と言った。その言葉が何をしたか。追い詰めたのは告発だけではない。母の言葉もだ。マーサはそれを知っていて、問うた。
「……あの子に、あたしは言ったんだよ。お前も父親と同じだと」
マーサの肩が微かに下がった。
「あの人もそうだった。正しいことを正しくやって。それで家がなくなった。あの子には同じ目に遭ってほしくなかった。でも——言い方が、分からなかった」
声が低くなった。工房の蒸気が、その声を吸い込んだ。
「止めたかったんだ。でも止め方しか出てこなかった」
あの言葉は、恐怖の叫びだったのだろうとエドウィンには思えた。娘が壊れるのが怖い。夫と同じ壊れ方を二度見るのが怖い。だがその恐怖は、受け取る側にとっては呪いになる。
マーサの目が初めて作業台を離れた。エドウィンを見た。乾いた目の奥に、何かが光ったように見えた。涙ではない。もっと古い何かだった。
針が動いた。再び布を刺した。
「北の外れの墓地だよ。乗合馬車で終点まで行って、砂利道を入る。安い石だから見つけにくい。名前と年しか彫ってない」
◇
墓地に着いたのは、夕方だった。乗合馬車を降りてから砂利道を歩く間に、陽が西に傾いた。影が長くなり、道の轍が暗い筋になった。
低い石塀と、開いた鉄の門。門の向こうに墓石が並んでいる。壁がない。屋根もない。窓枠のない窓のように、空が広かった。七月の夕方の光が、石と草の上に等しく落ちていた。
アラベラが見えた。
灰色の墓石の前に座っていた。膝を抱えている。薄い上着の裾が地面に触れていた。裾に朝露の跡があった。鞄もない。法令集もない。何も持っていなかった。
橋の下の自分と、同じだった。
あのとき自分は暗い水の匂いの中にいた。ノートだけ抱えて、世界を閉じようとしていた。あの時来たのはアラベラだった。「あなたが死ぬのは勝手です。けれど、そのノートを道連れにするのは許しません」——あの声で、世界が繋がり直した。
今、この人は何も持っていない。ノートすら持っていない。紙を持つことが罪なら、何も持たないほうがいい。そう思ったのだろう。
エドウィンは隣に立った。何も言わなかった。
隣に座った。墓石が日に焼けて熱かった。安い石は熱を溜める。草が伸びて墓の端を覆いかけている。
GEORGE GRAINGER。1841-1889。
七月の日はまだ沈まなかった。西の空は橙で、影が長く墓石の間に伸びていた。光がある限り、この痛みは晒され続ける。だが光がある限り、隣にいることもできる。
長い沈黙があった。
◇
エドウィンが口を開いた。
「君の母親が言ったことは、半分正しい」
アラベラは顔を上げなかった。
「君は父親と同じだ。正しいと思うことをして、膝を折った。だが父親と違うところが一つある」
「……何」
「君は、膝を折った後の手順を知っている。私がそうだったように」
沈黙。西の空の橙が少しだけ薄くなった。
「橋の下で、君は言った。高潔に沈もうとしているだけだと。今の君に、同じことを言う」
アラベラの肩が震えた。一度だけ。それきりだった。
それから、低い声が聞こえた。
「一つ、言わなければいけないことがある」
エドウィンは黙って待った。
「意匠登録は法的には正しかった。あなたの委任もある。出願人の要件も満たしている。——ブリジッドには計画を伝えた。名前も伝えた。やっていいと言われた。でも出来上がったものを見せなかった。あの板がどんな形をしているのか、確かめてもらわないまま出した。法が求めない手順だった。だから飛ばした」
風が墓石の角を回った。
「法廷であの板を見たかと聞かれて、ブリジッドは黙った。黙るしかなかった。見ていないのだから。——あの沈黙を作ったのは私です」
エドウィンは少し黙った。それから言った。
「私もだ」
アラベラが顔を上げた。
「あの銅板を彫りながら、一度もブリジッドに見せなかった。正しく記述できていれば、それで捉えたと思っていた。だがあれは彼女の祈りだった。祈りを方程式にして、方程式を図面にした。正しく書けば足りると思っていた。足りていなかった」
二人とも黙った。
風が止んだ。遠くで鴉が鳴いた。
「だが手順の話だけでは足りない」
エドウィンの声が変わった。数学者の声だった。
「力は——ブリジッドにはない。パターンのほうにある。まだ整理できていないが、そこが核だ。だが一つ、足りないものがある。論理は組めた。しかし判事を動かすには数字が要る。ブライスの計測記録だ。一人では無理だ」
アラベラの目が動いた。
「一人では無理だ、と」
「一人では無理だ」
アラベラは立ち上がった。
まだ目が赤かった。膝が硬い。何時間も座っていた体だった。立ち上がる途中で右手が墓石の角を掴んだ。冷たくなった石の感触が掌に残っただろう。顔を歪めた。一瞬。それから、息を吐いて、まっすぐ立った。
手が動いた。上着のポケットに手を入れた。手帳があった。持ってこないつもりだった。何も持たずに来たつもりだった。だが手帳だけは、体が覚えていた。
手帳を開いた。鉛筆を出した。書き始めた。
「何を書いている」
「聴聞のやり直しの段取りを」
書きながら、鉛筆が止まった。手帳の頁を遡った。意匠登録の出願控え。登録内容の欄。「物品の形状」。
鉛筆が動いた。速くなった。
◇
墓地を出た。砂利道を歩き、乗合馬車の停留所へ向かった。
西の空がようやく暮れかけていた。七月の長い一日が、ようやく終わろうとしている。テムズの方角から、停滞した夏の川の匂いがかすかに届いた。動かない水の匂い。だがその向こうに、夜風の気配があった。
アラベラは歩きながら手帳に書いていた。聴聞の日程、ブライスへの連絡、フィッツジェラルドへの連絡。鉛筆の先が紙を擦る音が、砂利を踏む音に混じった。
膝を折った後の手順。
橋の下では一人だった。今日は、隣に人がいた。




