54話 平和な日常への回帰
突然の事件からも数時間が経ち、落ち着きを取り戻してきた榮たちであった――。
週に4話の頻度で投稿しています。暇なとき、ぜひお読みになっていただけたら幸いです!
――宝来愛莉の記憶は、そこで途絶える。
「……何だ?」
違和感を覚えた男が、アスピラの方へと顔を向けようとした、その刹那。
アスピラは無邪気な笑顔を浮かべたまま、音もなく距離を詰めていた。その手元――隠し持っていたナイフが、凶悪な軌跡を描いて一気に突き出される。
ザッシュッ!
「――っ!?」
鋭い刃が、男の胸元へと深く、容赦なく肉を裂いて入り込んだ。男の手から力が抜け、持っていたカップが床へと落下する。
ガシャアン! と、静寂を切り裂くような乾いた破壊音が、室内に虚しく響き渡った。
刃が男の胸元へ深く入り込む。手からカップが落ち、乾いた音を立てて床へ転がった。
アスピラはナイフの柄を握りしめ、獲物を固定したまま、男の絶望に染まる目をじっと見つめる。
そして、三日月のような笑みをさらに深く刻み込んだ。
「――さようなら。恩人さん……」
◇
時間は現在へと戻り、夜の京都――。
『みたの話し合い』から帰ってきた俺と五葉は、祖父母の家へ向かって、暗い夜道を一歩一歩踏みしめるように歩いていた。
数時間前の喧騒が嘘のように辺りには人影もなく、一定の間隔で並ぶ街灯だけが、2人の足元を寂しげに照らしている。
五葉は榮の少し前を歩きながら、時折振り返る。
「……今日は、本当に長かったね」
「あぁ、本当にだな」
朝はいつもと変わらない一日になる……と思っていた。それが、アスピラと遭遇し、五葉や蒼真が負傷して、みたの話を聞いて――。
気がつけば、すっかり夜になっていた。
「榮」
「ん?」
「疲れたよね」
「まあ……ちょっとな」
俺は歩みを止めず、ふと夜空を見上げた。
街灯の明かりの向こう、雲の切れ間からは、僅かに小さな星たちが顔を覗かせている。
「でも、五葉の方は大丈夫なのか?」
「私は平気だよ」
いつものように明るい声で答えた五葉。けれど、そう言った直後、彼女の歩く速度がほんの少しだけ遅くなった。
(……本当は、平気なわけないよな)
少し前を行く五葉の小さな背中を見つめながら、俺は胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚える。
もしかしたら彼女は今、アスピラに吹き飛ばされたあの瞬間の恐怖を、必死に堪えながら思い出しているのかもしれない。
実際、あの時五葉が受けた打撃は、見ていて血の気が引くほど凄まじいものだった。
あれほどの衝撃を食らってなお、今こうして平然と立ち振る舞っている彼女の姿には、正直、驚きを通り越して畏怖すら覚えるほどだ。
(……もっと、俺が頼りになればよかったんだけどな)
無力な自分への悔しさが、夜風と共に胸にチクリと突き刺さる。
――やがて暗闇の向こうに、ぽつんと温かい、見慣れた我が家の明かりが見えてきた。
「あ、もうすぐだね」
「ああ、そうだな」
◇
2人は何事もなく、無事に祖父母の家へとたどり着いた。
玄関の扉を開けると、ガラガラという音と同時に、心配そうな顔をした祖父と祖母がすぐに出迎えてくれる。
「遅かったねぇ。こんな時間まで、一体何かあったのかい?」
お互いに顔を見合わせるほどにオロオロしている2人の姿に、俺は少し苦笑いを浮かべた。
「大丈夫だよ。ちょっと友達のところで話が長引いて、遅くなっただけだから」
「うん、そうだよ。ちゃんとこうして、元気に帰ってきたからね」
それでも、大切な子たちが夜遅くまで帰ってこなかったのだ。祖父母の心配は、そう簡単には収まらない。かと言って、アスピラと戦っただの、神社の神域に行っていたのだの、今日一日の異能にまつわる大事件をすべて正直に話すわけにもいかなかった。
俺と五葉は顔を見合わせ、その場限りの適当な言い訳を必死に並べ立てて、祖父母を説得したのであった――。
その後、俺たちはそれぞれお風呂と身支度を済ませた。
自室に戻った俺は、敷かれた布団の中へと滑り込み、クタクタになった身体をようやく横たえる。
「……今日は、本当に疲れたな」
天井を見上げながら思わず本音が漏れる。少し離れた隣の布団では、五葉もすでに横になっていた。
「そうだね……おやすみ、榮」
「ん、おやすみ」
それ以上は特に言葉を交わすこともなく、五葉は静かに目を閉じる。
(……アスピラの件も、これからのことも、全部明日から考えよう。今はとにかく、体を休めるのが一番だ……)
俺もそっと瞼を閉じる。
カチリ、と部屋の明かりが消え、深い、静かな夜の闇が俺たちの意識を優しく包み込んでいった――。
◇
翌朝――。
窓から差し込む強い日差しに、俺はいつもよりかなり遅く目を覚ました。枕元の時計を確認して、一気に血の気が引いていく。
「やべっ、完全に寝坊した……って、ん?」
まだ眠気の残る目をこすりながら、ふと隣の敷布団を見る。けれど、そこにいるはずの五葉の姿はすでにない。
「あれ。五葉……?」
嫌な予感がして、俺は慌てて布団から跳ね起きると、そのまま部屋の扉へと駆け寄った。焦りながら勢いよくドアを開け放った、まさにその時――。
「うわっ!?」
「えっ!? きゃっ!」
バッタリと、目の前にいた人影と衝突しそうになった。そこに立っていたのは、見慣れない黒いTシャツをラフに着こなした五葉だった。
あまりにも突然の出来事だったからだろう。ちょうど部屋に入ろうとしていたらしい五葉は、目を丸くして驚いた拍子に、トトントンと一歩後ろへステップを踏んで下がる。
「び、びっくりした……」
「そ、それはこっちの台詞だよ……!」
五葉は驚きで少し赤くなった顔のまま、パタパタと自分の胸元を手で仰いでいる。俺もバクバクとうるさい心臓を落ち着かせながら、苦笑交じりに問いかけた。
「……いつの間に起きたんだ?」
「結構前だよ。榮が全然起きないから、起こしにきたの。でも、やっぱり先に下に行こうかなって思ってたら、ドアが開いたから」
「そうだったのか……なんか、待たせてごめんな」
「ううん、大丈夫」
五葉はへにゃりと柔らかく微笑んだ。
――先程のお互いに不意を突かれたハプニングを笑い飛ばすようにして、俺たちは並んで居間へと向かう。
それからは、いつも通りの穏やかな朝だ。
祖父母と一緒に賑やかな朝食を取り、何気ない日常の時間を過ごしていく。
ズズッ、とお茶をすすり、一息ついた。食器を片付け終えたまさにその時、五葉がふと何かを思い出したように、俺の方をじっと見つめて口を開いた――。
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