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ヴィクトリア朝の特許事務所 ― 魔法の権利、保護します  作者: みんとす
第二章 魔法が詐欺でなくなる日
11/17

3. 物品の形状

 カー牧師の告発は、サザークから戻って四日目の朝に届いた。


 ネルが郵便を開け、封筒の中身を読み、立ったまま動かなくなった。アラベラが顔を上げると、ネルの右手が紙の端を白くなるほど握っていた。


「先生」


「何」


「ブリジッド・オコナーが告発されました」


 紙を受け取った。治安判事裁判所からの通知。告発者はサザーク近傍の英国国教会教区牧師、レナード・カー。根拠法は一八二四年浮浪者法第四条。「占い、巧妙な技芸により国王の臣民を欺く者」。


 略式審理の期日は月末。


 アラベラは通知を机に置いた。表情を変えなかった。変えられなかった。


「モレッティ神父に連絡を。それからエドウィンにも」


「はい」


 ネルが出ていった。


 事務所に一人になった。


 引き出しの中を確認した。特許証書と未亡人の手紙。そしてあの封書——「特許番号ゼロの管理人」。三通のまま。三週間前にこの引き出しに特許証書を入れたとき、紙の力を信じた。


 だがブリジッドには装置がない。紙に落とすものがない。


 引き出しを閉じた。



 エドウィンが来たのは午後だった。地下の羊皮紙以来ほとんど眠っていない顔をしていた。ブライスも一緒だった。モレッティはすでに事務所にいた。


 五人がいた。うち四人が机を囲み、ネルが奥で書き物をしている。


「特許でカバーできるか」ブライスが最初に聞いた。


「できません」


 アラベラは即答した。


「エドウィンの特許は装置に紐づいています。請求項一は『位置決め溝付き基板、中央支持座、張力較正子、閾値検知部、および遮断導体を備える作用発生装置』。ブリジッドはこの構成要素を一つも使っていない。文言上、範囲外です」


「同じ作用原理だと主張して、範囲を広げられないか」


「請求項は成立済みです。装置と手では範疇が違いすぎて、発明の髄を取ったとも言えない。広げる余地がありません」


 ブライスが黙った。


 エドウィンも黙った。モレッティが杯を両手で包んだまま、誰の顔も見ていなかった。


 アラベラは法令集を閉じた。特許は装置を守る。だが、ブリジッドの手は装置ではない。


 特許では守れない。刑事法廷に弁理士の出る幕はない。依頼を断るべきだ——そう結論しかけた。だがモレッティの記録が机の上にある。失敗例の山。壊せないものを壊せないと言った男の記録。


 これを閉じて帰すのか。



 翌日、アラベラはフィッツジェラルドを訪ねた。


 リンカンズ・インからさほど遠くない。事務弁護士の看板が出た古い建物の二階。階段の手すりが擦り減っている。五十代の小柄な男が、安い椅子に深く座っていた。机の上に書類の山。壁に法廷の暦が貼ってある。立ち上がるとき椅子の肘掛けを両手で押す癖がある。肘掛けの布が左右とも擦り切れていた。


 父が生きていた頃からの知り合いだった。安くはないが、安い仕事を断らない。


「話は聞いた」フィッツジェラルドは言った。「モレッティ神父が来た。治癒師の件だな」


「弁理士が刑事法廷に出るのは無理です。代わりに立っていただけますか」


「立つのはいい。そのほうがいい。だが武器がない。それに時間もない」


 フィッツジェラルドは壁に貼った法廷暦を指で叩いた。


「七月末で夏の開廷期が終わる。八月に入れば長い休廷だ。どの事務弁護士も海辺にいる。裁判所の人間も半分は休暇に出る。カーの告発がこの時期に来たのは偶然じゃない。夏のうちに畳みかけるつもりだ」


「月末までに間に合わせます」


「武器を作ります」


「何を」


「まだ分からない。でも、特許庁には使い道が一つ残っている」


 フィッツジェラルドは椅子の背に体を預けた。天井を見て、戻した。


「お前の親父も、そういう目をしたよ。考えている途中の目だ」


 アラベラは何も答えなかった。


 立ち上がりかけて、フィッツジェラルドが言った。


「もう一つ。特許の話が大きくなったら——治安判事の法廷じゃ済まんぞ。行き先はこの窓の外だ」


 窓の向こうに、リンカンズ・インの煉瓦の壁が見えている。その先には高等法院がある。衡平法部門——チャンスリー。弁理士には法廷に立つ権限がない場所だ。


「そうなったらわしも手に余る。法廷弁護士が要る」



 事務所に戻った。夜だった。窓が開いている。七月の夜風が通りから流れ込み、机の上の紙を微かに揺らしていた。


 エドウィンが椅子に座ったまま、天井を見ていた。帰っていなかった。


「手の動きに規則性がある」


「ええ」


「順序がある。パターンがある。だが装置がない」


「そうです」


「——装置がないなら、作ればいい」


 アラベラがエドウィンを見た。


「作る?」


「ブリジッドの手の動きを記録する。軌跡を三次元座標で取り、二次元平面に射影する。パターンが物理的な形状として現れるなら、それを銅板に彫れる。抽象を具象に変換する。数学者の仕事だ」


 モレッティが眉を寄せた。


「ですが、それは特許ではなく——」


「特許ではありません」アラベラが言った。


 声が変わっていた。何かが見えた人間の声だった。アラベラは棚の法令集に目をやった。物の形なら——手は問われない。


「意匠です」



 一八八三年法。特許・意匠・商標法。


 アラベラは条文を引いた。ネルが書棚から法令集を持ってきた。頁の角が折れている。何度も開いた頁だった。


「意匠の登録。製造物品に適用される模様、形状もしくは構成を保護する。重要なのはここです——形状・構成が登録対象に含まれている」


「五年では短い」ブライスが言った。


「期間はどうでもいい」


 アラベラの目が光った。


「登録されれば、特許庁がその形状を製造物品の意匠として公的記録に載せたことになる。意匠そのものがブリジッドの手を直接守るわけではない。だが前例が残る」


「つまり——」


「妖術法は『魔法は存在しない』と前提します。だが特許庁が魔法のパターンを製造物品の形状として登録すれば、国自身がその前提と矛盾する行為をしたことになる。矛盾を可視化する。弁護の武器はそこです」


 モレッティが息を呑んだ。見慣れた神父の顔が、一瞬、別の何かになった。


「国に、自分自身を否定させるのですか」


「国に、矛盾を自覚させるのです。否定は国がするかどうかを決めること。私にできるのは、矛盾を見えるようにすることだけです」


 エドウィンが立ち上がった。


「やる。ブリジッドの手の動きを記録する。明日からでいい」


「明日からお願いします。銅板の手配は——」


「ブライス、大学の工房で銅板を切れるか」


「俺は物理学者であって板金工じゃないが、まあやれる」


 奥の机からネルが顔を上げた。


「先生、今の顔、怖いです」


 アラベラが振り返った。


「……嬉しそうなのが」


 一瞬、事務所が静かになった。アラベラは何も言わなかった。ネルも目を伏せた。


「意匠登録の出願書式を準備して。それから、一八八三年法の意匠に関する条文と施行規則を全部抜き出して」


「はい」


 ネルはすでに法令集を開いていた。アラベラが言う前に、該当頁に指を置いていた。



 翌日の夕方、アラベラはサザークへ向かった。ネルが道を知っている。だが今回は一人で行った。説明すべきことを、他人の口から言わせたくなかった。


 ブリジッドの家の扉を叩いた。三度叩いて、中から声がした。


「また来たの」


「お伝えしなければならないことがあります」


 台所の椅子に向かい合って座った。ブリジッドは紅茶を出さなかった。客として来たのではないと分かっていたのだろう。


 アラベラは告発の事実を伝えた。カー牧師が浮浪者法で告発を出したこと。月末に審理があること。そして、意匠登録という法的戦略を説明した。手の動きを座標に変え、銅板に彫り、特許庁の登録簿に載せる。それによって、国の帳簿に「この技法は製造物品の形状である」という記録を残す。


 黙って聞いていた。台所の窓が開いていて、通りから子供の声と、どこかで鍋を洗う水音が流れてきた。途中で一度だけ首を傾けた。


「紙にするってことだね」


「はい」


「おばあちゃんから教わったものを、紙にする」


「そうです。正確には銅板に彫り、その図面を——」


「紙だよ」


 短い沈黙があった。ブリジッドの手が膝の上にあった。赤い関節。灰汁と水仕事で荒れた手だった。


「誰が書くの」


「図面はエドウィン・フェアチャイルドが——以前来た数学者です。出願は私が行います」


「誰の名前で出すの」


 アラベラは少し黙った。答えは決まっている。法が定めている。だが、この問いに法で答えることが正しいかどうか——それは別の話だった。


「出願人はエドウィンになります。一八八三年法では、意匠を物品に落とした者が権利の主体です。あなたの手の動きを物品にする——つまり銅板にパターンを彫る——のはエドウィンの作業ですから」


「うちの手なのに」


「法的にはそうなります」


 ブリジッドの視線がアラベラの顔に留まった。長い視線だった。


「紙にしたら、うちの手は誰のものになるの」


 法的には答えがあった。意匠権は物品の形状を保護するものであり、ブリジッドの手そのものの帰属とは別の問題だ。方式審査で受理される。権利の帰属は明確で、法的に破綻はない。アラベラはそのどれもが言えた。


 だが、ブリジッドが聞いているのはそういうことではなかった。


「あなたの手はあなたのものです。意匠登録は手の動きが作る形状を保護するもので——」


「形は手から出るんだよ」


 ブリジッドの声は低かった。怒りではない。確認だった。


「形だけ取って、手を置いていくってことだろう。おばあちゃんはそうせんかった。手から手に渡した。形だけ抜いて紙にするなんて、やったことない」


 窓の外で、鍋の水音が止まった。代わりに誰かが戸を閉める音がした。


「頼ってくる人たちはどうなるの。マクナマラのおばあちゃんの膝。ダウニーの坊やの咳。紙を出したら、あの人たちの扱いも変わるの」


「変わりません。意匠登録はあなたの行為を制限するものではありません」


「紙を出す前と出した後で、何も変わらんなら、なんで出すの」


 アラベラは口を開きかけて、閉じた。


 変わる。変わるから出す。国の帳簿に記録が残る。それが武器になる。だがその武器が何を切るのか——ブリジッドの問いはそこを指していた。アラベラには法の論理が見えていた。だが、ブリジッドの手から形を抜き、エドウィンの名前で登録し、法廷で武器として使うとき、その紙に載らないものが何なのか——それを言葉にする術を、アラベラは持っていなかった。


「……法廷に、あなたがこの技法の担い手であることを示す証拠が要ります。意匠登録はその証拠です。月末の審理に間に合わせなければ——」


「牧師が来たんだってね」


 アラベラの言葉を遮って、ブリジッドが言った。


「今日は来ん人がいた。ダウニーさんとこの奥さん。いつもは水曜に来る。来んかった」


 その一言は、法の論理より重かった。告発が出たことは、もうこの界隈に伝わっている。来なくなった人がいる。ブリジッドの手を必要としている人が、牧師の目を恐れて来られなくなっている。


 ブリジッドは窓の外を見た。通りの向こうの煉瓦の壁。そこに暮らす人々の窓。


「やれるんなら、やったらいいよ」


「——ありがとうございます」


「祖母は紙を持たんかった。母も持たんかった。手から手だった」


 視線はまだ窓の外にあった。


「でもね、弁理士の先生。うちが手で渡してるものは、紙にしたら同じものかどうか、うちには分からん。あんたに分かるなら、やったらいい」


 最後の一言は、許可だった。合意ではなかった。ブリジッドの問いのどれにも、アラベラは本当には答えていない。それを二人とも知っていた。


 アラベラは立ち上がった。


「月末までに出願します」


 頷きは返ってこなかった。窓の外を向いたまま、膝の上の手が握られた。赤い指が白くなった。



 帰り道、サザーク・ブリッジの上で足が止まった。


 ブリジッドは「やったらいい」と言った。だが納得はしていない。「紙にしたら同じものかどうか分からない」——あの言葉は問いだった。アラベラが答えなかった問い。答えられなかった問い。


 一人で来たのは正しかった。あの台所の椅子で聞くべきことを、他の誰かに分散させたくなかった。だが正しさが、帰り道の足を軽くはしなかった。



 翌朝、特許庁。チャンスリー・レーン。


 ヴェイルを訪ねた。エドウィンの特許を扱った審査官だ。庁内でただ一人、「作用」というものを紙の上で扱ったことのある男だった。


 アラベラは意匠登録の構想を話した。手の動きを座標に変え、銅板に彫る。その銅板を物品として出願する。ヴェイルは黙って聞き、眼鏡の奥の目でアラベラを見た。


「意匠は方式審査です。書式が整っていれば受理できます」


「では——」


「ただし」


 ヴェイルは眼鏡を外した。拭いた。かけ直した。


「受理できるのは、手の動きではありません。物品です」


「銅板に彫れば物品になります」


「銅板にはなるでしょう」


 ——


「問題は、何として出すかです。文様として立てるのか、作用の図として立てるのか。同じ線でも、物品名と図の立て方で別のものになる」


 そこで言葉が止まった。ヴェイルは書類の角を指で揃えた。


「——現物か、図を持ち込んでください。物品名と図が見えれば、方式は見ます」


 アラベラは頷き、立ち上がりかけた。


 ヴェイルが何かを言いかけた。口が開き——閉じた。審査官の領分を超えることは言わない。だが目が言っていた。登録簿に残る形が、出願人の思惑どおりに読まれるとは限らないことを、この男は知っている。


 アラベラは特許庁を出た。


 七月の日差しがチャンスリー・レーンを白く焼いていた。ヴェイルの目が残っていた。言わなかった言葉の重さが、日差しの中で消えなかった。


 それでも出す。出さなければ、月末にブリジッドは有罪になる。紙がないまま。



 夜。事務所にアラベラだけが残った。


 引き出しを開けた。


 エドウィンの特許証書。その隣に、五年前の未亡人からの手紙。そして今日、三枚目の紙が入った。カー牧師の告発状の写し。


 だが今回は違う。


 父は紙に落とさなかったから消えた。エドウィンは紙に落としたから守れた。ブリジッドの手には——紙がない。


 紙を作ろうとしている。生きた手の動きを、紙の上の物品に変換する。


 守ることなのか。殺して標本にすることなのか。


 ブリジッドの声が浮いた。——紙にしたら同じものかどうか、うちには分からない。


 引き出しを閉じた。


 何もしなければ、月末まであと十二日ほどで、ブリジッドは有罪になる。


 アラベラ・グレインジャーは弁理士だった。紙の側の人間だった。

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