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ヴィクトリア朝の特許事務所 ― 魔法の権利、保護します  作者: みんとす
第二章 魔法が詐欺でなくなる日
12/17

4. 対称群

 初日、ブリジッドは嫌がった。


「見世物じゃないよ」


 エドウィンは台所の入り口に立ったまま、ノートを膝の上に開いていた。アラベラから事情は聞いている。意匠登録のこと。ブリジッドの手を銅板に落とすこと。生きた動きを線に変える——それは記録なのか、標本作りなのか。


「見世物にするつもりはない。記録するだけだ」


「記録して、何になるの」


「あなたの手の動きに、形がある。形があるなら写せる。写せるなら守れる」


 ブリジッドは怪訝な顔をしたが、マクナマラの膝の治療は止められない。翌日もエドウィンは来た。その翌日も。四日目には、ブリジッドも気にしなくなった。隅で数字を書いている痩せた男は、家具の一部になった。



 ブライスが大学の光学室から持ち出したのは、一対のガラス格子板と、写真用の乾板カメラだった。格子板を二枚、わずかに角度をずらして窓際に立てる。格子の線同士が干渉して、太い縞模様が浮かぶ。モアレ縞。


 七月の直射日光では縞が白飛びする。使えるのは北窓からの午前の散乱光だけだった。ブリジッドの台所は狭く、三日目にブライスが窓枠に固定台を自作した。


 ブリジッドの手がこの縞の前を横切ると、手の輪郭が縞を歪ませる。歪みの幅が手の位置を示す。目で追えない速さの動きも、乾板が捉える。


「格子の間隔が既知なら、縞のずれは距離に換算できる」


「どのくらいの精度だ」


「格子一本分の百分の一。〇・〇三ミリメートル」


 エドウィンが顔を上げた。


「——千分の一インチと少しだ」


「最初からそう言え」



 三日目の午後。


 ブリジッドの手が乱れた。


 いつもは滑らかな軌跡が、突然ぎくしゃくした。患者の腕を治しているはずの手が、ただの手になった。エドウィンはペンを止めた。


「急がなくていい」


 答えはなかった。窓の外を見ていた。しばらく経って、両手を膝の上に戻した。指を組んだ。祈るときのように。


 やがて手が動き始めた。最初は遅く、それから——滑らかに。さっきまでとは違う。重心が低い。迷いのない、古い手の動きだった。


 エドウィンはノートに書いた。三日目。中断後、軌跡安定。指の関節の赤みは毎日同じだった。灰汁の色か、日差しの色か。八日間変わらない。数学者は測れるものは何でも測る。



 エドウィンがサザークに通った八日間のうちに、テムズの臭気に慣れた。毎朝渡る。西風の日は薄く、南風の日は川面から直接立ち上る。慣れたことの意味を、エドウィンは考えなかった。


 エドウィンが座標を書き取っている間、ブリジッドは患者の顔を見るたびに首を傾けた。少し右に。犬や子どもが相手の匂いを確かめるときの仕草だった。エドウィンはそれもノートに書いた。治療開始前、首の傾斜、推定十五度。


 六日間で、十七回の治療を記録した。成功が九回。部分的な成功が五回。失敗が三回。モレッティの記録と一致する比率だった。



 五日目の昼、ネルが書類を届けにサザークへ来た。煙突換気弁の完全明細書の期日が近い。提出書類に付箋を貼ってある。先生が戻ったら署名をもらう。


 ブリジッドの台所を出て路地を曲がったところで、足が止まった。


 三軒先の家の前に、牧師服の男が立っている。黒い上着。顎の張った横顔。扉を叩いていた。中から女が出てきた。男が紙を見せた。女の顔がこわばった。


 扉の前で何か話している。ネルのいる場所まで声は届かない。だが紙を見せ、女がこわばり、首を振る——告発のための証人集めだった。牧師服。告発状にあった名前が繋がった。カー牧師だ。


 女が首を振った。扉が閉まった。カーは帽子を直し、次の家に向かった。


 ネルは壁から離れ、反対の路地を歩いた。カーは待っているだけではない。住民を固めている。


 事務所に戻って報告すべきだった。だがアラベラは意匠登録の出願で手一杯だ。


 ネルは何も言わなかった。



 七日目、エドウィンは大学の研究室に籠もった。


 乾板を床に並べた。壁にも貼った。十七回分の写真から、モアレ縞の歪みを読み取り、手の軌跡を座標に変換する。三次元の手の動きを、縞のずれとして二次元に落とす。


「影絵と同じだ」


 誰もいない部屋で呟いた。三次元の手を二次元に落とせば、偶然の揺れが消えて、本質的な対称性だけが残る。ただし射影の方向で対称性が崩れることもある。だからブライスは三方向から撮った。正面と、四十五度と、真上。三つの射影が一致する対称性だけが本物だ。


 最初の三回分を重ねた時点で、見えた。


 六角形だった。


 完全な正六角形ではない。だが六つの頂点に相当する位置を、手が繰り返し通過している。左手が外側の三頂点を、右手が内側の三頂点を辿る。二つの三角形が重なり、六芒星に近い図形が現れる。


 エドウィンの装置は六角形の黄銅板だった。


 同じだ。


 同じ構造が、装置の中にも、手の中にもある。


「群論で言えば——」


 独り言だった。誰もいない研究室で、数学者は壁に向かって喋る。


「——D₆。二面体群。六回回転対称と鏡映対称。正六角形の対称操作群」


 だが完全には一致しない。エドウィンの装置は記号を基板に固定する。ブリジッドの手は違う。手の軌跡そのものが対称操作を実行している。刻むのではなく、描く。


 そして——ブリジッドの手のほうが、手数が少ない。私が十二の操作で記述するものを、彼女は四つの動きで実現している。


 エドウィンの手が止まった。ペンが机の上に転がった。拾わなかった。


 十余年の研究が到達した場所に、アイルランドの老女の口伝は——少ない手数で——すでにいた。


 屈辱ではない。だが痛い。


 エドウィンは椅子に座り、天井を見た。


 しばらくそのままだった。呼吸が深くなった。痛みが通り過ぎるのを、待っている。


 やがて体が動いた。ペンを拾った。


 壁に三枚の図面を並べた。


 左——自分の装置。六回の回転と六回の鏡映。十二の操作。

 中央——ブリジッドの手。回転と鏡映。四つの基本動作。

 右——特許庁の地下で見つけた「ゼロ」の設計図。八つの記号。二重の銀線。


 三者を重ねると、見えた。


 「ゼロ」のパターンは自分とブリジッドの両方を含んでいる。上位構造だ。そしてその中に、どちらにもない未知の操作がある。


 エドウィンは三枚の図面を見比べた。自分の装置は完成品だと思っていた。だがこの壁が語っているのは、自分の装置がブリジッドの手と同じく、もっと大きな構造の一つの断面に過ぎないということだった。


 ブライスが大学から戻ってきた。


「SPRの記録を洗った。初期会員の名簿に、あの紋章がある。円と三本線と星。だが——名前が黒く塗り潰されている。一人だけ」


「特許庁の地下の羊皮紙といい、この名簿といい、痕跡だけが残っている。本体は消えて」


 エドウィンはノートに書き加えた。日付。SPR名簿。紋章の一致。名前の抹消。



 八日目の夜、銅板を彫った。


 昼間の銅板は七月の熱で膨張する。精密な線を彫るなら、気温が下がる夜でなければならない。ブライスが大学の工房で切り出した銅板を、エドウィンはまず冷水に浸した。板の温度が安定するまで待った。金属の冷たさが指に移る。ブリジッドの手は温めて治す。エドウィンの手は冷やして彫る。


 射影図を銅板に写す。六角形の頂点。軌跡の曲線。交差点。手の通過する順序を示す番号。


 彫刻刀の先が銅に食い込むたびに、金属の屑が巻き上がる。細い線だった。ブリジッドの手の動きが、銅の表面に凍った。


 ネルが見ていた。


 アラベラに頼まれて、意匠登録の図面として使えるかどうかを確認するために来ていた。夜の大学だった。法令集と施行規則の抜き書きを膝の上に載せ、エドウィンの手元を見ている。


 エドウィンが第三象限の曲線を彫ったとき——


 ネルの右手が痺れた。膝の上の法令集がずれた。握り直した。


 同時に、研究室の隅に置いてあったガルバノメータの針が振れた。


 エドウィンは彫刻に集中していて気づかなかった。だがブライスが見た。


「おい」


「何だ」


「計器が動いた」


 エドウィンが手を止めた。ガルバノメータを見た。針は静止している。


「今は止まっている」


「さっき動いた。〇・三目盛ほど」


 エドウィンの目が細くなった。ノートを開いた。一月前の走り書き。


 「実験終了後、ガルバノメータに微小変動。外部雑音か。再現せず。原因不明」


「また外部共鳴か」


「分からん。だが前回も実験中だった。今回は彫刻中だ。装置は動いていない」


 エドウィンはノートに書いた。


 「銅板彫刻中、ガルバノメータ微小変動。装置停止中。二次コイルのみ応答。0.3目盛。外部要因か。要追跡」


 ネルは右手を握り直した。



 ネルはサザークを回っていた。


 アラベラに言われたのではない。自分で決めた。ブリジッドの治癒を受けた人間が法廷で証言すれば、詐欺の主張は揺らぐ。


 道は知っている。サザークはネルが育った土地だ。だがどの家を叩いても、法廷の名前を出すと同じ顔をされた。目を逸らし、紅茶を包み、黙る。カー牧師の影がどの家にもあった。あの男が先に回っていた。


 七軒を回って、一人だけ違う反応があった。トリーナという若い母親。赤子を左腕に抱えたまま扉を開けた。


「行く。証言する。あの人がいなかったら、この子の顔は今でも——」


 ネルは名前と住所を書き取った。


 だが翌日、トリーナから手紙が来た。ネルが帰った後、カー牧師が家に来たという。一行だけ書いてあった。


 「やっぱり行けません。ごめんなさい」


 ネルは手紙を引き出しにしまった。アラベラには、証人が見つからなかったとだけ報告した。



 図面が完成した。


 アラベラの事務所。夜。エドウィンが銅板と射影図と、群論的分析の覚書を机に並べた。アラベラが図面を覗き込んだ。一瞬、息を吸う音がした。すぐに表情を戻したが、目が銅板の表面を離れなかった。


「これが意匠の図版になる。ブリジッドの手の軌跡を二次元に射影した幾何学的配置。製造物品としては、この銅板そのものが登録対象になる」


 アラベラは図面を見た。


 六角形。曲線。交差点。番号。


 美しかった。ブリジッドの手が空中に描いていた見えない編み物が、銅の上に姿を現している。


「エドウィン。あなたの装置との関係は」


「同じ対称群の、異なる表現だ」


「分かる言葉で言ってください」


「同じ構造を、違う方法で書いてある」


 ネルが奥の机から顔を上げた。


「すみません、対称群って何ですか」


 エドウィンが口を開きかけた。ブライスが先に言った。


「設計図と建物の関係だ。設計図に家を建てる力はない。だが設計図なしに家は建たない。パターンは設計図で、ブリジッドの手は建築家だ」


 ネルは少し考えてから頷いた。


 アラベラがエドウィンに向き直った。


「それを証言できますか」


「できる」とエドウィンは言った。


「法廷で」


「法廷でも。どこでも。数学は場所を選ばない」


 アラベラは意匠登録の出願書類を開いた。ネルがすでに書式を整えていた。


「出願人は——エドウィン・フェアチャイルドで進めます」


 アラベラは一度だけ確かめた。代理人はアラベラ・グレインジャー。観測記録の写しを添えた。頁をめくると、全て同じ冒頭だった。日付。観測者。被観測者。転写の旨。エドウィンの字だ。


 署名欄を飛ばして、題名に進んだ。


 "Design for a Therapeutic Pattern Plate."

 (治療的パターン板の意匠)


 図面は三面。正面図。側面図。そして、軌跡の展開図。


 図面の欄外には物品名と構成だけを記した。意匠は形状そのものが保護の対象になる。


「明日、出願します」



 特許庁。


 ヴェイルが書類を見た。図面に目が留まった。


「また、あなたですか」


「また、私です」


「今度は意匠ですか」


「ええ」


 ヴェイルは書類をめくった。図面の六角形を見つめた。指が図面の縁で止まった。


「これは——手の動きの記録ですか」


「製造物品の形状です。条文の要件を満たしていると考えます」


「書式を確認します」


 ヴェイルは眼鏡を外した。拭いた。かけ直した。


「二、三日のうちに届くでしょう。——届いてからが本番です」


 最後の一言は小さかった。審査官の領分を踏み出さない声量。だが確かに聞こえた。


 アラベラは頷き、特許庁を出た。



 三日後、庁から封書が届いた。ネルが開封し、アラベラの机に置いた。


 登録証書。意匠登録番号が振られていた。赤い庁印が紙の隅に押されている。


 方式審査のみで登録される制度だ。形式が整っていれば、中身は問わない。


 だが意味があるのは、公的記録に残ること。ブリジッドの手の動きが、銅板の形状として、国の帳簿に刻まれること。


 記録に載った。


 魔法のパターンが、製造物品の形状として、特許庁の登録簿に載った。


 エドウィンは登録証書を見た。番号を確認し、ノートに転記した。それだけだった。


 銅板は完成した。登録も通った。出願も、図面も、正しい手順で進んだ。


 ブリジッドには見せていない。


 あの八日間、毎日ブリジッドの手を見ていた。首の傾きも、関節の赤みも、治療を始める前の一拍の沈黙も、全て記録した。だが銅板が完成したとき、見せに行くという手順は、どの計画にもなかった。数学者にとって正しい記述は対象そのものだった。記述が完成すれば、それで捉えたことになる。


 風が通りを吹き抜けた。七月の終わりの風。熱を含んでいた。

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