2. 賢い女
テムズを渡ると、空気が変わった。
七月のテムズは臭い。橋の中ほどで、川面から立ち上る腐敗臭がアラベラの鼻を打った。低水位の岸辺に泥と汚物が露出し、日差しに焼かれている。欄干の鉄が熱かった。思わず手を離す。
サザーク・ブリッジの南詰を降りたところで、工場の煙が湿気と混じり、川向こうのロンドンとは違う匂いになった。酢と獣脂と馬糞。洗濯の灰汁。干し物の湿り。テムズの臭気の上に、さらにサザークの暮らしの匂いが重なる。路地の奥からは子どもの叫び声と、錫の鍋を叩く音がした。
アラベラは薄い上着の裾を払って、狭い石畳に足を置いた。モレッティが半歩後ろを歩いている。ローマン・カラーを上着の襟で隠している。この地区でカトリックの襟は珍しくないが、よそ者の襟は別だ。
「先生、こちらです」
ネルが先に立った。迷わない。路地の曲がり方、どの家の裏庭に犬がいるか、どの壁の横で風が通るか、すべて体が知っている。日向を避け、煉瓦の影を縫うように歩く。サザーク生まれの娘の、夏の歩き方だった。
アラベラは黙ってついていった。リンカンズ・インの通りでは自分が先頭を歩く。だがこの地区では、ネルの後ろにいるほうが正しい。
路地を二つ折れ、煉瓦の壁に沿って歩くと、小さな家があった。壁の漆喰が剥げ、窓枠が傾いでいる。だが窓が開け放たれていた。七月だから当然だが、硝子は磨かれている。窓の奥から台所の匂いがかすかに漏れていた。玄関の前に鉢植えが一つ。赤いゼラニウム。土が湿っている。今朝、この暑さの中で水をやった人がいる。
扉が開いた。
◇
三十代半ば。背は高くなく、肩幅もない。だが手が大きかった。働く手だ。洗い物と薪割りと、子どもの頭を撫でることで太くなった指。爪は短く、関節が赤い。モレッティが語った通りの赤みだった。
髪は黒に近い赤毛で、後ろで一つに束ねている。顔は丸く、頬に蕎麦の実大のそばかすが散っている。目は薄い茶色で、人を見るときに少し首を傾ける癖がある。犬や子どもが相手の匂いを確かめるときの仕草に似ていた。
「ルカ神父。また来たの」
「お連れした方がいます」
「見れば分かる」
ブリジッドはアラベラを見た。それからネルを見た。ネルのほうに、少し長く目が止まった。
「この子、サザークだね」
「ハーパーです」ネルが言った。
「ハーパー。テイラー通りの?」
「ミント通りです」
「印刷屋の」
「父がそうです」
ブリジッドは頷いた。それだけで、ネルの家のことも、印刷工がどういう暮らしをするかも、分かっている顔だった。
「お茶、出すから。座って」
台所は狭かった。石の流しと鉄の竈と、壁に掛かった銅の鍋が三つ。食器棚の上に聖母像がある。安い石膏の像で、首のところに細い亀裂が入っていた。
ブリジッドが湯を沸かしている間に、隣の部屋から声がした。
「ブリジー」
老婆の声だった。掠れて低い。竈から離れ、隣へ入った。
アラベラはモレッティを見た。モレッティは小さく首を振った。待て、という意味だ。
五分ほどして、戻ってきた。
「マクナマラのおばあちゃん。膝が悪い。今日は腫れてる」
「見せてもらえますか」アラベラが言った。
ブリジッドの目が変わった。品定めではない。こちらの覚悟を測っている目だった。
「見るだけだよ。触らんといて」
◇
隣の部屋は寝室だった。ここも窓が開いている。路地に面した窓から夏の光が差し、老婆の声も、ブリジッドの声も、外へ漏れている。毛布の下に老婆が横たわっている。七十は超えている。顔の皺が深く、手の甲に青い静脈が浮いている。右膝が毛布の下で膨らんでいた。
ブリジッドは椅子を引き、老婆の横に座った。毛布をめくった。膝が赤く腫れている。皮膚が光っていた。
「マクナマラのおばあちゃん、やるよ」
「ああ。頼むよ、ブリジー」
両手を膝の上にかざした。
「今日はちょっと硬いね」と呟く。触る前から分かっている声だった。
十インチほどの距離。触れていない。
指が動き始めた。
最初はゆっくりだった。左手の人差し指と中指が、空中に何かの輪郭をなぞるように動く。右手はそれに遅れて、別の軌道を描く。二つの手が別々の線を引きながら、ある瞬間に交差し、離れ、また交差する。
編み物に似ていた。
だが糸がない。
アラベラは息を止めていた。モレッティが記録した通りだった。規則性がある。順序がある。だが装置がない。銀線も黄銅板もない。六角形の基板もない。エドウィンが何年もかけて辿り着いた「作用」と同じものが、この女の手だけで——
何かが変わった。
部屋の空気ではない。光でもない。だが何かが——薄い膜が一枚、老婆の膝の上に降りたような。アラベラの鼻腔の奥で、微かに金属の匂いがした。エドウィンの実験室で嗅いだのと同じ匂い。
老婆の膝の腫れが、縮んでいた。
目の錯覚ではない。皮膚の光沢が変わっている。赤みが薄くなっている。完全には消えない。だが明らかに、三分前とは違う。
ブリジッドの額に汗が浮いていた。大きな手が、ゆっくりと止まった。
「今日はこのくらい」
老婆が足を動かした。顔の皺が少しだけ緩んだ。
「楽になった。ありがとうね、ブリジー」
「明日もやるから」
ブリジッドは毛布を戻し、老婆の額に手を置いた。それは治癒ではなかった。ただの手だった。祖母に触れる孫の手。
アラベラの手帳を持つ手が、一瞬だけ動かなかった。すぐにペンを構え直した。
◇
台所に戻ったとき、ネルが右手を左手で包んでいた。アラベラが目をやると、もう手を離していた。
「大丈夫?」
「ええ。少し緊張して」
それだけだった。
◇
ブリジッドが茶を注いだ。窓は開いているが風が通らない。竈の余熱が台所の空気を重くしていた。茶を持つ手に汗が滲む。
「弁理士の先生」と切り出した。「今の、見てどう思った」
アラベラは答えるのに少しかかった。
「本物だと思いました」
「本物って何のこと」
「あなたの手が、実際に何かをしていること」
紅茶を啜り、杯を置いて、流しの縁に手をついた。窓の外を一度見てから、アラベラに目を戻した。
「モレッティ神父の記録を見ました」アラベラが言った。「失敗例が多い」
「多いよ。できんときはできん。おばあちゃんの膝は慣れてるから楽だけど、初めての人は半分くらい駄目」
窓の外で子どもが駆けていき、誰かが桶を石畳に置く音がした。そちらに一瞬だけ耳を向けた。
「先生は何を守りたいの」
「守れる形があるのかを知りたいのです」
「なら、聞きな」
「いつから」
ブリジッドは流しの水で手を洗った。治癒のあとにそうする習慣なのか、あるいは手の赤みを自分で確かめているのか。布で拭きながら答えた。
「祖母に教わった。祖母もそのまた祖母から。アイルランドでは珍しくないよ。田舎に行けば、こういうおばちゃん、いくらでもいる」
「何が違うのですか」
「分からん。できるときはできる。できんときは、手が滑る感じがする。掴めんものを掴もうとしてる感じ」
「道具は使わないのですか」
「何の道具?」
「銀の線とか、金属の板とか」
ブリジッドは自分の手を見た。赤い関節。太い指。
「使わんよ。手だけ。道具なんか使ったら、手が聞かんくなる」
アラベラはその言葉を書き留めなかった。だが忘れなかった。
モレッティが口を開いた。
「ブリジッド。この方は弁理士です。あなたの力を——」
「力じゃないよ」
ブリジッドの声が少し硬くなった。
「神様がくれたものを、うちが手で渡してるだけ。力なんて大袈裟なもんじゃない。おばあちゃんの膝が楽になるなら、それでいい。ご近所さんが来て、少し楽になって、帰っていく。それだけのことだよ」
モレッティは黙った。三ヶ月の調査で、この言葉を何度も聞いたのだろう。反論できないのではない。反論する場所がないのだ。
アラベラは茶を飲んだ。甘かった。砂糖がある家だ。貧しいが、砂糖がある。
「ブリジッドさん。あなたのしていることは、今の英国の法律では、危うい位置にあります」
「知ってるよ」
「知っている?」
「近所の人がときどき言う。あんまりやると目をつけられるよって」
「目をつけている人が、もういるかもしれません」
ブリジッドの手が杯の上で止まった。だがすぐに動いた。
「来たら来たときだよ。うちの手が止まったら、おばあちゃんが困る。紙のことはよう分からんけど、痛い人を目の前にして何もせんのは、うちにはできん」
◇
帰り道、ブリジッドの家を出たところで、ネルが足を止めた。
「先生、私はここで」
サザークの路地だった。ミント通りはここから近い。わざわざ橋まで戻ってからロンドン側へ回る理由がない。
「気をつけて」
「先生こそ」
ネルは路地の角を曲がり、煉瓦の影に消えた。
サザーク・ブリッジの上で、モレッティが言った。
「ご覧になりました」
「ええ」
「これは奇跡ですか」
「弁理士に聞く質問ではありません」
「では、弁理士に聞くべき質問をします。これは法律で守れますか」
アラベラは川面を見た。テムズが灰色に光っている。渡し船が一艘、下流へ向かっていた。
「分かりません」
嘘ではなかった。
モレッティの足が橋の上で止まった。七月の終わりの風。熱を含んでいた。テムズからの腐敗臭が、行きよりも濃い。午後の日差しが水面を焼き続けた結果だ。
「グレインジャーさん。私は奇跡を壊すのが仕事です。壊せなかったものを正直に報告するのも仕事です。ですが今、私には三つ目の仕事が必要です」
「三つ目」
「壊せなかったものを、守ること」
アラベラは何も言わなかった。
橋を渡りきった。ロンドンの北側に戻ると、空気がまた変わった。石炭と紙とインクの匂い。自分の世界の匂いだった。
◇
同じ日の午後——アラベラたちがサザークにいた間のこと。
特許庁。チャンスリー・レーン。
エドウィンは地下の記録室にいた。ブライスと二人。天井が低く、ガス灯の光が黄色い。地上の夏が嘘のように涼しい。紙と埃と、古い革の匂いが夏の湿気で膨らんでいる。
棚は天井まで続き、背表紙の文字が薄れた冊子が年代順に並んでいる。一八五二年以降の記録は整理されていた。それ以前は違う。番号のない綴じ込み。封蝋で閉じられた包み。誰が何のために保管したのか分からない断片が、棚の奥に押し込まれていた。
「エドウィン」
ブライスが棚の間から顔を出した。埃で眉毛が白くなっている。
「一八三〇年代の書架の裏に、様式の違う書類がある。特許庁のものじゃない。もっと古い」
「見せろ」
羊皮紙だった。端が黄ばみ、一部が虫に食われている。だが中央の図は残っていた。
円。三本の放射線。その先端に星。
ゼロの紋章と同じだ。
エドウィンの指が図の上を動いた。記号を数えている。四つ——ではない。その外側にもう四つ。配置が対称になっている。指が止まった。
三ヶ月前、特許が盗まれたと知った夜、テムズの橋の下で研究ノートを燃やそうとした——あのときとは違う震えが手に来た。
図の周囲に文字がある。ラテン語ではない。英語でもない。だが数字は読めた。寸法が記されている。そして図の下部に、装置の断面図がある。六角形の基板。溝。線。
自分の装置と同じ構造だ。
だが自分が四つで組んだものを、これは八つで組んでいる。銀線の配置が二重になっている。八つ目の記号を目で追ったとき、キングズ・カレッジの研究室のガルバノメータが見せた微小な振れが脳裏を掠めた。安全停止の機構——遮断導体に相当するものが、図の中に描かれている。ただし遮断ではなく、何かを制御する仕組みに見えた。止めるのではなく、方向を変える。
「これは」
「知らん。だがお前の装置と似ている」
「似ているどころではない。これは——もっと古い版だ。完成度が高い」
エドウィンは図面を紙に写し始めた。手が速く動く。数学者の手だった。寸法を読み取り、比率を計算し、自分の装置との差異を欄外に記す。
ブライスが横で腕を組んでいた。
「ゼロの手紙に書いてあったな。『知識の管理を意図したが果たせなかった』と」
「ああ」
「これが、管理されていた知識そのものか」
「かもしれない。だが何者が、いつ、なぜこれを特許庁の地下に入れたのかが分からない」
「分からないことを分かったふりで流さない。お前の美徳だ」
「美徳ではない。性分だ」
エドウィンは図面を写し終え、羊皮紙を丁寧に巻き直した。
「持ち出さないのか」
「目録にない書類だ。私が触れた記録もどこにもない。ここに戻せば、百年前と同じだ。誰の目にも触れない」
棚の奥。埃の下。判読できない言語で描かれた図面が、また闇に戻る。
隠されたものは、隠されたままだった。ただし写しが一枚、数学者のポケットの中にある。
記録室を出ると、廊下の窓から夕方の光が差していた。チャンスリー・レーンの石畳が、薄い金色に光っている。
「ブライス」
「何だ」
「今日、アラベラがサザークへ行っている」
「知ってる。治癒師を見に」
「装置を使わない作用。手だけで起こる。それが本物なら——」
エドウィンは自分の手を見た。装置を組み続けてきた手だ。
「——私の装置は、最適解ではないということだ」
ブライスは何も言わなかった。
夕暮れのチャンスリー・レーンでは、まだ高い西日が石畳を薄く焼き、二人の影だけが長く伸びていた。




