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ヴィクトリア朝の特許事務所 ― 魔法の権利、保護します  作者: みんとす
第二章 魔法が詐欺でなくなる日
9/17

1. 悪魔の代弁者

 パン屋の煙突から白い煙が出て、石炭の煤と混じり、テムズから這い上がった蒸気に滲んだ。七月のロンドンの朝は、そういう匂いでできている。


 リンカンズ・イン近くの通りを、アラベラ・グレインジャーは薄い上着の袖を折って歩いていた。石畳はすでに乾いて白く、朝の光が目を刺す。法服の男が二人、前を足早に過ぎていった。一人がこちらを見て、目をそらした。女がこの時間にこの通りを歩いていることへの、見慣れない目。毎朝のことだった。三週間前に魔法装置の特許を通した朝も、同じ目だった。


 事務所は角から三軒目にある。看板は小さい。


 A. Grainger — Patent Agent


 角を曲がったとき、事務所の前に人影があった。大柄な男だった。黒い上着。看板を見上げている。足元が揺れていた——入ろうとして、やめたように見えた。アラベラの足音で振り向きかけたが、そのまま通りの先へ歩いていった。急がない足取りだった。


 鍵を回すと、中はすでに蒸していた。ネル・ハーパーが先に来ている。テムズの南から歩いて通ってくるのに、いつも先に着く。窓が開け放たれ、湯は沸いていて、前日の書類が机の上に並べてある。


「おはようございます」


 書記見習い。右手の小指にいつもインクの染みがある。


「おはよう」


 上着を掛け、帽子を外した。額に汗が滲んでいる。ネルが紅茶を差し出した。一口含むと、熱いが甘くない。


「砂糖は」


「切らしています」


 嘘だ。節約している。この事務所の金庫の鍵を預かっているのは見習いの娘で、煙突換気弁と改良歯車の手数料で来月まで持つかどうかを常に計算している。アラベラはその計算に口を出さない。口を出す必要がないほど正確だからだ。



 引き出しを開けた。


 特許証書がある。六角形の黄銅板に銀線を張り、物を浮かせる装置——三週間前にこの国で最初の魔法装置の特許を通した書類。その隣に、五年前に届いた依頼人の未亡人からの手紙。夫の発明が間に合わなかったことを知らせる手紙だった。そして、一通の封書。エドウィンの特許が認められた夜に届いた、差出人不明の書簡。古い紋章の蝋封。「特許番号ゼロの管理人」。意味はまだ分からない。未亡人の手紙は開けたことがない。ファイルは二度読んで閉じた。封書は三度読んだ。


 一瞬、父の墓が浮かんだ。名前と年だけが刻まれた安い石。紙に残さなかった男だから、石にも何も残らなかった。


 勝っても負けても、紙はここに入る。


 引き出しを閉じた。今朝の郵便を開く。煙突換気弁の庁通知。改良歯車の補正要求。問い合わせが二通。世界は、魔法の特許が認められたことなど覚えていない。


「先生、請求項三の案です」


 ネルが紙を持ってきた。刺繍機の従属項。読んだ。繋ぎ方に癖はあるが、筋は通っている。一年前は「先生がお決めください」と言っていた。今は自分で書いてくる。


「ここの引用関係だけ直して」


 午後の窓から容赦のない光が差し、埃とインクの匂いが澱んだ。



 トマス・ブライスが来たのは二時過ぎだった。


 肩幅の広い男が狭い扉に体を押し込むように入り、窓際の椅子にどかりと座った。額に汗の跡がある。


「エドウィンが今日も記録室にいる」


 あの封書——古い紋章の蝋封——の出所を、エドウィンは特許庁の記録の奥に追っている。数学者が未解明に出会うと止まらない。弁理士の管轄外だが、止めても無駄だった。


「何か見つけたの」


「四十年前の書架を引っくり返して喜んでいた。あの男が古い帳簿を読むと表情がいつもの三倍になるから面白い」


 ネルが紅茶を出した。ブライスが一口飲んで顔をしかめた。


「砂糖がない」


「節約です」


「俺のときだけ抜いてないか」


「まさか」


 ブライスは何か言いかけてやめた。この事務所の財布を握っている相手に、紅茶の甘さを交渉しても勝てないことを学んだのだ。



 扉が叩かれたのは、三時を回った頃だった。


 ネルが出て、すぐ戻った。


「先生、予約のないお客様です」


「どんな人」


 ネルは少し考えてから言った。


「神父です。たぶん」


 男は扉の前で一度足を止めた。帽子を取り、室内を見回し、それから入ってきた。自分の体が場所をとることを、あらかじめ詫びるような入り方だった。


 四十代半ば。痩せて背が高いが、首から肩にかけて前へ傾いでいる。本を読んで曲がった背中だ。眼鏡の奥の目は灰色がかった緑だった。白い硬い立襟——ローマン・カラー——が顎の下を押し上げている。七月の午後にあの襟は暑い。額の生え際に汗が光っていた。緊張だろう。プロテスタントの国で、カトリックの襟。今朝、法服の男たちがアラベラに向けたあの目を、この男も浴びてきたに違いなかった。


 靴は黒の紐靴で、踵が片方だけ減っている。長い距離を歩く人間の靴だ。靴の甲に白い埃が薄く積もっている。七月の乾いた石畳を長く歩いてきた足だった。右手の指先に、蝋の黄色い染みがあった。


「大変失礼いたします」


 英語は流暢だったが、母音の底にイタリアの陽が残っていた。ロンドンの七月でさえ、その声だけがさらに南にいた。


「弁理士のグレインジャーさんはいらっしゃいますか」


「私です」


 男の目が一瞬だけ止まった。すぐに伏せた。


「失礼しました。偏見です」


「慣れています。お座りください」


 椅子に座り、膝の上に薄い革鞄を置いた。角が擦れた古い鞄だが、中の書類は整然としている。


「ルカ・モレッティと申します。聖儀典省の信仰促進者です」


 ブライスの杯が止まった。


「ローマ教皇庁の機関です」モレッティは続けた。「聖人の認定審査を行います。反証を集めること、奇跡の主張に対して——それが私の職務です。通称——」


「悪魔の代弁者」ブライスが言った。


 モレッティの口元に、擦り減った笑みが浮かんだ。何百回も同じ名を言われてきた人間の笑みだった。


「ええ。そう呼ばれます」


「壊す側の人間が、なぜ弁理士のところへ」アラベラが聞いた。


 モレッティの笑みが消えた。


「壊せなかったからです」



 鞄から書類の束が出てきた。角の折れた紙と新しい紙が混じり、何度も読み返された形跡がある。


「別件でロンドンに滞在しておりまして、サザークのカトリック教区司祭から相談を受けました。正式な列聖手続きではありません。私個人の判断で始めた予備調査です」


「サザーク地区に、ブリジッド・オコナーという女性がいます。アイルランド系の移民です。三十代。道具を一切使わず、手だけで傷や病を癒す。教区の人々に慕われている。半年、現地で調査しました」


 モレッティは一度そこで言葉を切り、鞄の留め金を指先で撫でた。


「最初に会ったのは一月でした。彼女は洗濯をしていました。裏庭の物干し竿に、近所の老人たちのシーツを干していた。大きなシーツを一人で広げるのは重い仕事です。冬の水で手が赤くなっていた」


 ブライスもアラベラも黙っていた。


「あれから半年になります。今は七月です。先日も見ました。同じ裏庭で、同じように干していた。手はやはり赤かった。冬の水ではなく、灰汁と日差しで」


 モレッティは一度目を伏せた。


「一月のことです。一時間後に、男の子が連れてこられました。荷車に足を挟まれて、骨が見えていた。母親が泣いていた。ブリジッドは台所の椅子に男の子を座らせ、手をかざしました。同じ手です。洗濯で荒れた赤い手でした。何も唱えない。ただ指が動く。空中に何かを編むように動く。十分ほどして、男の子が『もう痛くない』と言った。傷を見ました。骨は見えなくなっていた。完全には治っていない。だが——」


 モレッティの声がわずかに揺れた。


「翌朝、その男の子はまた石炭を運んでいました。足を引きずっていたが、運んでいた。休めば日銭が止まるからです」


 モレッティはそこで黙った。


 ネルの手が、奥の机の上で止まっていた。


 モレッティは書類を机の上に並べた。


 アラベラの手が止まった。


 並んでいるのは、成功例ではなかった。


 失敗例だった。


 治癒を試みて効果がなかった症例。部分的にしか回復しなかった症例。一度は成功し、二度目は失敗した症例。日付。場所。症状。経過。失敗の理由は多くが「不明」だが、身体所見の記述は詳しかった。腫れの面積。皮膚の色の変化。体温。脈拍。


 成功より、失敗のほうが多い。


 指先がわずかに痺れた。


 三週間前まで毎日読んでいたノートがある。エドウィンが十余年書き続けた実験記録。百回を超える失敗。煙が出た夜。何も起きなかった朝。銀線が切れた日。その地層の上にようやく載った、たった三インチ——物がひとりでに浮いた距離。


 この記録は、あのノートと同じだ。


「成功例は」


「あります。ですが成功例は教区の側が持っています。私が見たかったのは失敗のほうです」


「なぜ」


「規則性がある」


 モレッティの声が低くなった。


「成功する症例と失敗する症例のあいだに、私には説明できない条件の差がある。信仰の深さではない。症状の重さでもない。何か——構造的なものが」


 ブライスが身を乗り出した。


「それは科学者の台詞だ」


「科学者ではありません」


 モレッティは眼鏡を外し、布で拭いた。指先がわずかに震えていた。


「ただ、嘘の報告を書く気がないだけです」


「で、弁理士に何を」アラベラが聞いた。


「私の職務は、この治癒を奇跡として報告するか、詐欺として報告するか判断することです。ですがどちらでもないとき——ローマにはその選択肢がありません」


 モレッティはアラベラの目を見た。


「英国の法律には、この現象を置く場所がありますか」


 アラベラは答えなかった。


 引き出しの中の特許証書が頭をよぎった。庁はエドウィンの装置に特許を付与した。「作用」を再現可能な技術だと認めた。原理が不明でも、装置と手順が明確で結果が再現できれば権利になる——あの審理室で、審査官のヴェイルがそう言った。


 だがブリジッドは装置を使わない。手だけだ。エドウィンの特許は装置に紐づいている。文言上、ブリジッドの手はカバーできない。


 では、何で守る。


「あなたは奇跡を壊すのが仕事だと言いました」


「ええ」


「壊せないものの前で、どうするのですか」


 モレッティはしばらく黙った。事務所の壁時計の音だけが、ひどく静かに鳴っていた。


「壊せないものの前では、正直に報告するしかありません。たとえ誰にも信じられなくても」


「見ます」


「……見る、とは」


「ブリジッド・オコナーの手を、直接見ます。あなたの記録ではなく」


 モレッティの顔に、名前のない表情が浮かんだ。安堵なのか。恐れなのか。三ヶ月間ひとりで抱えてきたものを、ようやく誰かに渡せるという表情だった。


「来ていただけるのですか」


「約束はしません。見て、判断します」


「それで十分です。——ありがとうございます」


 モレッティは書類を鞄に戻し、留め金を閉じた。口を開きかけて——閉じた。


「一つ、気になることがあります」


 声がさらに小さくなった。開け放たれた窓の外で、通りを人が歩く足音がした。モレッティはその音を待ってから言った。


「サザークの教区で、英国国教会の牧師が——彼女のことを嗅ぎ回っています」


 アラベラは何も言わなかった。嗅ぎ回る。その言葉が引っかかった。嗅ぎ回る人間は、弁理士の事務所の前で立ち止まったりしない。


 ブライスの目が細くなった。


 モレッティは立ち上がった。立ち上がりかけた体が、一瞬止まった。


 右の指先が、胸の前を小さく切った。十字。無意識だった。


 アラベラはそれを見た。

 ブライスも見た。

 誰も何も言わなかった。



 モレッティが去り、事務所に冷めた紅茶の匂いだけが残った。


「受けるのか」ブライスが言った。


「分からない。でも、あの記録は本物です」


「幽霊なら降りるぞ」


「規則性の話です」


 ブライスは杯を置いた。


「エドウィンに言うか」


「まだ。見てから」


「いつ行く」


「明日」


 ネルが奥の机から顔を上げた。


「先生」


「何」


「サザークなら、私が道を知っています」


「知っているでしょうね」


「先生が一人で行っても、あの辺りの人は話しません」


 アラベラはネルを見た。


 一年前にはなかった目だ。エドウィンの発明を盗んだ男の大学に、一人で乗り込んだ夜。煉瓦工場で、盗まれた装置の暴走で火傷を負った職人の証言を書き取った夜。あのあと、この娘の目が変わった。


「事務所は」


「朝のうちに書類を整えます。パーキンズさんには木曜への振り替えを手紙で出します」


「……いいでしょう」



 夜になった。


 ブライスが帰り、ネルが帰り、事務所にアラベラだけが残った。ガス灯の火が低くなり、壁の法令の切り抜きに揺れる影を落としている。通りの向こうで辻馬車の蹄が遠ざかっていく。


 引き出しを開けた。特許証書。未亡人の手紙。あの封書。

 紙だ。いつも紙だ。


 エドウィンの発明は装置だった。装置があるから、紙に落とせた。紙に落とせたから、特許になった。だがモレッティの記録の女は、何も持っていない。手だけだ。


 手を、紙に落とせるのか。


 父は発明家だった。紙に落とさなかったから、消えた。

 だが紙に落とすということは、秘密を国の目の前に差し出すということでもある。


 答えはまだない。


 引き出しを閉じた。指先に、昼間触れた記録の紙の感触がまだ残っていた。


 明日、テムズを渡る。

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