第4話 徳川家康、扇子をへし折る
「ええいっ! 何をしておる! なぜ前線が押し込まれているのだ! 報告せよ!」
徳川家康は、本陣の床几(しょうぎ:椅子)を激しく蹴りつけるようにして立ち上がった。
開戦から数時間。本来なら東軍が圧倒し、西軍をジリジリと追い詰めているはずの時間帯である。
しかし、家康の視界に飛び込んでくるのは、味方の凄惨な敗色ばかりだった。
「も、申し上げます! 先陣の福島正則様、島津の『初手チェスト』なる猛攻を受け、陣形が完全に崩壊! 福島様は『あいつら全員悪魔の目ェをしとる!』と叫びながら後退しております!」
「島津だと……!? あやつらは三成にヘソを曲げて動かぬはずではなかったか!」
家康は手にした白扇を怒りに任せて激しく握りしめた。
島津義弘が三成を嫌っているという確かな情報があったからこそ、家康は前線を福島らに任せていたのだ。
それがなぜ、開戦と同時に死に物狂いで突撃してくるのか。
意味がわからない。
「さらに南宮山の毛利秀元、および長宗我部盛親の軍勢、合計3万が山を駆け下り、我が軍の浅野幸長殿の陣を完全に一撃で粉砕! 現在、我が本陣の『真後ろ』に向けて、殺意をまとって進軍中とのことにございます!」
「な、何ぃ……!?」家康の顔から血の気が引いた。
南宮山の毛利は、吉川広家が内通しているため、絶対に動かないはずだった。
広家から「宰相の空弁当」で時間を稼ぐと密書が届いていたのだ。
「広家はどうした! あ奴が毛利を止めているはずだろ!」
「それが……吉川広家様は、大坂城から電撃参戦した総大将・毛利輝元によって、前夜のうちに監禁された模様にございます!」
「輝元が現場に来ているだと!? あの、大坂城から出たがらない引きこもりが、なぜそんなアクティブな真似を……っ!!」
ガリッ、と家康の指先に力がこもる。
計算が合わない。
自分が苦心して張り巡らせた調略のネットワークが、まるで見えないチートツールによって一瞬で書き換えられたかのように、すべて裏目に出ている。
「ええい、こうなれば松尾山の小早川秀秋だ! あの優柔不断な若造め、まだ東軍に寝返る決断ができずに迷っておるのか! 鉄砲を撃ち込め! あやつを脅して、今すぐ大谷吉継の横腹を突かせろ!」
家康の命令により、松尾山へ向けて威嚇の「問鉄砲」が放たれた。
歴史上では、この銃声に怯えた小早川秀秋が東軍へ寝返り、西軍の敗北が決定する。
家康にとって、これが最後の、そして最大の逆転の切り札だった。
だが。
「ほ、報告! 松尾山の小早川殿の軍、動き出しました!」
「おおっ! 討つか! 秀秋め、大谷の陣へ突っ込むか!」
家康が身を乗り出した、その瞬間、物見の兵が絶望に満ちた声をあげた。
「いえ! 小早川軍、松尾山をマッハの速度で駆け下り……そのまま我が東軍の横腹、藤堂高虎殿の陣へ、一切の迷いなく突撃を開始しました!!」
「……は?」
家康の思考が停止した。
小早川は迷っていない。
怯えてもいない。
むしろ「問鉄砲うっさいわボケ、耳元でクラクション鳴らされた気分だよ」と言わんばかりの猛烈なスピードで、東軍を、つまり徳川家康を潰すために牙を剥いて突っ込んできたのだ。
正面からは島津の狂戦士。背後からは毛利の圧倒的大軍。
そして側面からは、迷いを捨てた小早川の急襲。
東軍は、完璧な「3方向からの完全包囲」にハメられていた。
「小早川ァァァァァッ!! 輝元ォォォッ!! 義弘ォォォォォッッ!!」
家康は脳の血管が千切れんばかりに絶叫した。
怒りと、困惑と、生まれて初めて味わう本物の恐怖。
その圧倒的な感情の爆発とともに、家康が握りしめていた扇子は、バキィィィンッ!! と凄まじい音を立てて、真っ二つにへし折れた。
「おのれ……! ワシの関ヶ原を、ワシの天下を、めちゃくちゃにしおってからにぃぃぃーーーッッ!!」
冷や汗を流し、へし折れた扇子を握りしめながらガタガタと震える家康。
徳川の栄光が、今、完全に崩壊しようとしていた。




