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ヴィクトリア朝の特許事務所 ― 魔法の権利、保護します  作者: みんとす
第二章 魔法が詐欺でなくなる日
13/17

5. 紙が人を殺す

 聴聞の朝は、晴れていた。


 治安判事裁判所の窓から夏の陽が差し込んでいた。書記が窓を開けようとして、判事が止めた。通りの物売りの声が入る。閉めたまま始まり、十分で空気が澱んだ。判事が額を拭い、書記に頷く。窓が一つだけ開いた。


 廊下には黒い上着の男たちが並んでいた。弁護士、書記、被告人の親族。女の姿は、被告人か証人として呼ばれた者のなかにしかない。


 アラベラは廊下で待っていた。隣にモレッティがいる。ブライスは傍聴席にいる。エドウィンは証人として呼ばれている。ネルは事務所で書類を守っている。


 ブリジッドが連れてこられた。


 手が——あの大きな手が——膝の上で組まれていた。手錠はない。だが手が動いていなかった。ブリジッドの手はいつも動いている。洗い物か、薪か、子どもの頭か、老人の膝の上か。止まっている手を見るのは初めてだった。関節の赤みだけが同じだった。


 アラベラは事務弁護士のフィッツジェラルドと並んで座った。弁理士は法廷で直接弁論できない。事務弁護士を通す。先日の打合せで「武器を作ります」と言った。今日がその日だ。


「段取りは」


「まず訴追側。告発の事実と法的根拠。次に弁護側。意匠登録を軸に反論。証人はフェアチャイルド氏とモレッティ神父」


 フィッツジェラルドが告発状の写しをめくった。アラベラの目が日付の欄に留まった。起草日、七月五日。カー牧師の宣誓日、七月十日。カーは、アラベラたちがブリジッドの存在を知る前から、告発の準備を始めていた。


「治安判事は」


「ホワイト判事。六十代。保守的だが、手続きには厳格。法の文言に忠実な人だ」


 法の文言に忠実。それは味方にも敵にもなる。



 訴追側の論告は短かった。


 カー牧師が証言台に立った。五十代。頬が赤く、顎が張っている。声は説教壇で鍛えた声だった。


「被告人ブリジッド・オコナーは、サザーク地区において、手をかざすことで傷病を治癒すると称し、近隣住民を繰り返し欺いてきました。一八二四年浮浪者法第四条に定める『巧妙な技芸により国王の臣民を欺く者』に該当いたします」


 カー牧師の目がブリジッドに向いた。軽蔑ではなかった。確信だった。自分は正しいことをしているという、揺るぎない確信。


 アラベラはその目を見た。エドウィンの発明を盗んだ男の目には所有欲があった。カーの目にあるのは義務感だ。義務感のほうが厄介だった。義務感は、自分を疑わない。



 フィッツジェラルドが立った。


「弁護側の主張を申し上げます。被告人ブリジッド・オコナーの行為は、詐欺ではありません。被告人の手の動きは、特許庁に製造物品の形状として意匠登録された幾何学的パターンの実行です」


 意匠登録の登録証書を提出した。図面を提出した。エドウィンの分析覚書を提出した。


「さらに、同じ原理に基づく装置が、フェアチャイルド特許第——号として特許付与されております。国の機関自身が、この種の現象を再現可能な技術として扱っています。国が技術として登録したものを実行することは、詐欺ではありません」


 ホワイト判事が書類を見た。眼鏡を上げ、図面を見た。


「この意匠登録は、被告人の行為そのものを登録したものですか」


「被告人の手の動きを三次元座標で記録し、二次元平面に射影した幾何学的配置を、銅板上に具現化したものです。被告人の行為の基礎となるパターンが、製造物品の形状として登録されております」


「なるほど」


 ホワイト判事は書類を傍らに置いた。読み終えたのではない。保留した。



 訴追側の事務弁護士が立った。若い。だが目が鋭い。教区牧師の懐で雇える弁護士には見えなかった。弁護側の席に視線を走らせ、アラベラの顔で止めた。


「弁護側は、被告人の行為が国に認められた技術の実行であると主張されました。しかし訴追側は、これをむしろ被告人の有罪を補強する証拠と考えます」


 アラベラの指先が冷えた。七月の法廷で、指だけが冷たかった。


「被告人は、自らの妖術を公的機関に登録するほど計画的に、体系的に、この詐欺を行っていたのであります」


 法廷が静まった。


「さらに申し上げます。本件告発の背景には、一七三五年妖術法の趣旨がございます。同法は、魔法を行使すると詐称して利益を得る行為を罰するものであり、その前提は明確です。魔法は存在しない。この法廷がその前提を維持するならば——」


 一拍の間。


「——魔法装置に特許を与えた特許庁の判断は、誤りであったことになります」


 アラベラの手が膝の上のファイルを握り込んだ。紙の角が掌に食い込んだ。


「訴追側は、フェアチャイルド特許第——号について、高等法院への特許取消訴訟を予告いたします」


 フィッツジェラルドが立ち上がった。


「判事、弁護側は意匠登録が魔法の力を主張する証拠であるとの解釈に異議を申し立てます。登録の対象は幾何学的配置——物品の形状であり、超自然の能力ではございません」


 訴追側が即座に返した。


「形状であれ効能であれ、その出所が妖術であるならば同法の射程内です。弁護側自身が、被告人の手の動きと意匠の同一性を立証されたばかりです」


 ホワイト判事が右手を上げた。


「双方の主張は承りました」


 それ以上の弁論は許されなかった。判事が手元の書類に目を落としたとき、訴追側がなお一歩進み出た。ホワイト判事は短く頷いた。


「もう一点、確認を求めます」


 訴追側の事務弁護士が、弁護側が提出した銅板の図面を手に取った。


「被告人に伺います。弁護側が提出されたこの銅板——あなたの技法を表していると主張されているこの物品を、あなたはご覧になったことがありますか」


 法廷が静まった。質の違う沈黙だった。


 ブリジッドの手が膝の上で止まった。


 フィッツジェラルドが立ちかけた。だが質問は被告人に向けられている。事実の確認だった。法的に遮る理由がない。


 ブリジッドは黙っていた。首がわずかに傾いた——あの癖。だが言葉は出なかった。見ていないものを見たとは言えない。見ていないと答えれば、弁護の論理が崩れる。沈黙だけが残った。


 訴追側の事務弁護士は、それ以上問わなかった。判事のほうを向き、静かに言った。


「弁護側は、この銅板が被告人の技法を表していると主張されました。しかし被告人自身がこの銅板を見たことがない。被告人の手と、この銅板のあいだに、被告人の確認は存在しません。意匠と被告人の行為との結びつきは、弁護側が一方的に主張しているにすぎません」



 法廷の空気が変わった。


 ブライスが傍聴席で身を乗り出した。エドウィンが証人席で顔色を変えた。銅板を彫ったのは自分だった。見せなかったのも自分だった。手が——ペンを持っていない手が、膝の上で握り込まれていた。モレッティが目を閉じた。


 アラベラは動けなかった。自分が出した紙が、エドウィンの特許を撃つ弾になっていた。ブリジッドに銅板を見せなかったのは自分の判断だった。法が求めない手順だから飛ばした。その穴を、訴追側が突いた。意匠と行為の結びつきが否定されれば、弁護の論理は根を失う。


 ホワイト判事が言った。


「双方の主張を精査する必要があります。聴聞を延期します。被告人は保証人を付して保釈とし、次回期日まで出頭義務を課します」


 判事が書類を閉じた。取消訴訟の四文字だけが、アラベラの頭の中で回っていた。



 廊下に出た。


 エドウィンが近づいてきた。何か言おうとしていた。アラベラは顔を上げなかった。


「アラベラ」


「少し、一人にしてください」


 エドウィンは何も言わなかった。ブライスがエドウィンの肩に手を置いた。二人は離れた。


 モレッティが廊下の柱の影に立っていた。ローマン・カラーが白く光っている。


「グレインジャーさん。あちらの論拠に——私の調査報告が、使われたかもしれません。三ヶ月の調査記録を、ローマに送りました。その写しが教区に回っていたとすれば——」


 モレッティは自分の手を見ていた。聖職者の細い指が、無意識に十字を切りかけて、止まった。


「守ろうとして調べたことが、告発の材料になったかもしれない、と」


「はい」


 アラベラは何も言えなかった。紙に落としたことの代償を払っているのは、自分だけではなかった。


 モレッティは帽子を被り直し、小さく頭を下げて廊下の奥へ消えた。



 夕方。拘留所。


 アラベラはブリジッドに会いに行った。保釈の許可は下りたが、保証人が揃うまで外には出られない。


 面会室は狭かった。木の机と椅子が二つ。壁に窓はない。七月の熱気が壁と天井に溜まり、空気が動かない。ガス灯が黄色い光と熱を落としている。


 ブリジッドは座っていた。額に汗が光っている。だが手が膝の上にある。まだ動いていない。暑いのに、手だけが冷えているように見えた。仕事を失った手だった。


「保釈は認められました。保証人の手配に時間がかかりましたが、明日の朝には出られます」


「ありがとう」


 声が平らだった。怒っているのではない。もっと静かな何かだった。


「ブリジッドさん——」


「ねえ」


 薄い茶色の目が、アラベラに向いた。首を傾ける癖は、ここでも同じだった。


「あんたが来る前は、ご近所さんが静かに来て、静かに帰っていた。誰も紙なんか出さんかった。マクナマラのおばあちゃんの膝が痛いとき、うちが手を当てて、少し楽にして、おばあちゃんが『ありがとうね、ブリジー』って言って帰る。それだけだった」


 アラベラは黙っていた。


「紙を出したのはあんただよ。うちの手の動きを数字にして、銅の板に彫って、お上に届けた。うちは頼んでない。ルカ神父が連れてきた弁理士の先生が、『守る』って言ったから任せた。でも——」


 ブリジッドの手が、膝の上で一度だけ開いて、閉じた。


「守るって、こういうことだったの」


 アラベラは答えられなかった。


 答えるべき言葉がなかった。



 拘留所を出て、気づけば事務所に戻っていた。


 ネルが机に向かっていた。顔を上げた。


「先生?」


 アラベラは何も答えなかった。


 上着を掛け、椅子に座り、机の上のファイルを全て閉じた。一つずつ。丁寧に。ブリジッドのファイル。エドウィンのファイル。煙突換気弁のファイル。改良歯車のファイル。


 全部閉じた。


 引き出しを開けた。特許証書と未亡人の手紙と告発状の写し。三枚の紙。


 引き出しを閉じた。


 ガス灯の火が低くなっていた。通りの向こうで、辻馬車の蹄が一つ、二つ、消えていった。


「先生」


 ネルの声がした。


 アラベラは何も答えなかった。


 ネルが帰り支度をしていた。アラベラは言った。


「明日は来なくていい」


 ネルの手が止まった。何か言いかけて、アラベラの顔を見て、やめた。鞄を持って出ていった。


 アラベラは事務所の鍵をかけた。窓を全て閉めた。七月の夜なのに、風を入れなかった。机の上に閉じたファイルの列がある。掌の鍵だけが冷たかった。


 しばらく一人で座っていた。何もしなかった。


 それから立ち上がり、鍵を握ったまま、事務所を出た。外から鍵をかけた。行く場所がなかった。辻馬車が一台通り過ぎた。七月の夕方の光がまだ通りに残っていた。


 足が動いた。母の工房の方角だった。

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