Luminousの戯言
即刻な死を望んだ。
部屋の中に自ら閉じ込めてからもう何日が過ぎたのだろうか?
満足感を感じさせた勉強だって、本だって、新しい知識や興味深い妄想をしたためた文書などがこれだけ私の胸中を満たしていたのに。今はまるでそれらが虚しくさえ感じた。心を揺さぶるような想いで綴られた、分厚くて大切に思っていた小説も、ぽっかりと心に虚ろな穴を残してしまった。
大層に愛していた読書でもこの頃まさに私を苦しめていた。
──それは、知識を身につける行為そのものが、コヘレトの言った「hewel」、「虚しさ」というものだったのかしら?
部屋は静寂が満ち満ちていて寂しく感じた。分厚い壁はまるで永遠の眠りに落ち着いた、威嚇を辺りに漂わせた騎士たちかのようだった…いや、騎士ではなく、私の場合は看守と言ったほうがふさわしいかもしれない。壁が看守であるならば、私は囚われの姫なのだろうか。外界から離れされ、誰にも触れられず、ただこの空間で虚しさに絡み取られるだけの存在。多少いばら姫を思わせた発想に対して自嘲混じりに唇の端を上げた。
褪せた色の薔薇模様が描かれたソーサーから古びいたティーカップを優雅な所作で拾いあげ、ミルクティーを口に運んだ。
騎士が姫を守りながら、看守として姫のお出かけを制限されてしまう。壁が看守なら、私はいばらに刺さった姫君の役割に当たるなのかしら?──そう、悠長な眠りに呪われた姫は城に永遠を過ごすべき。
『呪い』──甘美な響きに酔いしれながら僅かな違和感を覚えた。確かに私は呪われた。しかし、それはあくまでも自分に課された宿命。魔女の指一本加わってはいない。
それならラプンツェルか………それとも私にもっともふさわしいのは人魚姫のかしら? 海上の世界を恋しく眺め、白くて艶やかな脚に憧れを抱く。
咄嗟に不快感が胸を刺した。
人魚姫は確かに海での生活に不満を感じつつ、ずっと不幸でいた。そして最後には悲劇的な末期を迎えるお伽噺でした。それに比べて、私はいつだって幸せな日々を過ごしてきた………少なくとも、そう思い込もうとしてきた。
そんなことを考えながら、ラプンツェルに成りきることにした。不快な発想を振り払うために。
肩まで伸びた髪を指で梳き、ふとももに置いた一冊の本へ視線を戻した。あいにく、目の前の文字が優雅なワルツに踊り出し、意味をなさない。ラプンツェルの物語に舞踏会なんてなかったはずなのに………と眉を寄せた。
目がすっかり疲れてしまったのだろう。これは日課読書の八時間目だった。
澄んだ水面に漆黒なインクの一滴を垂らしたように不安がじわりと胸に滲み渡っていく。もっと休んだほうがいい、そう思いながらも、「休んじゃ駄目! 諦めれば、今までの努力も、溢れた涙も、すべて無意味になる!」と、叫けぶ心が思考を混乱していた。
疲れた視線を埃っぽい絨毯の上に泳がせた。どこを見てもぎっしりと文字を書き込んだノート類や、床に広げられた参考書、うずたかく積み上げられた本が自分を囲んでいる。それらの堆積は寂しく聳え立ち、それぞれがラプンツェルの塔に見えた。それから、塔は広々とした海上から突き出し、こんな近くにいるのに互いに隔たれる孤独感を漂わせた。
……そういえば、ラプンツェルも、私と同じようにこんなに死を望んだのかしら? 息が詰まるほど自由を奪われた塔の中に絶望的な思いに沈んでいたのだろうか? ラプンツェルは、今の私にとても身近に感じられる。
子供向けの無垢な物語に登場しそうな主人公を思い浮かべながら、わざとセンチメンタルな気分に装い、部屋の唯一の窓を仰ぎ見た。
──かわいいかわいい姫は滑稽でしかなかった。ラプンツェルは、自分自身の手で死ぬべきと分かっていたのに、長い間に誇りを捨て続け、来るはずもない助けを無様に求めていた。救世主なんて来ない。だからこそ、自分の宿命を、絶望が生み出した死への望みを受け入れるべきだったのだ。
「ここに王子様が来てくれたら、私も愚者に成り代わるのかしら?」と、しばらく誰とも話さなかったせいか、掠れた声でぶつぶつと呟いた。
想像してみた………
──淀んだ空気に疲れきった私は力なく一旦読書から離れ、絨毯から立ち上がろうとした。すると急に、窓辺からばたんと音がして、強い風がカーテンとともに髪を嬲る。目を向けると、そこは窓枠に手をかけ、王子様が立っていた。外見んてはどうでもいい。ただ私を誘うように優しい笑顔を浮かべ、に満ちた眸を、泣き腫らした私の顔に向けている。
ロミオ、私を迎えに来てくれたのかしら? 梯子を持っていらして、このバルコニーによじ登ってくれたのかしら? ともに運命を紡ぐことがお望なら、私は喜んであなたの花嫁になりますわ。そう、互いに導かれ、死に行きましょう!
自分に課した宿命なんてどうでもいい。あなたの助けを受けた時点、私は自ら成し遂げるべき運命をとうに捨て去っていた。ラプンツェルのように、王子様を受け入れる行為は、自分自身を裏切ることと同義だ。姫の運命は自ら終焉を選ぶべきものであり、それを逃れるなど到底許されることではなかった。
ロミオの誘惑に答えるというのは、無力と絶望によって私の内に僅かに残された『本当の私』の最後の欠片すらも打ち砕くことになるだろう。
ロミオはそっと睫毛を伏せ、熱を浴びた指先を私に向け差し出す。その手は、まるで私が答えを出すのをひたすらに待ちわびるかのようだった。
もしその手に私の手を重ねば、私たちはこの牢獄から飛び出すのだろう。
満足するまで愛に溺れ、心が浮かされ、踊るように夜空へ昇っていく。そして、互いの身体を重ね合いながら、自分たちが確かに『ここ』に存在していることを確認するかのように忙しく求め合う。
光! 光沢!眩しさ! 炎! 火炎!
力が尽きるまで、体が滅びるまで、自分自身すら分からなくなるまで、私たちは夜空の中で混じり合う。星々が私たちを見下ろしていることが、もはや恥ずかしいと思わなくなるほど、愛は燃え上がるのだ。すべてが熱に溶かさるまで。
やがて炎が冷め始めると、炭化した身体が最後の光を発して燃え尽き、私たちは流れ星となって天空から急速に墜落していく。
「親愛なるロミオ、わたくしは、粉々に壊れるのが怖いわ」
ただ速度を徐々に増していくうちに、あとは少しで硬たい地面にぶつかると考えた瞬間、一筋の涙が頬伝った。それが強い風に乱暴にさらわれ、高く空へ飛んでいく。髪が乱れ、猛スピードで墜落してゆく。私は心細くロミオの腕の中に強ばった顔を埋める。しかし、彼はもう私を抱き返してはくれない。
そう、人々はいつだって身勝手で、愛はその身勝手さの中から生まれる。それは簡単な理屈だ。愛に飽き、心変わりをした瞬間、愛は消え失せる。だから、寂しさに負けて助けを待ちわび、結局王子を受け入れたラプンツェルは、実は愚かだったのだ。自分の心の純粋さを捨てて、ひとときの空虚な愛を選んだのだから。
そして、ロミオとジュリエットは例外ではなかった。彼らの愛は、狂気的で、素直で、尊大なものだった。
だからこそ、時間がその理想を破壊してしまわないように、二人は死を選ばざるを得なかったのだ。それこそ、浪漫主義が語る愛の見方。
けれど、私の場合は、綺麗な愛の描写を守るためだけじゃなく、自分を裏切ったままでは生きていけないから、墜落という終わりがふさわしいと感じたのだ。
身を包む白いネグリジェは、冬の夜風に僅かに揺れた。髪は肩を滑り落ち、火照った身体は寒さに晒される。
それでも、ロミオは窓枠の中に佇み、じっと私を見つめ続けたまま、微動だにしなかった。
『なぜ彼はまだあそこにいるのだろうか? ただの想像でしかなかったはずなのに……』
月が彼の背後からその姿を柔らかく浮かび上がらせていた。蒼い眸は反射している月光を受けて、奇妙なほどに煌めき、私を見つめる。
優しい微笑みを浮かべた彼に対して、私は淡々とした表情を崩さなかった。しかし、冷静さを装いながら、私はその眸に吸い込まれるような感覚を覚えた。なぜか目の前の現実が霞み、ただ彼の蒼眼の中に沈んでゆく。
部屋が静まり帰り、雪花が風に乗って舞い込み、床に落ちる音さえ聞こえるようだった。
しかし、その沈黙を破ったのは彼だった。
「貴女とともに歩ませていただけますか?」と、ロミオの言葉は穏やかだったが、その奥にはどこか焦燥感が滲んだ。
「わたくしはそんなこと、できませんわ」
淡々とした声で答えると、彼はすぐさま問い返す。
「どうしてそうおっしゃるのですか?」
「『luminos』という名前を持っているからです」
そう言って彼をじっと見つめ返す。
彼は困惑したように眉をひそめたが、それでも目を逸らすことなく、ただ言葉を待ち続けた。
「絶望の底に落ち、何もかも失った私は、知識に救いを与えられた。そして、それに恋をし、新たな知恵を追うようになりました。
こんな私を夢中にさせた知識に、恩返しとして節操を守り、自ら孤独の中で滅ぼさせるつもりです。自分の手で、自分の意志で世界を拒絶し続けて、力が尽きた時こそ、この命を絶ちます。それは私の信念です。私は光に導かれ課せられた宿命に自ら逆らうのです。もうこの泥溝の淀みに居続けたくはないし、貴方の助けを受け取ることはできませんわ」
そう言い放つと、部屋は再び静寂が訪れた。ロミオは私を説得しようとしなかった。
私はこの始まることさえなかった恋物語を、今ここで終わらせようと決めた。だがその時、再び彼の声が部屋に響いた。
「助けを求めるのは貴女ではなくて、私自身だとしたら?」
彼の伸ばされた手が、急に月光の中で白く浮かび上がる。
「え?」
思わずに声を漏らした私に彼はさらに言葉を続ける。
「貴女の輝きに惹かれ、その光を求めずにはいられなくなったのです。その姿が眩しすぎて、目を背ければ息をすることさえ苦しく感じてしまう──ただ、貴女と共にいたいです。再び泥沼の水底に陥れず、私は──貴女もそして自分自身も──この場所から救い出したいのです。私だって、ここにいるのはつらくて、できるだけ早く逃げ出したいのです…」
その時、ロミオの碧眼が月光を強く反射し、そこに炎を宿しているのが見えた。言葉を失った私を見つめながら、彼は静かに言い放つ。
「俺は貴女のそばで、見守りながら死までお供をさせていただきたいです」
彼の言葉が空気を震わせた瞬間、私の心の奥深くまで響いた。気づけば、氷のように冷たい表情が、部屋に舞い込む雪花ととも溶け去っていた。
夜が静かに明け始め、心を縛り付けていた冬の寒さが、暖かな夏にの空気に溶けていく。まるで大きな舞台の書き割りと道具が転換されるかのように、太陽が縄に吊り下がる劇場の仕掛けみたいに南から弧を描き、飴色の天空に昇っていた。
参考書で見たフランク・ディクシーの『ロメオとジュリエット』を思わせる風景。小さな窓がキャピュレット家のバルコニーに成り代わってゆく。そしてそれを通して景色が目の前に広がり、部屋を包む光が暗かった空間を明るく染め上げる。
バルコニーのミルク色をした柱には蔦が優雅に絡み、遠くにはヤツデが風に揺れながら、地上に鮮やかな緑の息吹を吹き込んでいる。
熱を帯びた太陽が絹雲の隙間から覗き、優しく涼しいよそ風が火照った頬を撫で、髪とゆったりしたネグリジェを通り抜ける。サイプレスのハーブを思わせる香りが鼻腔をくすぐり、その清々しさに思わず息を飲む。
しかし、それ以上私を驚かせたのは、光が差し込む中でロミオの姿がはっきりとした輪郭を取り始めたことだった。初めての曖昧さを失い、相手が明瞭に見えた──その事実に、私は思いがけない不安に襲われ、足元がすくむような感覚に囚われる。
「お名前を伺ってもよろしいのでしょうか?」
その場に立ち竦んだまま、彼に向けて震える声で問いかけるのだった。




