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ウサギ穴の奥へ

──未知の世界というウサギの穴に飛び込むのは、実にめまいがするような体験だ。

陰鬱な日常から解き放たれ、新しい視点を示してくれる風変わりな世界に足を踏み入れるには、相当な勇気が必要だ。

 

アリスは最初、心細途方に暮れていたに違いない。私もそうではあった。

どこにいるのかさえ分からないことから涌き上がる無力感は、ただでさえ戸惑うばかりだった私をさらに憂鬱へと追い込み、この『国』のあらゆる『不可思議』に圧倒去れていた。

しかし、先ほど引用した小説の主人公と同じように、私も上々に不思議の国へ慣れていった。

私とアリスを区別する点を挙げるとすれば、基本的にはたった一つだけあった。

──私は、自らの意思でウサギ穴に飛び込んだわけではないということだ。

正直に言うと、飛び込む寸前のことはあまり覚えていない。誰かに突き落とされたのか、それともウサギに引っ張られて落ちたのかも分からない。実際のところ、ウサギ穴へ落ち続けていたはずの時間さえ、いくら思い出そうとしても思い出せない。何も起こらなかったかように記憶は曖昧なままだが、それでも私は確実に穴の底へ落ちた。

なぜそんな確信を持てるのかというと、どうやってあそこへ辿り着いたのかは先ほど話した通り分からないが、それでも確かに、あの日、不思議の国は私を歓迎したからだ。

 

ある朝、見慣れない四方の壁に囲まれながら私は目を覚まし、そのままあの完璧な罠に囚われた小鳥のように、ぎこちなく動き回るようになった。

興味深いことに、何予兆もなく、すべては唐突に始まった。

今まで生きてきた世界について最後に思い出せるのは、確かにまた勉強をしていた夜のことだ。孤児院の自室は、私にとって唯一、自分の勉強能力を思う存分発揮できる独壇場だった。そこで大学受験に向けた復習を終え、少し仮眠を取ろうと思い、午前三時に目覚ましを設定したことを覚えている。しかし、それ以上の記憶は曖昧だった。

 

次に目を覚ました時、まず驚いたのは顔に照りつける太陽の光の強さだった。

 

『あぁ、なんて激しいのでしょう…どうしてお日さまは朝っぱらからあんなにひどいことをなさるのでしょうか? まだ夜明けの時間ではないはずなのに…』と、その日最初にそう思ったことだけは、今でもハッキリと覚えている。

 

おそらく最初に気づいたのは、目覚めた時間が午前三時をとっく過ぎているにということだった。すでに真昼なのに、私はまだ勉強を初めてすらいないという事実に気持ちがはっていた。


数年前、あの悲惨な事故によって何もかも失った私は、どうしても生き続ける意味を見出せなかった。時が流れ、しばしば余計な苦痛とストレスの原因になっていた自殺の試みすら諦めた。その代わり、醜いと感じた世界に対して抱いた無気力の奥底から反抗心にも似た欲求が沸いてきた。今にして思い返せば、それはほとんど削り取られてしまった精神力の中で、わずかに残されていた健全な部分が、精神崩壊を防ごうとしていたのかもしれない。

実際のところ、世界を救いたいなどという殊勝な動機がこれっぽちもなく、ただ、できるだけ早くいわゆる立身出世を果たし、周囲を変えて、そして自由に行動をできるようになりたかっただけだ。

だか、変化なくして革命は起こらないということで、自分のずへてを変えるため猛勉強に打ち込むようになった。厳しいルーティンを設け、それに毎日欠かさず続けることで、ようやくもっとも効果的な勉強法を見つけ出した。そして時とともに、私はあっという間に優等生になっていった。

 

保護者たちや先生の方、そして同級生たちからも尊敬の目を向けられるようになり、私は将来有望な人物として見なされるようになった。

ようやく手に入れた将来の安定が、私の心を満たしている感じがした。

一つだけ欠点を挙げるとすれば、それはやはり心から安らげる時間のなさかもしれない。簡潔に言うと、決められたノルマを終えた後に許された休憩以上にのんびり過ごしてしまえば、すぐにスケジュール的に間に合わないということだった。

そのため、疲れを感じたり、不安に襲われたり、苦しささえ覚えたりすることもしばしばあった。とはいえ、私には不満を言える資格などなかったし、弱音を吐く権利もなかったのは事実。結局のところ、努力そのものが私を救い、希望を与えてくれたのだ。だからこそ、勉強によって支えられた自分の笑顔を保ち続けるために、常に多大なる苦労を背負い続けなければならなかった。

 

あの朝も、まだ覚醒しきってい顔に暖かな日差しを突きつけられ、不安を覚えたのは無理もなかった。いつもなら起きる時間になっても、外はまだ深い闇に包まれていて、夜が明けてないはずだったからだ。

目覚まし時計をかけ忘れたのではないかという思いに駆られ、私は慌てて身を起こした。

胸の奥から動揺した心が重く脈打つ中、いつもならベッド脇のテーブルに置かれてある時計を手に取ろうとした瞬間、ぼやけていた視界にようやく焦点が結んだ。


その途端、私を迎えたのは予想もしなかった光景だった。

見知らぬ寝室が目一杯に広がっていたのだ。

見覚えのない家具に、嗅いだことのなかい香り。

私は広々としたベッドの上で、柔らかなビロードーの布団に包まれながら座っていた。頭上を見上げれば、桃色の天蓋が優雅に張られていた。部屋に置かれた家具はどれも、艶やかかにニスをたっぷり塗られ、マホガニーで作られていた。さらに、クローゼットやドレーサには、ロカイユ様式を思わせる貝殻の装飾が施されていた。

部屋は誰かが暮らしていた気配がなく、隅々まで綺麗に整えられていた。まさかとは思ったが、まるで私を迎え入れるためだけに用意された部屋のようにも見えた。

 

その理由も相まって、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。

思考が忌まわしく渦巻く中、不意に部屋のドアの向こうからジャズの旋律が流れ始めた。鳩が豆鉄砲を食らったような私は、目をぱちぱちと瞬かせる。

ジャズは好きだった。けれどあの時ばかりは、まるで誰かに鼻で笑われているような気がして、むっとした苛立ちを覚えた。

好奇心に導びかれたまま、私はベッドから降りてドアの方へ向かった。

しかし、部屋を出るや否や、小さな窓に目を奪われた。先ほどから、恐怖のあまり、意識的にあの窓を見ないようにしていた。だが、取り通り過ぎようとした瞬間、ちらつくように視界の端を掠めた景色に思わず足を止めざるを得なかった。


まるで、お茶会に遅刻した白ウサギが一瞬だけ目の前を駆け抜けていったようだった。

 

私は数歩後ずさり、レースカーテンの端へ手の指先をそっと添えた。

震える手がおずおずと動き、小さなカーテンリングがからりと音を立てながらレールの上を滑る。

わずか一センチほどの隙間ができた。

 

アリスがウサギ穴へ飛び込む前に、その暗い

穴の奥を慎重に覗き込んだように、私も躊躇いながら、可愛らしいカーテンをゆっくりと引き開けた。

やがて半分ほど開いたところで、私はようやくわざと背け続けた視線を窓の外へと向けた。

 

ミルク色の窓枠の向こうを見た途端、容赦ない太陽に眩暈する。

同時に、私は思わず息を呑んだ。

眼下には、生け垣で形作れた巨大な迷宮が白くて可憐な花を咲かせながら、どこまでも広がっていた。

左右には蛇行している通路が果てしなく続き、その全景を見渡すことさえできない。

ただ、地平線の彼方には、森林に覆われた雄大な山々が静かにそびえ立っているだけで、それ以外の景色はほとんど見えなかった。

そのあまりにも壮大な景色を前にして、私は何と小さく、惨めな存在に見えたのだろうか。

 

それでも、迷宮が遥か眼下に広がっていることから、この寝室は少なくとも二階か三階以上にあることだけは理解できた。

混乱のあまり眉をひそめる。目を眇めるほど眩い日差しに耐えかねて、カーテンを引き締めた。

 

先ほど見た景色もそうだったが、それ以上に私を戸惑わせたのは、そこに漂う説明のつかない不穏さだった。

「冬だったはずなのに……」

ここに来てから、一体どれほど時間が過ぎてしまったのだろうという疑問が重く胸に沈んでいく。

 

感情を押し殺しながら、私は再び足を動し、部屋のドアへ向かった。何とか冷静さを保とうと、青銅のドアノブへ手を伸ばす。


しかし、その途中でドレーサの上に置かれた小さな鏡が、思いもよらないものを写していることに気づいた。

──そのに写っていたのは、私自身だった。

見知らぬ部屋の中で、自分の姿だけが妙に歪んで浮かび上がっている。

肩口で切り揃えられていたはずの茶髪は長く伸び、柔らかなウェーブを描きながら肩を伝っていた。

見覚えのないネグリジェに纏った身体は針ように痩せ細り、儚い印象を帯びていた。以前ふくよかだった身体からは丸みが消えていた。

かつて生き生きとしていた顔は、今では生気を失い、どこか心ここにあらずといった無表情だけが残っていた。輝いていた眸は、目の下には濃い隈がくっきりと刻まれている。


まるで、無理をすることで身体をすり減らし続けた人間のように、自分の体は衰退しっきっていた。

私は思わず口元を手で覆い、呆然と鏡を見つめる。

ぼんやりと右手をゆっくり持ち上げ、左手首に触れた。

細い。

あまりにも細い。

指先から伝わる感触は、ほとんど骨そのものだったのを理解できるより先に、胸を圧迫するような不安が全身へと染み渡っていく。

足元が震えた。

「……最後に鏡を見た時は、こんな姿ではなかったはず…」

その瞬間、あの疑問が再び頭をよぎる。

「いったい、どれたげ時間が経っているのでしょう……」と、つい口にしてしまう。

鏡の中に映る自分が忌まわしく渦巻く。

外から蓄音機の不吉な旋律が流れ続ける。

そんな疑問に駆られ、思わず一歩後ずさった。

このガラスに映っているのは、本当に私なのだろうか。

視界が揺れる。

鼓動が激しく脈打つ。

「……どうしてこんなことになったのでしょう……」そんな問いを投げ掛けても、答える者はいない。

 

だが、ここで心が折れてしまえば、これまで積み重ねてきた努力まで無意味になってしまうと、そう自分に言い聞かせるように、私は頭を振った。

藁にもすがる思いでドアへ駆け寄り、勢いよくドアノブを掴む。

そして、私は寝室を後にした。


外へ飛び出た瞬間、古いフローリングの匂いが鼻をくすぐり、目の前には古式ゆかしい屋敷の光景が一気に押し寄せてきた。

 

廊下は影をまといながら、真っ直ぐ奥へ伸びている。

蓄音機の音はさらに大きく響き、まるで磨き上げられたフローリングの上を辿ってこちらへ近づいてくるようだった。あるいは、未知の先へ私を誘っているようでもあった。

だか、鮮やかな旋律が流れているその空間もまた、どこかひっそりとしていた。

廊下の突き当たりには、下の階へ続く階段と、右の曲がり角が見える。

茫然と経ち尽くしたまま耳を澄ませた。蓄音機の音は前方から聞こえていた。

 

アリスが白ウサギの後を追いかけたように、私もその愉快な旋律を辿ることにした。

  

フローリングの板を軋ませないよう、一歩一歩の足音に気を配りながら恐る恐る進む。

冷たい床の感触が裸足に伝わり、思わず鳥肌が立った。

廊下にはいくつものドアが並んでいた。しかし、そのどれからも物音一つ聞こえない。

静まり返った空間を歩き続け、ようやく突き当たりまで辿り着いた。

もう一度聞き耳を立てると、蓄音機の音は階段の方ではなく、右の廊下から響いていた。

思っていたより近く『誰か』がいるのかもしれない。そう判断した次の瞬間、本当は遠ければ遠いほどよかった、という予想外の考えが頭をよぎった。

恐怖に支配されそうになる頭を小さく振り、慌ててその感情を打ち消す。

一つ深呼吸をして、意志を固めた私は角を曲がった。


吹き抜けを回り込むように廊下は半ばまで伸び、その最も奥にあるドアだけが、針の幅ほどうっすらと開いていた。

「見つけた……」と、少し後悔まじりに、ポツリと呟いた。

その言葉は、不安が心を掻き乱すせいか自分でも驚くほど弱々しかった。

 

しかし気づけば、不安が最大限を越え、かえって足が勝手に前へ動き出した。もう目を逸らすことなく、私はずんずんと歩いていく。

傾斜をした壁にはステーンドの窓が嵌め込まれていた。昼頃の暖かな太陽を受け、万華鏡のような鮮やか色彩が廊下いっぱいに降り注いでいる。

本来なら目を奪われるはずの光景だったが、私は一瞥もくれず、ただ真っ直ぐ、隙間の開いたドアだけを見据えて歩き続けた。

やがて廊下の半ばまで差し掛かると、その先にはもう光が届かず、寝室へ続くの廊下と同じような暗闇が広がっていた

 

耳障りな蓄音機の音がどんどんと大きくなっていく。

壁のアラベスク模様は不気味に渦を巻き、掛けられた絵画の人物は私の動きを目で追っているように見えた。奥に飾られた鈴蘭の花瓶でさえ、私が現れた途端にしおれてしまったような錯覚を覚える。

それでも私は脇目も振らず、見据え続けたドアの方へ向かって歩いた。

しなければいけないことは分かっていた。

私が成すべきなのは、この手で将来を確保することだ。だから、この屋敷がどれほど不気味であろうと、私は弱気になってはいけなかった。

 

部屋の前に立ち止まる。

一筋の光が廊下へと差し込む。

それはまるで私を待ち、誘っているようにも見えた。

──こんこん、とドアを叩く。

しかし、蓄音機の音にかき消されたのか、一向に返答は返ってこない。

それならば、と覚悟を決め、私は勢いよくドアノブを掴んでそのまま中へ踏み込んだ。


一瞬、暖かな光が頬へと降り注いた。

蓄音機の旋律が大きく耳に響く。

古い文献と墨汁の匂いがつんと鼻をつく。

目の前には書斎と思しき光景が広がっていた。

壁一面には天井まで届くマホガニーの本棚が並び、小さな窓の前には重厚な机が置かれている。猫足の蓄音機と地球儀は、それぞれドアを挟むように据えられていた。

しかし、優雅な旋律が流れ、小さな丸テーブルやアームチェアまで備えられているにもかかわらず、肝心の人影はどこにも見当たらない。

 

「…あら?誰もいないのかしら…」

そう思った次の瞬間。

頭上の後ろから微かな物音が聞こえた。

警戒しながら、視だけを向ける。

先ほどまて移動式の梯子が掛かっていた場所は、誰の姿もなかった。

その変わりに、すっと、誰かの腕が後ろから首元へ回された。

「もうお目覚めかい?」と、聞き覚えのない低い声が、楽しそうに耳元で囁く。

咄嗟に、身がすくんで、指一本動かせなくなかった。

無防備に晒されたうなじに暖かな吐息が触れ、肌がぞくりと粟立つ。

思わず眉をひそめた。

「何様ですか!?」と声を絞り出すように問いかけると、男性は答える代わりに腕へ少しだけ力を込め、私の頭へ優しく頬を擦り寄せてきた。

姿の見えない相手への恐怖から振り返ろうとするが、無駄だ。彼の腕がびくともしない。

鼻先が首筋へ触れ、さらさらとした黒髪が肌をくすぐる。その感触に危機感が一気に膨らみ、私は再び息を呑んだ。

「さあ、どうだろう…誘拐犯、では?」と、くすくすの笑い声だけが帰ってくる。

目を覚ましてからずっと、考えないようにしていた可能性を、本人があっさり口にした途端、自分があまりにも間の抜けた人間にされたような気がした。

初対面の相手にそんなことを平然と言うものかと、踏みにじられた自尊心を何とか取り戻そうと思ったものの、そもそも自ら誘拐犯を名乗るような相手に常識が通じるはずもない。そう悟った私はぐっと黙りこくった。

第第一印象は──傲慢で、生意気な男。

 

憤怒同然の感情をぶつけたいのに、何を言えばいいのか分からない。

言葉にならない怒りだけが胸の中で渦を巻き、少しずつ膨れ上がっていく。

 

何が起きているのかはまるで分からない。けれど、この男が私の人生を、私の積み重ねてきた努力を踏みにじろうとしていることだけは確かだった。

 

ここで全てを失うわけにはいかない。

ようやく見つけた、唯一生きる理由を奪われるわけにはいかない。

世界が私へ課した新たな試練かどうかは、まだ知らないが、それでも乗り越えるしかない。

必死に頭を回転させた末、ようやく一つの策を思いつく。

私は一度抵抗をやめ、観念したように肩を落とした。

「……どうして、わたくしを誘拐したのですか?」瞳を潤ませ、怯えたように問いかける。。

「そうだね…」と、男が一瞬考えるふりをした。「抑えきれない愛情、とでも言っておこうか。君があまりにも恋しくて、このまま離れてしまうと思うと苦しくなったんだ」

真剣そうで、しかしどこか少し芝居がかった甘い声だった。

「そう……ですか……」と、私は弱々しく相槌を打つ。「わたくし、これからどうなるのでしょう……」

無論、本心ではない。

そう、相手に従順な態度を見せつけて、油断させる。

まずは自分の置かれている状況を把握し、その上で次の手を考えることだ。

彼をうまく手のひらで転がせれば、こちらが有利になる。

そんな計画に密かに酔いしれている私を、彼は鼻であしらった。

「さあ? 大人しく従うかどうか次第だね。」

「そうですか……分かりました。」

ここは口数を少なくした方が自然に見える。

私はそう判断した。やはり従順すぎても不自然だとかえって見透かされかねない。

面従腹背を悟られてしまえば元も子もない。

相手に余計な警戒心を抱かせ、自ら逃げ道を狭めるだけだ。

だから、服従するのではなく、疑いは抱いているものの逆らえない子羊を演じる。

もちろん、このまま誰も助けに来ないのなら、別の手を打つ必要もある。

例えば、あからさまに見せていた警戒心がようやく解けたように振る舞い、心を開いたと見せかけて彼を騙す。

そして彼に可愛がられるようになれば──

「…ぶっははははは!」と不意に大声で笑われた。

その突拍子もない笑い声に思考を遮られた私は、途方もなく馬鹿にされたような気がした。

そう思ったところで、男性は腕を解き、ゆっくりと私の前へ回り込む。

一つに結んだ黒髪がふわりと揺れた。

よく見ると、よれよれのシャツにチョッキという、いかにも室内着らしい姿だった。

「言葉、言葉、言葉……」と、内心を見透かしたような下卑た笑みを浮かべながら、彼は頭上から私を見下ろした。

「言葉、言葉、言葉…」と、内懐を見透かされて下卑た笑みを浮かべた顔が頭上に浮かべる。「『ハムレット』、ルーミアお嬢様なら、ご存じのはずだね。」

 

計画を実践した矢先、化けの皮を剥がされた私は、汚らわしい本性を現した彼を見上げ、ただただ目を見開いていた。

そして言葉を探すように口をぱくぱくと動かしたが、結局諦めたように、彼の艶をとっくに失った革靴へ視線を落とした。

しかし、咄嗟に彼が知るはずのない私の名前を口にしたことを思い出した。

「どうしてその名をご存じなのですか?」と、眉間に皺を寄せながら強い口調で問いかけた。

「ふむ、どうしてかな……。ルーミアお嬢様のことを、すべて知っているからではないかな? それとも……」と、わざと一拍置いてから再び口を開く。「貴方自身が教えてくれた、とでも?」

「ふざけないで」

私はすぐさま言い放ち、憎しみに満ちた視線を送ってやる。

黒い癖毛の下で、蔑むような緑色の眸が微笑んだ。

絵画でよく見かける、黄金の螺旋を描く巻き毛のあどけない天使とは正反対。

羽だけを失った堕天使とすら思えた。

無言で彼を睨みつけていると、その瞳は不思議そうに私を見つめ返した。

「あんまり見つめられると照れるってば……」そう言ってウインクを飛ばされ、溜飲を下げられない私はますます苛立った。「「ひょっとして、堕天使だと思ってもらえたかい?」

「え……どうして?……」

意表を突かれ、思わず素っ頓狂な声が漏れる。

彼は「図星だろう」とでも言いたげな視線を送り、さらに畳み掛けた。

「……残念ながら堕天使ではないよ。しかし、ルーミアお嬢様のためなら、メフィスト役くらいは喜んで務めよう」

「どういう意味ですか? 馬鹿馬鹿しいことはよしてください」


「ねぇ、ゲームに興味はないかい?」

睨み付ける私に彼は少し意地悪そうな笑みで返した。

「まぁ、貴女にはあまり選択肢がないんだけどね」

悪戯っぽい表情がふっと消え、そっぽを向いた彼は独りごちるのように呟く。

「今のところは、まだ危ないからルーミアお嬢様を逃がすわけにはいかない。だけど、さっき言ったゲームは、少なくともルーミアお嬢様を少しは楽にさせるかもしれない」

何のことを言っているのだろう。

不可思議に首を傾げる私だったが、聞き返す間もなく、彼は気を取り直したように書斎の中央へ躍り出た。

そして両腕を広げ、

「まず、ここがワンダーランドだ!」

片眉を吊り上げ、怪訝そうに見つめる私の反応を見て、彼は満足げに目元を細めた。

「貴方が死を望んでいることは、よく知っているよ。ここへ連れてきた以上、貴女に幸せを噛み締めさせてあげよう。俺の作った偽物は、ルーミアお嬢様を満足させるに違いないと思う。だが……」

彼は言葉を切り、目の前に立つ私を、そして不安に揺れる私の眸を真っ直ぐ見据えながら、静かに続けた。

「『この瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい!』――そう思ったら、貴方の美しき魂を、この俺がいただくよ」

鋭い視線に鋭く射抜かれ、肌が粟立った。

私は返事をしなかった。

蓄音機だけが歪んだ旋律を耳障りに鳴らし続けている。

押し黙る私を見て、男性は諦めたように肩を竦め、小さくため息をついた。

「このまま手をこまねいていても、どうにもならないよ」

飄々とした様子で蓄音機の置かれた戸棚へ歩いていき、少し屈んでガラス戸を開く。

「リストの『メフィスト・ワルツ』を聴かないかい? 少しはしっくりくるかもしれないよ」

「……そもそも、勝ったら逃がしてくださいますか?」と、私は短く問いかけた。

「え……」

レコードを片手にしたメフィストは、ぴたりと動きを止めた。

珍しく笑みが消え、どこか驚いたように私を見つめ返した。


「ですから、もし勝てば、逃してくくださると聞きますよ。」

「……」

「屁理屈をほざく誘拐犯とフェアな駆け引きができるなんて、誰がそれを信用するのですか?論理的に考えると、そもそもどうして私があなたの遊びに付き合わなければならないのですか?弄べる相手なら、他を探してください。」

「そう……でも、誘拐犯だなんて、そんなに大げさに言う必要はあるかい? 誘拐とはいえ、紳士であろうことは心がけているよ」

「どこがですか?」と、冷ややかに言い返す。「とにかく、私はお相手をする気にはなれませんわ」

「無愛想ったらないね」

彼はため息混じりに肩を竦めた。

しかし次の瞬間には両手を組み、得意げに私を見下ろしながら挑発するように言った。

「要するに、魅了されない自信がないということかい?そこまで拒絶するからね」

「その発想はどこからきたのですか?愚かなのですか?ずっとここへ籠もっていて、言語中枢まで働かなくなりましたか?」

 

あの人とは、もう建設的な会話ができる期待は消え失せ、私はにべもなく売り言葉に買い言葉で言い返してしまった。

心に突き刺さるような皮肉のつもりだった。

しかし男性は、レコードを持ったまま一瞬目を見開き、それからふっと笑った。

 

「……やはり。君は面白いね。」と口角をゆっくりと吊り上げる。「俺の愛しきファウストよ、貴方がますます気になっているよ」

そして楽しげな笑みを浮かべたまま続ける。

「しかし鋭いね。確かに、君が勝ったからといって逃がすつもりはないかもしれない……でもね、よく考えてごらん。どうせここから逃げ出せないのなら、俺と駆け引きをしても損はないだろう?むしろ、貴方のその哀れな人生が変わるかもしれないよ」

「遠慮します。悪魔と契約は結ばない主義です」

即答だった。

「分かった。では、賭けは成立ということだね」

彼は楽しげにそう告げると、蓄音機のレコードを入れ替えた。

 

 不規則な旋律が流れ始める。

私はこめかみを押さえ、深呼吸をした。

「私は帰ります。必ず逃げ道を見つけます」と無愛想に告げると、踵を返し、翻るパジャマの裾とともにドアへ向かった。

「帰る?」

背後から、それまでとは違う真剣な声が響く。

「――それはいけないね」

次の瞬間、パチン、と指を弾く音が部屋の空気を震わせた。

「……?」

私は思わず振り返った。

ぎぎ……

蓄音機だけが不穏な軋みを響かせながら、再生速度を変えていく。

徐々に速さを増した針がレコードの上を滑り、メフィスト・ワルツが歪み始めた。そしてクライマックスまで巻き戻されたかと思うと、蓄音機は戸棚の上でぴょんと跳ね上がり、限界まで音量を姦しく上げて乱舞を始めた。

同時に、戸棚に並ぶ本の一冊が震え出す。

「え……?」

不安が一気に押し寄せた。

胸が締めつけられる。

何が起きているのか。

もう一冊がぶるぶると震え始める。

肘掛け椅子と丸テーブルも何かに揺さぶられるように、ガタガタと床を鳴らした。

狂気じみた不協和音のピアノが鳴り響く中、それに合わせるように天井までもが大きく揺らぎ始める。

「お騒がせしてすまない」と、彼は優雅にボウ・アンド・スクレープを披露した。「だが、俺との約束だ。次の幕でまた会おう」

パキン、と次の瞬間天井の中央に一本の亀裂が走った。

 

「待ってください! 何が起きているのですか!?イェール様、こた──」

彼の名を口にした途端、私は身を強張らせ、それ以上動けなくなった。

──どうして、その名前を知っているの?

さっき彼が自己紹介したのだろうか。

しかし、よく見ると、彼自身の緑色の眸も不思議がっていた。

「では、ここで失礼します」

最後に悪戯っぽくウインクを投げて、

そして彼は、まるで空気そのものになったかのように一瞬で姿を消した。

考える暇もなかった。

天井の亀裂はみるみる広がり、耳を聾する爆音とともに、天井も、その隙間から覗いていた青空までもが落下し、木っ端微塵に砕け散った。

「きゃあぁぁぁっ!」と、咄嗟に私は反射的に悲鳴を上げ、両手で顔を覆う。

だが次の瞬間、何も起きていないことに気づき、恐る恐る目を開けた。

そして、理解した。

落ちてきたのは空ではなく、私の周囲にあった、あらゆるものが空へ向かって舞い上がっていたのだ。

二つの肘掛け椅子、地球儀、空に向かってけたたましく音を撒き散らす蓄音機、本、本棚さえも、それらは嵐に呑み込まれたように私の周囲を激しく飛び回っていた。

突然、一陣の風が全身を打つ。

髪が逆立ち、衣服が激しくはためく。

心臓だけでなく、胃も、身体の奥にある臓器までもがふわりと浮き上がるような奇妙な浮遊感に襲われた。

やがて部屋の壁と床は螺旋を描くように裂け、地面から剥がれると、そのまま空高く吸い上げられていく。

その光景を見て、私はようやく確信した。 

落ちているのは、私だ。

まるでアリスのようにウサギ穴へ落ちているのだ!

世界だけが凄まじい勢いで上へ昇っていく。

もはや粉々に成り果てた天空などはもうそこになかった。

あるのは、空中に飛び回る家具や壁、床の破片が形のない物質へと変わりつつ、遥か上空に渦巻く巨大な深淵へと吸い込まれていく光景だけだ。 

上へ上へ、と眩暈がしそうな急速で昇る。

世界が遠ざかるにつれ、夜空の星々が姿を現し始めた。

星は次第にその輝きを増し、そして私を包み込む無数の光は渦を巻くように溶け合った。

やがて、星空が一つの眩い輝きへと姿を変えて、私はその光の中へ呑み込まれていった。

最後に感じたのは、意識がゆっくりと遠のいていく感覚だけだった。


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