55話 異色な4人
榮が言っていた、あの日の路地裏というのは、1話のことです。
「そういえば、今日から私、夏休みなんだよね」
「そうなのか?」
「……あれ、榮に言わなかったっけ? 4日くらい前にも言ったじゃん。もうすぐ夏休みだよって」
五葉はむすっとした顔で、畳んでいた服の手を止めて俺を見上げてくる。
「あれ、そうだっけ……」
「うん、言った」
(……おかしいな。ここ最近、しっかり睡眠を取れていないからだろうか。なんだか、少し物忘れが多い気がする……)
五葉の呆れたような視線を受け止めながら、俺は自分の頭を軽く押さえた。
今のこともそうだ。特に、バイトのシフトがいつ入っているかすら忘れていたのは、客観的に考えてもだいぶまずい。
(ただの疲れ、ならいいんだけど……)
じわじわと頭の奥を侵食していくような妙な違和感に、俺は小さな不安を抱いていた。
パン、と榮は小さく両手で自分の頬を叩く。
頭のモヤモヤを無理やり振り払うようなその様子を、五葉は怪訝そうに見つめていたが、すぐに思い出したように言葉を続ける。
「あ、そうだ。あとね、今日は澪華の家に行きたいんだ」
「澪華さんの家に?」
「うん。少し、話したいことがあるからさ」
「分かった。それじゃあ、俺もすぐ準備するよ」
「うん、おねがい」
こうして二人はそれぞれの身支度を整え、澪華の家へと向かうために部屋を後にした。
◇
身支度を整えた俺と五葉は、さっそく澪華の家へと向かって歩き出した。
ジリジリと照りつける夏の太陽。夏休みが始まったばかりということもあって、五葉はいつも以上に上機嫌だ。隣を歩く足取りも、どこか軽やかに弾んでいる。
「そういえばさ、五葉は夏休み、具体的に何をする予定なんだ?」
「ん? えっとね……友達と遊んだり、友達と遊んだり、友達と遊んだり――」
「……いや、友達と遊ぶことばっかりだな」
「うん! だって、友達と遊ぶのめちゃくちゃ楽しいんだもん!」
――五葉。
一番最初に路地裏で出会った時は、圧倒的な緊張感と、底知れない威厳――そういうものしか感じられないような女の子だった。
けれど今、目の前にいる彼女から、そんな張り詰めた空気はとっくになくなっている。
「五葉も、最初の頃とずいぶん変わったよな」
「そう? 変わったと思ってるのは、たとえばどんなところ?」
「えっと、なんていうか……威圧感が無くなった」
「威圧感……?」
ジト目になって俺を睨んできた五葉。
「そんなの、最初から無かったと思うけど?」
「いや、めちゃくちゃあったから……今は全然感じられないけどさ」
俺は苦笑交じりに返す。
今思い出しても、あの薄暗い路地裏での出会いは、俺の人生で今までにないほどの恐怖を植え付けられた瞬間だった。正直、もう二度と思い出したくもないくらいに……。
(それが今じゃ、俺の家で一緒に暮らして、あんなに楽しそうに夏休みの予定を話してるんだもんな……)
◇
――そんな他愛のない話をしながら歩いているうちに、二人は目的の家へとたどり着いた。
榮が玄関前まで進み、インターホンを押そうと扉へ手を伸ばそうとした、その時――。
「ですから、私はできないと言っているでしょう」
「いや、でもそこをなんとか――」
扉の向こうから、澪華と蒼真の声が漏れ聞こえてきた。どうやら、二人で何か激しい言い争いをしているらしい。
「そもそも、どうして私がそんなことをしなければならないのですか」
「だから、まずは俺の話を最後まで聞いてくれって……!」
二人の声が最高潮に達した、その瞬間。
バァン! と、玄関の扉が内側から勢いよく弾け飛ぶように開く。
「だから、俺は別に――あ」
そう言いかけた蒼真が、勢いよく外へと飛び出してくる。驚く榮たちの目に飛び込んできたのは――彼の片方の頬に、くっきりと残る誰かに叩かれたような赤い跡。
「……蒼真さん?」
俺が思わず呆然と声をかけると、蒼真は気まずそうに視線を泳がせた。
「……おはよう、榮」
「何があったんですか、その顔……」
「いや……ちょっとした、平和的な話し合いがね?」
明らかに平和的ではない傷跡を隠すように、蒼真は頬をさする。すると、隣にいた五葉が、興味津々といった様子で一歩前に踏み出した。蒼真の顔のすぐ近くまで顔を寄せ、その赤い頬をじーっと覗き込む。
「叩かれたの?」
「……まあ」
「えっと……誰に叩かれたの?」
五葉が素朴な疑問を口にする。蒼真が言い淀み、答えるより先に――彼の背後の暗がりから、ヌッと一つの人影が姿を現して、
「私です」
しれっとした表情で言い切ったのは、もちろん澪華だった。彼女はいつも通りの凛々しく、そしてどこか涼しげな顔のまま、俺たちの前に佇んでいる。
「……あの、一体何を話してたんですか?」
「お金の話です」
即答。
あまりの迷いのなさに、俺は思わず毒気を抜かれてしまう。
「お金、ですか?」
「はい」
後ろを振り返る気力すらなさそうな様子で、蒼真が困ったようにガリガリと頭を掻いた。
「いやさ、俺が少しばかりお金を貸してくれないかって、澪華に頼み込んでたんだよ」
すかさず、澪華が眉をピクリと動かす。
「少し?」
「あなたが口にした金額は、一般的に『少し』とは呼びません」
「いや、あれは必要経費で……っ。仕方な――」
「仕方なくなどありません。必要経費と言うのであれば、なおさら事前に相談してください」
「だから今こうして相談に決にきてるじゃないか……!」
「相談する前に、すでに勝手にお金を使ったでしょう?」
ピシャリと言い放つ澪華。またしても二人の間に、一触即発の険悪な空気が漂い始める。
あまりの空気の重さに、隣にいた五葉が怯えたように俺の服の袖をキュッと軽く引っ張ってきた。上目遣いで、ひそひそと小声で耳打ちしてくる。
「……ねぇ、榮。これ……一度帰ったほうがいいかな?」
「いや、せっかくここまで来たんだし。……ちょっと頼んで、中に入らせてもらおう」
コホン、と小さく咳払いをして、澪華はようやく少し気持ちを落ち着かせた。そして、怒りのあまり目の前にいる俺たちの存在をすっかり忘れていたことに気づいたようで、ハッと表情を和らげた。
「五葉、それに榮君。来てくれてありがとうございます。……それと、お見苦しいところをお見せしてしまって、申し訳ありません。今のことは――」
その背後。蒼真は赤く腫れた頬を手で押さえながら、聞こえるか聞こえないかという絶妙な小声で、往生際悪くボソボソとぼやいて、
「……ちぇっ、金くらい貸してくれてもいいだろ。ケチ……」
ピク、と澪華の綺麗な眉が跳ね上がる。
「聞こえていますけど」
「あ……すみません」と蒼真は一瞬で直立不動になり、消え入るような声で謝罪した――。
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