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ヴィクトリア朝の特許事務所 ― 魔法の権利、保護します  作者: みんとす
第二章 魔法が詐欺でなくなる日
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7. 膝を折った後の手順

 朝の七時半に、エドウィン・フェアチャイルドは二つのことを同時に知った。アラベラ・グレインジャーが消えたこと。そして自分がその理由の半分であること。


 ブライスが下宿に来た。ノックではなく、ドアを叩いた。開けると、帽子も被っていなかった。


「事務所が閉まっている。ネルが中にいる。合鍵で開けたらしい。アラベラはいない」


「いつから」


「昨夜だ。事務所を閉めて出て行った。ネルが今朝来たら鍵が外からかかっていた。窓も全部閉めてあった」


 ブライスの目は据わっていた。皮肉を言わないブライスは、事態が深刻であることを意味する。昨夜、下宿で数字を追い直した。銅板の対称群。計測値の欠落。ノートの頁に朝までかかった結論が一行だけ残っている——足りない。ブライスの拳が扉を叩くまで、そのことしか考えていなかった。


「俺はサザーク方面を当たる。お前は事務所へ行け。ネルが一人だ」



 リンカンズ・イン近くの事務所に着いたとき、扉は開いていた。


 ネルが机に向かっていた。窓が三つとも開いている。七月の朝の空気が事務所の中を通り抜けていた。昨夜まで閉め切られていた窓を、この十九歳が開けたのだ。


 机の上にファイルが積まれていた。全て閉じてある。その端に、封をした手紙が一通。宛先は「トリーナ」。未送付。便箋をもう一枚引き寄せたところだった。


「フェアチャイルドさん」


 ネルの手が止まり、顔を上げた。不安を隠す気がない目だった。だが逃げていない。


「パーキンズさんの振替は処理しました。他のファイルは閉じたままにしてあります。先生が閉じたものだから」


 エドウィンは事務所の中を見た。整然としている。混乱ではなく、撤退の跡だった。パーキンズの封書が処理され、トリーナへの手紙が書かれ、窓が開いている。全部、この子がやったことだった。


 半年前なら飛び出していただろう。ソーベルの工房に一人で乗り込んだ十九歳は、今朝、窓を開けて机に向かっている。


 エドウィンはその変化を見た。見て、束の間、言葉を探した。人に信頼を渡す語彙が、自分には少なかった。


「ネル」


 名前を呼ばれて、ネルの目が少し開いた。この男に名前を呼ばれたのは初めてだった。


「事務所を開けておいてくれ。もうやっていることを、続ければいい」


 ネルは頷いた。背筋が伸びている。怖がっているが、逃げない顔だった。


「先生は——戻りますか」


「分からない。だが事務所が開いていなければ、戻る場所がない」


 ネルの目が一瞬揺れた。それから机に向き直った。便箋をもう一枚引き寄せた。



 午前の陽が傾き始めた頃、サザークに着いた。テムズの南岸。橋を渡る間、川の匂いが重かった。七月の水は動かない。


 ブリジッドの家は路地の奥にあった。煉瓦の壁に木の扉。窓辺の鉢植えのゼラニウムが萎れかけていた。二週間前に来たとき、土は湿っていた。今は乾いている。花も葉も垂れている。手を当てる人間の手が、止まっていた。


 扉を叩いた。少し間があって、ブリジッドが出てきた。保釈中。顔色が悪い。だが手は膝の上で動いていた。指が小さく開いたり閉じたりしている。仕事を忘れていない手だった。


「フェアチャイルドさん」


「アラベラが消えた。昨夜から事務所を閉めて、どこにもいない」


 手が止まった。首をわずかに傾けた。匂いを確かめるような癖。それから目を伏せた。


「……うちのせいかもしれん」


 エドウィンは何も言わなかった。聴聞の後、面会室で何があったかは聞いていた。ブライスが教えてくれた。「守るって、こういうことだったの」。その言葉の重さを、目の前の女は知っている。


 急に立ち上がりかけた。椅子が鳴った。腰が浮き、大きな手が肘掛けを掴んだ——そして座り直した。保釈中だった。自分の足では行けない。


「急いで」


 それだけだった。行き先は言わなかった。


「あの人、お母さんのところへ行ったかもしれん」



 ボンド・ストリートに着いたとき、陽は頭の上にあった。朝の影がなくなり、路地の石畳が白く焼けている。


 マーサ・グレインジャーの工房は、二本入った路地にあった。仕立て師の看板。窓が開いている。


 扉を開けた。鈴が鳴った。


 マーサは作業台に向かっていた。針が動いている。布を刺し、糸が通り、引く。秋物の仕立てを夏にやる。手が止まらない女だった。


 作業台の端に、男物の上着が畳んであった。仕立て直しではない。布が古すぎる。肘のあたりが擦り切れ、何度も裏から当て布をした跡がある。誰のものだったか、聞かなくても分かった。二十年前の布を、今も直している。針を入れるたびに糸が通り、それだけが夫と繋がる手触りなのだろう。


「すみません。エドウィン・フェアチャイルドと申します」


「知ってる」


 振り向かなかった。針は止まらなかった。


「あの子の依頼人だろう」


「ええ」


「来たよ、昨日。来て、全部話して、出て行った」


 針が布を刺す音だけがあった。アイロンの蒸気が夏の空気と混ざり、工房は息苦しかった。


「どこへ行ったか、ご存じですか」


「あの子が最後に行く場所は、父親の墓だよ」


 マーサの目は作業台に向いたままだった。乾いた目だった。二十年前に泣き終えた人間の目だった。


「あんたが、あの子を追い詰めたのもあんたかい」


「いいえ」


 エドウィンの声は静かだった。曖昧さは嫌いだ。


「あの人に助けられたのが私です」


 針が止まった。


 糸が布の上で垂れた。張っていた糸が力を失い、針先から離れて布の表に落ちた。マーサの右手の指が白くなっていた。針を握りすぎている。


 ——のも。


 エドウィンはその一語を聞いていた。追い詰めたのかい、ではなく、追い詰めたのもあんたかい。「も」には自分が含まれている。この女は知っているのだ。昨日、娘に「お前も父親と同じだ」と言った。その言葉が何をしたか。追い詰めたのは告発だけではない。母の言葉もだ。マーサはそれを知っていて、問うた。


「……あの子に、あたしは言ったんだよ。お前も父親と同じだと」


 マーサの肩が微かに下がった。


「あの人もそうだった。正しいことを正しくやって。それで家がなくなった。あの子には同じ目に遭ってほしくなかった。でも——言い方が、分からなかった」


 声が低くなった。工房の蒸気が、その声を吸い込んだ。


「止めたかったんだ。でも止め方しか出てこなかった」


 あの言葉は、恐怖の叫びだったのだろうとエドウィンには思えた。娘が壊れるのが怖い。夫と同じ壊れ方を二度見るのが怖い。だがその恐怖は、受け取る側にとっては呪いになる。


 マーサの目が初めて作業台を離れた。エドウィンを見た。乾いた目の奥に、何かが光ったように見えた。涙ではない。もっと古い何かだった。


 針が動いた。再び布を刺した。


「北の外れの墓地だよ。乗合馬車で終点まで行って、砂利道を入る。安い石だから見つけにくい。名前と年しか彫ってない」



 墓地に着いたのは、夕方だった。乗合馬車を降りてから砂利道を歩く間に、陽が西に傾いた。影が長くなり、道の轍が暗い筋になった。


 低い石塀と、開いた鉄の門。門の向こうに墓石が並んでいる。壁がない。屋根もない。窓枠のない窓のように、空が広かった。七月の夕方の光が、石と草の上に等しく落ちていた。


 アラベラが見えた。


 灰色の墓石の前に座っていた。膝を抱えている。薄い上着の裾が地面に触れていた。裾に朝露の跡があった。鞄もない。法令集もない。何も持っていなかった。


 橋の下の自分と、同じだった。


 あのとき自分は暗い水の匂いの中にいた。ノートだけ抱えて、世界を閉じようとしていた。あの時来たのはアラベラだった。「あなたが死ぬのは勝手です。けれど、そのノートを道連れにするのは許しません」——あの声で、世界が繋がり直した。


 今、この人は何も持っていない。ノートすら持っていない。紙を持つことが罪なら、何も持たないほうがいい。そう思ったのだろう。


 エドウィンは隣に立った。何も言わなかった。


 隣に座った。墓石が日に焼けて熱かった。安い石は熱を溜める。草が伸びて墓の端を覆いかけている。


 GEORGE GRAINGER。1841-1889。


 七月の日はまだ沈まなかった。西の空は橙で、影が長く墓石の間に伸びていた。光がある限り、この痛みは晒され続ける。だが光がある限り、隣にいることもできる。


 長い沈黙があった。



 エドウィンが口を開いた。


「君の母親が言ったことは、半分正しい」


 アラベラは顔を上げなかった。


「君は父親と同じだ。正しいと思うことをして、膝を折った。だが父親と違うところが一つある」


「……何」


「君は、膝を折った後の手順を知っている。私がそうだったように」


 沈黙。西の空の橙が少しだけ薄くなった。


「橋の下で、君は言った。高潔に沈もうとしているだけだと。今の君に、同じことを言う」


 アラベラの肩が震えた。一度だけ。それきりだった。


 それから、低い声が聞こえた。


「一つ、言わなければいけないことがある」


 エドウィンは黙って待った。


「意匠登録は法的には正しかった。あなたの委任もある。出願人の要件も満たしている。——ブリジッドには計画を伝えた。名前も伝えた。やっていいと言われた。でも出来上がったものを見せなかった。あの板がどんな形をしているのか、確かめてもらわないまま出した。法が求めない手順だった。だから飛ばした」


 風が墓石の角を回った。


「法廷であの板を見たかと聞かれて、ブリジッドは黙った。黙るしかなかった。見ていないのだから。——あの沈黙を作ったのは私です」


 エドウィンは少し黙った。それから言った。


「私もだ」


 アラベラが顔を上げた。


「あの銅板を彫りながら、一度もブリジッドに見せなかった。正しく記述できていれば、それで捉えたと思っていた。だがあれは彼女の祈りだった。祈りを方程式にして、方程式を図面にした。正しく書けば足りると思っていた。足りていなかった」


 二人とも黙った。


 風が止んだ。遠くで鴉が鳴いた。


「だが手順の話だけでは足りない」


 エドウィンの声が変わった。数学者の声だった。


「力は——ブリジッドにはない。パターンのほうにある。まだ整理できていないが、そこが核だ。だが一つ、足りないものがある。論理は組めた。しかし判事を動かすには数字が要る。ブライスの計測記録だ。一人では無理だ」


 アラベラの目が動いた。


「一人では無理だ、と」


「一人では無理だ」


 アラベラは立ち上がった。


 まだ目が赤かった。膝が硬い。何時間も座っていた体だった。立ち上がる途中で右手が墓石の角を掴んだ。冷たくなった石の感触が掌に残っただろう。顔を歪めた。一瞬。それから、息を吐いて、まっすぐ立った。


 手が動いた。上着のポケットに手を入れた。手帳があった。持ってこないつもりだった。何も持たずに来たつもりだった。だが手帳だけは、体が覚えていた。


 手帳を開いた。鉛筆を出した。書き始めた。


「何を書いている」


「聴聞のやり直しの段取りを」


 書きながら、鉛筆が止まった。手帳の頁を遡った。意匠登録の出願控え。登録内容の欄。「物品の形状」。


 鉛筆が動いた。速くなった。



 墓地を出た。砂利道を歩き、乗合馬車の停留所へ向かった。


 西の空がようやく暮れかけていた。七月の長い一日が、ようやく終わろうとしている。テムズの方角から、停滞した夏の川の匂いがかすかに届いた。動かない水の匂い。だがその向こうに、夜風の気配があった。


 アラベラは歩きながら手帳に書いていた。聴聞の日程、ブライスへの連絡、フィッツジェラルドへの連絡。鉛筆の先が紙を擦る音が、砂利を踏む音に混じった。


 膝を折った後の手順。


 橋の下では一人だった。今日は、隣に人がいた。

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