第18話 徳川家康の日常
慶長七年(1602年)春――駿河国・駿府城の一角。
パキッ。
「……あ」
徳川家康(60歳)は、小さなハサミを持ったままフリーズしていた。
庭園の縁側に座り、唯一の趣味である盆栽の枝を切っていたのだが、手元が狂って一番大事な主枝をへし折ってしまったのだ。
「……また折れた。ワシの扇子のように、また折れてしもうた……」
家康はガックリと肩を落とし、折れた松の枝を見つめて深い、深いため息をついた。
関ヶ原の大敗北から1年半。天下を統一するはずだった大狸・徳川家康は、現在、全ての権力を剥奪された「完全なる窓際族(引退させられた創業者)」として、駿府の小さなお堂で24時間体制の監視を受けながら暮らしていた。
「大御所様、お労しや……」
側近の天海が、涙を拭いながらお茶を差し出す。
「まさか、天下の家康公が、このような狭い庭で盆栽いじりしかできぬ日々を送られることになるとは……。西軍のあの武将ども、なんと恐ろしい奴らでしょう」
「天海よ、もうその名を呼ぶな。思い出すだけで胃が痛むわ」
家康はお茶をすすりながら、遠い目を虚空へ向けた。
「正面の島津は初手から全力で我が福島陣をミンチにし、後ろの毛利は『直す』とか言って退路の門を物理的に閉鎖し、極めつけは松尾山の小早川の若造じゃ……。あやつ、ワシの問鉄砲に怯えるどころか藤堂を瞬殺しおった。今の若造のメンタルはどうなっておるのだ……」
「お、大御所様、過去を振り返っては体に毒にございます。それより、今月の『お小遣い(隠居料)』が届きましたぞ」
天海が差し出したのは、大坂の本社(小早川秀秋)から届いた、薄っぺらい給与明細だった。
「どれどれ……何!? 今月はこれだけか!?」
家康は明細を見て目玉を飛び出させた。
「な、なぜじゃ! 前月よりさらに減っておるではないか! ワシが注文した高級な盆栽用の肥料代が引かれておるぞ!」
「あ、それですが……」
天海が気まずそうに視線をそらす。
「二代将軍となられたご息女……失礼、ご次男の結城秀康様から直筆の書状が届いておりまして。『父上、公私混同の勘定は小早川殿と石田三成室長に一発で検挙されます。よって盆栽代は父上の小遣いから天引きとします』とのことです……」
「秀康ゥゥ!」
家康はお膳をひっくり返さんばかりに絶叫した。
「あやつ、ワシがあれほど冷遇していたから、ここぞとばかりに新経営陣に媚びを売りおって! 完璧な傀儡トップになり下がりおってからに!」
「さらに、三男の秀忠様からもお手紙が……」
「おお、秀忠か! あやつはワシの味方だな!?」
期待を込めて手紙を開いた家康だったが、そこに書かれていたのは、真面目すぎる三男の「社畜日記」だった。
『父上、お元気ですか。僕は今、石田三成室長のもとで、毎日一万枚の書類のハンコ押しをしております。最初は厳しくて毎日泣いていましたが、最近は筆仕事の速度が三成室長に褒められる器量になり、少し仕事が楽しくなってきました。来月は組頭に昇格できそうです。父上も盆栽の法度を守って、ホワイトに生きてください』
「秀忠も完全に洗脳されておるわーーーッッ!!」
家康は頭を抱えてのたうち回った。
息子たちは新時代のシステムに完璧に適応し、誰も自分を助けようとしない。
「ええい、こうなれば前田や伊達に密書を送り、裏金を作って反撃の狼煙を――」
「あ、それも無理です」
天海がすぱっと言葉を遮った。
「伊達政宗殿は『負け組の爺など眼中にねえ』と吐き捨てて、前田の造った大船で太平洋を渡ってイスパニアへ旅立たれました。前田利長殿も『一発で領地没収されるので密書を送ってこないでください』と怯えております」
「誰もワシの調略に引っかからん……!」
完全なる、詰み。家康はポツンと、縁側のひだまりに取り残されていた。
「……天海よ」
「はっ」
「ワシの作った『徳川の幕藩体制』という物、そんなに古かったかのう……」
「……時代の仕込み直しが、早すぎたのでございますよ、大御所様」
家康はへし折れた松の枝をそっと土に埋めると、静かに目を閉じた。
かつて天下を掴みかけた稀代の野心家は、現代知識を持つ3人のガチ勢によって完全に「無害な隠居老人」へとデトックスされ、駿府の穏やかな風の中で、今日もホワイトな盆栽ライフ(監視付き)を過ごすのだった。




