理解されなかった夢想者へ
──もし、夢が現実になれると言ったら?
たった一つの脳髄だけで、一度思い描くだけで、神経と神経の間を走る、たった一度だけの電気信号だけで、自分の奥底に潜むあらゆる空想や妄想を現実にできると想像してください。
いつも欲しかったことが手に入り、なりたかった自分になれ、食べたかった物を味わい、行きたかった場所に行け、「こんな世界だったらいいのに」と願っていた世界さえ、一から創り出せる。きっと、多くの人はそんな甘美な幸福を思い浮かべるでしょう。
──では、そんな想像すら必要なく、どんな夢でも現実になると言ったら?
胡散臭く聞こえるかもしれないが、私は、本気で夢は真実だと思っている。
例えば、寝かしつけたはずの子どもが、目に涙を浮かべながら深夜に両親の寝室へ駆け込んできた場面を想像してみよう。
母親は睡眠を妨げられながらも、「どうしたの?」と優しく尋ねる。一子どもは鼻をすすり、ぬいぐるみをぎゅっと抱き締めながら、悪夢を見たことを必死に話し始める。
母親は最後まで話を聞き終えると、頬を伝う大粒の涙を拭いながら、「泣かないで。ただの夢だったんでしょう? たかが夢なんだから」と言う。
しかし、その言葉を聞いても子どもは一向に泣き止まない。
それはもう、悪夢が怖かったからだけではなく、自分が感じた恐怖を、母親が本当のものとして受け止めようとさえしてくれなかったからだ。
どうやらこれは、アルベール・カミュが語った現代の「無関心」という新たなペストの一つなのかもしれない。
どうやらこれは、アルベール・カミュが描いたペストが、現代では「無関心」という姿を取って現れたものなのかもしれない。
我が子にそんな仕打ちを向けるなんて、なんと残酷なのだろう。
子どもであっても、その感情は本物であるから、悪夢がただの夢だとしても、その恐怖まで否定されるべきではない。
実際、夢として具現化された感情は、目覚めて何度も目を擦っても完全には消えない。
たとえ現実世界では形にならなくても、万能なる脳髄という二次元では確かに現実となったのだから。
実は、ジークムント・フロイトも精神分析理論の中で、人間の意識とは精神のごく一部に過ぎず、その大部分は無意識によって占められていると述べている。
この無意識とは、私たちに特定の物事をある一定の見方で考えさせたり、特定の行動へと駆り立てたりする、自分自身にすら隠された曖昧な動機のことだ。
それは幼少期の記憶であり、神話──すなわち古代から続くアーキタイプであり、
空想であり、そして夜に見る夢でもある。
だからこそ、「夢は真実ではない」という考え方は、本当に正しいのだろうか。
そもそも、人間は無意識から生まれる思考や行動のパターンを繰り返して生きているだけなのに、昼間に活動している世界だけを「本当の現実」と呼ぶ理由はどこにあるのだろう。
そもそも、私たちは常に無意識に由来するパターンを繰り返しているだけなのに、どうして昼間に活動している次元こそが真の現実であるものとして受け入れなければならないのでしょうか?
もし夢のほうが、人間という存在をより正直に映し出しているのなら、それでもなお、夢を偽物だと言い切れるだろうか。
それは、自分の感情、ひいて自分自身を否定することに等しい。
私たちは心の囁きに耳を傾け、その意味を再解釈するべきなのではないだろうか。
妄想に囚われ、人を傷つけた者は歴史上に数え切れないほど存在する。夢想に導かれ、世界を変えた者もまた、数え切れないほど存在するのである。
なのに、人はどうして自分の脳が特定の心象や思考、あるいはモチーフを生み出したのかを、もっと考えようとしないのだろう。
実際に、感情性が非常に強いがゆえに、夢を現実へと変え、人生そのものに影響を与えてしまう人や、感情を制御できず、空想そのものに人生を呑み込まれてしまう夢想者は今でも少なくない。
あいにく、人は「夢は真実ではない」と言い続け、彼らの心を理解しようとしない。そのため、感情性の強い人間ほど、理想郷から追われた子供のように、前者の跡を辿って社会から身を引かざるを得なくなる。
だが、それもまた仕方のないことなのだろう。
そのような常識が普及する寛容さのない社会では、『普通』という枠に馴染めない彼らは、奇妙な異端者として、腫れ物に触るように敬遠されてしまう。
罪なき子羊たちは、まるでアダムとイヴのようにエデンの園という群れを離れ、静かに身を潜めながら、自分たちだけの小さな世界を築いていく。
あぁ、夢想者は、なんと哀れなのだろう。
本来なら、無関心な者たちよりも遥かに大きな翼を広げ、蒼穹を自由に翔けることのできる夢想の鳥であるはずなのに、その翼は愚か者たちによってもがれてしまう。
せめて、そんな彼らを労おう。
せめて、この本を彼らへ捧げよう。
自らの深淵へと至る、哀しくも美しき旅路を称えよう。
この本を読んだすべての追放者たちが、カタルシスを通して、その魂を浄化されますように。




