ダラニアへようこそ
夜の降りた銀世界。
お月様は怠けるように天空に居座り、お日様にその場を譲る気をなどこれっぽちもなかった。9月5日からダラニアを覆い尽くしている雪の綿毛に包まれている心地よさに抗える者はなかったからだ。さしずめ、甘美な快楽は、雪の布団の中で眠る全ての者を目覚めさせることなく夢の中へと閉じ込めていた。
そのため、周囲は静寂に包まれていた⸺家々は小さく鼾を掻き、街灯は目を閉じ、枯れ木は互いに寄りかかりあい、店や喫茶店の看板は霜焼けを恐れるかのように内へと閉じ籠っている。そして、風は鼻づまりでもしているのか、ビュオォォと途切れ途切れに鼻を鳴らしていた。
そんな眠気を催す光景を背に高校一年生くらいの少年だけが眠っていなかった。いくつかの燭台に灯した炎に照らされながら、賃貸のキッチンの丸テーブルに座り、退屈そうな表情で窓の外の風景を見つめていた。もし父親に訪ねたなら、「天空にお月様が寝ている」という滑稽な妄想でもしているのだろうと言ったに違いない。少年は肩を竦めてひとつため息をついた。
「まだ8月なのに…秋口に雪が降るものか?」と、引き吊った表情で呟いたその声は小さな空間の中に静かに響いた。
「まぁ、ダラニアは大体そんな感じらしいよ、トオルちゃん。仕方ないから後何ヵ月か我慢しなくちゃね」と突然、背後から軽い調子で声をかけられてしまった。
「今回も学校の階段が凍ってるのなら、断じて狂ってしま…」
トオルが言いかけたところで、ようやく声の主の存在に気づいた。そして、愚痴を聞かれてしまったことに恥ずかしくなり再び、肩を竦めた。
「ごめんね、トオルちゃん…」と、女の子の声が不思議に響いた。何のことだ? なんで彼女が謝っていたのか? トオルと呼ばれた少年にはその理由が分かっているようだった。彼は少し恥ずかしそうに首を振り、気まずさで顔を背けた。
「…いや、お姉さんは悪くはないよ。きっと大丈夫だろうね」、歯切れ悪く否定した。「…で?いつから僕の独り言を盗み聞きしていたんだ?」
女の子は弟が話題をそらそうとしているのを察した。しかし、それに付き合う形で、悪戯っぽく微笑みながら口を開いた。
「せっかくかわいいかわいい弟が起こしてくれたんだから、今度は素直に聞いてあげようと思って来たよ」と言いながらヴインクする。
「ふむ… 不思議だな… 寝坊するはずだと…寛大そのものの名と持つリサお姉さんが一晩で何か変わったのか? 怠け悪魔がやっと放っといてくれたとでも? 額を出してみてよ! 熱があるんじゃないか?」
トオルは女の子⸺リサをからかうように言って、眉をひそめた。
「ふん! 人聞きの悪いことを言わないでほしいね! 」と、リサは鼻を鳴らして、得意気な笑顔を浮かべた。「まぁ、今日は機嫌がいいから、特別に聞き流してあげよう」
対照的にトオルは哀れむように苦笑した。
「ところで…何か焦げてない? 実は、寝室に臭みがしてきたから、ちょっと気になってきちゃったけど」
「…あ!ご飯!」と、トオルは思い出したように慌てて叫び、鍋の置かれたストーブの方へ飛び出した。リサはその姿を見てフフッと笑っい、丸テーブルの席に着いた。
二人は双子だった。トオルは数分遅れてリサに続いて生まれたが、姉を立派な存在として尊敬し、慕った。リサは弟であるトオルの世話を焼き、守り続けてきた。そんな姉の姿を見て、トオルは恩があると感じていた。
鍋の中身をかき混ぜながら、トオルは一度目を細めて確認した。ご飯はまったく問題なさそうに見える。そして、そこでようやく気づいた。火にかけてからまだ十分も経っていない。
⸺またお姉さんにやられたな…
トオルはすぐに姉の悪ふざけだと悟った。溜め息を突きつつこんなに容易く騙された自分に恥ずかしさを覚えた。不愉快さとともに目を瞑って、そして肩越しに姉を睨んだ。
しかし、自分の悪戯のことを忘れたかパジャマ姿のリサはテーブルに前のめりになって昨日の新聞を黙々とめくっていた。
トオルは肩を竦めて、再び鍋に向き直った。
怒っても仕方がない⸺そう、彼には分かっていたのだ。
リサがこんなことをする理由は、悲しい現実を紛らわせるためだった。色褪せた毎日に少しでも彩りを取り返したい。そのために時々夢中になりすぎたり、弟をからかったりする。それが弟を思う彼女なりの心遣いだということをトオルは理解していた。
少年はもう一度、悪戯好きの姉の様子をちらりと伺った。そして、自然と笑みがこぼれる。彼女が直ぐ側にいるという意識が、心に安心をもたらし、胸を温かくした。いつでもその姿を見られることが、何よりも嬉しかった。
トオルに取って、姉は非常に麗しい存在だった。観客的に見れば、彼女の見た目はあまり人目を引くものではなかったかもしれない。それでもトオルに取ってリサは、唯一頼れる家族だった。その想いが膨大な愛情となって溢れ出し、彼の目に映るリサの姿は美しく歪んでいた。
実際にリサは、見る者にどこか骸骨を思わせるほどに憔悴しきった印象を与えるほど病気的だった。痩せ細った身体は骨が浮き出ていて、顔色はまるで磁器の人形のように青ざめていた。虚ろでぼんやりとした目は、栄養不良に蝕まれた身体の状態を物語っていた。眠たげなその視線は、リサの脳が力を出しきれないでいることもを訴えた。
さらに、浮き出しの背骨を沿って流れる長い巻き毛は腰まで伸びていていたが、輝きを失い、折れ曲がりながら不規則に巻かれていた。
その髪は灰色で目立ち、墓地の亡霊を思わせるような雰囲気も纏っていた。
それでもトオルは、頑なにその現実を見ようとしなかった。彼は、姉の姿にほんのわずかでも美しさを見出そうとする必死だった。
その目に映るリサは壊れやすくも純粋なビスクドールであり、綺麗な白鳥だったのだ。
もっとも、白鳥らしいところと言えば長い首くらいで、ビスクドールに似ている部分は体の不自由さだけかもしれない。
リサは車椅子に乗っていた。足全体が動かない。
その時だって、彼女が丸テーブルの席に着いていたのは、椅子を一脚わざと取り除いたスペースだった。彼女は車椅子のまま、そこに静かに佇んでいた。
リサは、とても弱く重い病を抱えている。それでも彼女の心は決して折れることがなかった。弟のために⸺ただそれだけの理由で彼女は生き続けようとしている。「姉として弟を支えなくちゃ」という責任感が彼女をここまで突き動かしてきた。リサは何度も自分の弱さに苦しめ、それでも克服し続ける決意を固めてきた。
子供の時から二人は互いに支え合っていた。だからリサにとって弟を見捨てるなどという選択肢はあり得なかった。
毎日、笑顔を絞り出して、体に勇気を奮い立て、弟の隣に人生を歩もうとしている。
確かにリサの外見は人形を思わせるかもしれない。しかし、内面には、まるでギリシャ悲劇のヒロイン、アンティゴネのような強い意志が宿っていた。
古代ギリシャに例えるなら、トオルはハデスに虐げられて冥界に閉じ込められたぺルセポネーのような存在だった。
首筋に絡まる髪はリサより質が良いはずなのに、いつも乱れていて、前髪が目元に垂れかかっている。その目には青いクマが刻まれ、見る者に疲れた印象を与える。それでも、どこか乙女のような美しさを感じさせる不思議な容姿をしていた。
姉とは対照的に、トオルの肌は健康的なピンク色で、もちもちとして弾力があった。リサ曰く、弟の頬は引き締まっていて、それでいて柔らかく、思わずに触りたくなるような感触だという。さらに、白く長い睫毛はその存在感だけで人の目を引き付け、儚げな魅力を引き立てていた。
性格は、トオルが引っ込み思案で周囲から注意されることを何よりも嫌う少年だった。その気質もあって、彼はセンチメンタルな文学男子としての自分を自覚していた。弱く、男として頼りにならない⸺それは彼自身が理解していたことだ。
だが、そんな自分を支え、時には無力さの淵から引き上げてくれるのは、ただ一つ⸺姉の存在だった。トオルにとってリサは特別な存在だった。彼女は何があっても弟を守り抜き、困難な時せ率先して助け、常に優しく接してくれる。その包容力は、トオルにとって計り知れない安心感を与えた。
トオルはそんな姉を何よりも愛し、頼りにしていた。彼女の体調や精神面を考慮する中で、 リサの強さがどれほど特別であるかを改めて感嘆していた。姉自身は朝霜が覆う薄氷のようで儚げでありながら、その強さは燃える剣を手にルシファーに立ち向かう大天使ミカエルのごとく勇敢だった。トオルの目には、リサがまるで精密に描かれた慈悲深い聖母像のように写っていた。彼はその絵画に見入る信徒のような眼差しで姉を見つめ、心の底から彼女を守りたいと願った。だか同時に、不安もあった。このまま弱さを引きずれば、いつか大切な姉を失うのではないか⸺その思いが彼を駆り立てた。自分の不甲斐なさを克服しなければ。そう決意しながらも、トオルは心地悪さと胸の奥を捕まれるような不安を抱えていた。それでも彼は進むしかなかった。
「…何をそんち夢中になってるの?」と、耳元にトオルの声が響き、リサは現実に引き戻された。
「え?」
思わず驚いた声をあげると、いつの間にかトオルが彼女の背中に回り込んでいた。彼は肩越しに身を乗り出し、勝手に卓上の新聞を覗き込んでいる。
瞬間、時間が止まったかのようだった。
四つの長くて、新雪のように真っ白な睫毛が並んでいる。それぞれが儚い印象を纏い、まるで寒さに堪えようとして寄せ合う一対のシマエナガのようだった。小さな羽で波打つように優雅に羽ばたくトオルの睫毛に、リサは一瞬、言葉を失った。その感嘆を表す言葉が、すっかり消えて去ったのだ。そして、ふと思った、
⸺もしかしたら、私も睫毛がこんなに綺麗だったっけ?
「…お姉さん?」トオルは繰り返した。
「あ、うん! えっと…ちょっと新聞の写真を見てて…」何とか気を取り戻し、彼女は、言葉を返した。
「どの写真?」興味津々な様子でトオルが身を乗り出す。
「これよ」リサは短く答えると、ページの端を指で軽く叩いた。
静かに指示された方向に視線を向けると、蝋燭の明かりに照らされたページが目に入った。リサが指差したのは地方の広告コーナーだった。ページ全体をびっしりと埋め尽くす小さな四角いフレームの中には、求人広告や新店舗の案内、さらに求婚広告までが並んでいた。
その中に、「探しています」という見出しがあった。添付された写真には、少し年上に見えるの少女が写っていた。疲れたような顔をしており、厳しげな視線を送っているのか、それともただ虚ろな表情をしているのか、トオルには判断がつかなかった。何かを拒むような、傲慢も不安が混じったような表情だった。
そして、特徴的な髪型に目が引かれた。二つの太いコルネ巻きが頭を挟むように整えており、誇らしげにその持ち主の独特な雰囲気を際立たせていた。トオルがその髪型に気づき、リサがどうしてこの少女の写真に惹かれたのか、すぐに理解した。
「この人も明るい色の髪をしているの! しかも、巻き毛もある! やはりダラーニアにはこんな感じの人が多くいるよね」と、リサの嬉しそうな声が、静寂に包まれたキッチンに響いた。
「だからさ、ここに来た二週間前、案内書で読んだんだろう? ダラーニアって、他のヨーロッパの国々とそんなに変わらないって書いてあったじゃないか…」
しかし、トオルは姉に視線を送ると、言葉を飲み込んだ。その目には興奮の火花が弱く揺らめいていた。瞬間、まるで濁った夜空に浮かぶ星々を見ているような感じがした。でも、それらが人生の困難に立ち向かう強い意志を表したのか、それとも、細やかな幸せを願う必死な希望の淡い輝きなのか… 答えを見つける暇もなく、
「まぁ、それもそうだけど、やっぱり自分の目で確かめると、ようやく心が落ち着くものね」と、リサは顔を綻ばせながら星空の扉のような瞼をそっと閉じた。




