4. 対称群
初日、ブリジッドは嫌がった。
「見世物じゃないよ」
エドウィンは台所の入り口に立ったまま、ノートを膝の上に開いていた。アラベラから事情は聞いている。意匠登録のこと。ブリジッドの手を銅板に落とすこと。生きた動きを線に変える——それは記録なのか、標本作りなのか。
「見世物にするつもりはない。記録するだけだ」
「記録して、何になるの」
「あなたの手の動きに、形がある。形があるなら写せる。写せるなら守れる」
ブリジッドは怪訝な顔をしたが、マクナマラの膝の治療は止められない。翌日もエドウィンは来た。その翌日も。四日目には、ブリジッドも気にしなくなった。隅で数字を書いている痩せた男は、家具の一部になった。
◇
ブライスが大学の光学室から持ち出したのは、一対のガラス格子板と、写真用の乾板カメラだった。格子板を二枚、わずかに角度をずらして窓際に立てる。格子の線同士が干渉して、太い縞模様が浮かぶ。モアレ縞。
七月の直射日光では縞が白飛びする。使えるのは北窓からの午前の散乱光だけだった。ブリジッドの台所は狭く、三日目にブライスが窓枠に固定台を自作した。
ブリジッドの手がこの縞の前を横切ると、手の輪郭が縞を歪ませる。歪みの幅が手の位置を示す。目で追えない速さの動きも、乾板が捉える。
「格子の間隔が既知なら、縞のずれは距離に換算できる」
「どのくらいの精度だ」
「格子一本分の百分の一。〇・〇三ミリメートル」
エドウィンが顔を上げた。
「——千分の一インチと少しだ」
「最初からそう言え」
◇
三日目の午後。
ブリジッドの手が乱れた。
いつもは滑らかな軌跡が、突然ぎくしゃくした。患者の腕を治しているはずの手が、ただの手になった。エドウィンはペンを止めた。
「急がなくていい」
答えはなかった。窓の外を見ていた。しばらく経って、両手を膝の上に戻した。指を組んだ。祈るときのように。
やがて手が動き始めた。最初は遅く、それから——滑らかに。さっきまでとは違う。重心が低い。迷いのない、古い手の動きだった。
エドウィンはノートに書いた。三日目。中断後、軌跡安定。指の関節の赤みは毎日同じだった。灰汁の色か、日差しの色か。八日間変わらない。数学者は測れるものは何でも測る。
◇
エドウィンがサザークに通った八日間のうちに、テムズの臭気に慣れた。毎朝渡る。西風の日は薄く、南風の日は川面から直接立ち上る。慣れたことの意味を、エドウィンは考えなかった。
エドウィンが座標を書き取っている間、ブリジッドは患者の顔を見るたびに首を傾けた。少し右に。犬や子どもが相手の匂いを確かめるときの仕草だった。エドウィンはそれもノートに書いた。治療開始前、首の傾斜、推定十五度。
六日間で、十七回の治療を記録した。成功が九回。部分的な成功が五回。失敗が三回。モレッティの記録と一致する比率だった。
◇
五日目の昼、ネルが書類を届けにサザークへ来た。煙突換気弁の完全明細書の期日が近い。提出書類に付箋を貼ってある。先生が戻ったら署名をもらう。
ブリジッドの台所を出て路地を曲がったところで、足が止まった。
三軒先の家の前に、牧師服の男が立っている。黒い上着。顎の張った横顔。扉を叩いていた。中から女が出てきた。男が紙を見せた。女の顔がこわばった。
扉の前で何か話している。ネルのいる場所まで声は届かない。だが紙を見せ、女がこわばり、首を振る——告発のための証人集めだった。牧師服。告発状にあった名前が繋がった。カー牧師だ。
女が首を振った。扉が閉まった。カーは帽子を直し、次の家に向かった。
ネルは壁から離れ、反対の路地を歩いた。カーは待っているだけではない。住民を固めている。
事務所に戻って報告すべきだった。だがアラベラは意匠登録の出願で手一杯だ。
ネルは何も言わなかった。
◇
七日目、エドウィンは大学の研究室に籠もった。
乾板を床に並べた。壁にも貼った。十七回分の写真から、モアレ縞の歪みを読み取り、手の軌跡を座標に変換する。三次元の手の動きを、縞のずれとして二次元に落とす。
「影絵と同じだ」
誰もいない部屋で呟いた。三次元の手を二次元に落とせば、偶然の揺れが消えて、本質的な対称性だけが残る。ただし射影の方向で対称性が崩れることもある。だからブライスは三方向から撮った。正面と、四十五度と、真上。三つの射影が一致する対称性だけが本物だ。
最初の三回分を重ねた時点で、見えた。
六角形だった。
完全な正六角形ではない。だが六つの頂点に相当する位置を、手が繰り返し通過している。左手が外側の三頂点を、右手が内側の三頂点を辿る。二つの三角形が重なり、六芒星に近い図形が現れる。
エドウィンの装置は六角形の黄銅板だった。
同じだ。
同じ構造が、装置の中にも、手の中にもある。
「群論で言えば——」
独り言だった。誰もいない研究室で、数学者は壁に向かって喋る。
「——D₆。二面体群。六回回転対称と鏡映対称。正六角形の対称操作群」
だが完全には一致しない。エドウィンの装置は記号を基板に固定する。ブリジッドの手は違う。手の軌跡そのものが対称操作を実行している。刻むのではなく、描く。
そして——ブリジッドの手のほうが、手数が少ない。私が十二の操作で記述するものを、彼女は四つの動きで実現している。
エドウィンの手が止まった。ペンが机の上に転がった。拾わなかった。
十余年の研究が到達した場所に、アイルランドの老女の口伝は——少ない手数で——すでにいた。
屈辱ではない。だが痛い。
エドウィンは椅子に座り、天井を見た。
しばらくそのままだった。呼吸が深くなった。痛みが通り過ぎるのを、待っている。
やがて体が動いた。ペンを拾った。
壁に三枚の図面を並べた。
左——自分の装置。六回の回転と六回の鏡映。十二の操作。
中央——ブリジッドの手。回転と鏡映。四つの基本動作。
右——特許庁の地下で見つけた「ゼロ」の設計図。八つの記号。二重の銀線。
三者を重ねると、見えた。
「ゼロ」のパターンは自分とブリジッドの両方を含んでいる。上位構造だ。そしてその中に、どちらにもない未知の操作がある。
エドウィンは三枚の図面を見比べた。自分の装置は完成品だと思っていた。だがこの壁が語っているのは、自分の装置がブリジッドの手と同じく、もっと大きな構造の一つの断面に過ぎないということだった。
ブライスが大学から戻ってきた。
「SPRの記録を洗った。初期会員の名簿に、あの紋章がある。円と三本線と星。だが——名前が黒く塗り潰されている。一人だけ」
「特許庁の地下の羊皮紙といい、この名簿といい、痕跡だけが残っている。本体は消えて」
エドウィンはノートに書き加えた。日付。SPR名簿。紋章の一致。名前の抹消。
◇
八日目の夜、銅板を彫った。
昼間の銅板は七月の熱で膨張する。精密な線を彫るなら、気温が下がる夜でなければならない。ブライスが大学の工房で切り出した銅板を、エドウィンはまず冷水に浸した。板の温度が安定するまで待った。金属の冷たさが指に移る。ブリジッドの手は温めて治す。エドウィンの手は冷やして彫る。
射影図を銅板に写す。六角形の頂点。軌跡の曲線。交差点。手の通過する順序を示す番号。
彫刻刀の先が銅に食い込むたびに、金属の屑が巻き上がる。細い線だった。ブリジッドの手の動きが、銅の表面に凍った。
ネルが見ていた。
アラベラに頼まれて、意匠登録の図面として使えるかどうかを確認するために来ていた。夜の大学だった。法令集と施行規則の抜き書きを膝の上に載せ、エドウィンの手元を見ている。
エドウィンが第三象限の曲線を彫ったとき——
ネルの右手が痺れた。膝の上の法令集がずれた。握り直した。
同時に、研究室の隅に置いてあったガルバノメータの針が振れた。
エドウィンは彫刻に集中していて気づかなかった。だがブライスが見た。
「おい」
「何だ」
「計器が動いた」
エドウィンが手を止めた。ガルバノメータを見た。針は静止している。
「今は止まっている」
「さっき動いた。〇・三目盛ほど」
エドウィンの目が細くなった。ノートを開いた。一月前の走り書き。
「実験終了後、ガルバノメータに微小変動。外部雑音か。再現せず。原因不明」
「また外部共鳴か」
「分からん。だが前回も実験中だった。今回は彫刻中だ。装置は動いていない」
エドウィンはノートに書いた。
「銅板彫刻中、ガルバノメータ微小変動。装置停止中。二次コイルのみ応答。0.3目盛。外部要因か。要追跡」
ネルは右手を握り直した。
◇
ネルはサザークを回っていた。
アラベラに言われたのではない。自分で決めた。ブリジッドの治癒を受けた人間が法廷で証言すれば、詐欺の主張は揺らぐ。
道は知っている。サザークはネルが育った土地だ。だがどの家を叩いても、法廷の名前を出すと同じ顔をされた。目を逸らし、紅茶を包み、黙る。カー牧師の影がどの家にもあった。あの男が先に回っていた。
七軒を回って、一人だけ違う反応があった。トリーナという若い母親。赤子を左腕に抱えたまま扉を開けた。
「行く。証言する。あの人がいなかったら、この子の顔は今でも——」
ネルは名前と住所を書き取った。
だが翌日、トリーナから手紙が来た。ネルが帰った後、カー牧師が家に来たという。一行だけ書いてあった。
「やっぱり行けません。ごめんなさい」
ネルは手紙を引き出しにしまった。アラベラには、証人が見つからなかったとだけ報告した。
◇
図面が完成した。
アラベラの事務所。夜。エドウィンが銅板と射影図と、群論的分析の覚書を机に並べた。アラベラが図面を覗き込んだ。一瞬、息を吸う音がした。すぐに表情を戻したが、目が銅板の表面を離れなかった。
「これが意匠の図版になる。ブリジッドの手の軌跡を二次元に射影した幾何学的配置。製造物品としては、この銅板そのものが登録対象になる」
アラベラは図面を見た。
六角形。曲線。交差点。番号。
美しかった。ブリジッドの手が空中に描いていた見えない編み物が、銅の上に姿を現している。
「エドウィン。あなたの装置との関係は」
「同じ対称群の、異なる表現だ」
「分かる言葉で言ってください」
「同じ構造を、違う方法で書いてある」
ネルが奥の机から顔を上げた。
「すみません、対称群って何ですか」
エドウィンが口を開きかけた。ブライスが先に言った。
「設計図と建物の関係だ。設計図に家を建てる力はない。だが設計図なしに家は建たない。パターンは設計図で、ブリジッドの手は建築家だ」
ネルは少し考えてから頷いた。
アラベラがエドウィンに向き直った。
「それを証言できますか」
「できる」とエドウィンは言った。
「法廷で」
「法廷でも。どこでも。数学は場所を選ばない」
アラベラは意匠登録の出願書類を開いた。ネルがすでに書式を整えていた。
「出願人は——エドウィン・フェアチャイルドで進めます」
アラベラは一度だけ確かめた。代理人はアラベラ・グレインジャー。観測記録の写しを添えた。頁をめくると、全て同じ冒頭だった。日付。観測者。被観測者。転写の旨。エドウィンの字だ。
署名欄を飛ばして、題名に進んだ。
"Design for a Therapeutic Pattern Plate."
(治療的パターン板の意匠)
図面は三面。正面図。側面図。そして、軌跡の展開図。
図面の欄外には物品名と構成だけを記した。意匠は形状そのものが保護の対象になる。
「明日、出願します」
◇
特許庁。
ヴェイルが書類を見た。図面に目が留まった。
「また、あなたですか」
「また、私です」
「今度は意匠ですか」
「ええ」
ヴェイルは書類をめくった。図面の六角形を見つめた。指が図面の縁で止まった。
「これは——手の動きの記録ですか」
「製造物品の形状です。条文の要件を満たしていると考えます」
「書式を確認します」
ヴェイルは眼鏡を外した。拭いた。かけ直した。
「二、三日のうちに届くでしょう。——届いてからが本番です」
最後の一言は小さかった。審査官の領分を踏み出さない声量。だが確かに聞こえた。
アラベラは頷き、特許庁を出た。
◇
三日後、庁から封書が届いた。ネルが開封し、アラベラの机に置いた。
登録証書。意匠登録番号が振られていた。赤い庁印が紙の隅に押されている。
方式審査のみで登録される制度だ。形式が整っていれば、中身は問わない。
だが意味があるのは、公的記録に残ること。ブリジッドの手の動きが、銅板の形状として、国の帳簿に刻まれること。
記録に載った。
魔法のパターンが、製造物品の形状として、特許庁の登録簿に載った。
エドウィンは登録証書を見た。番号を確認し、ノートに転記した。それだけだった。
銅板は完成した。登録も通った。出願も、図面も、正しい手順で進んだ。
ブリジッドには見せていない。
あの八日間、毎日ブリジッドの手を見ていた。首の傾きも、関節の赤みも、治療を始める前の一拍の沈黙も、全て記録した。だが銅板が完成したとき、見せに行くという手順は、どの計画にもなかった。数学者にとって正しい記述は対象そのものだった。記述が完成すれば、それで捉えたことになる。
風が通りを吹き抜けた。七月の終わりの風。熱を含んでいた。




