秘話 『宝来愛莉』――毒蜂の檻と玻璃の「王冠」
『幸せ』――そんなものはもう、私には――。
結構というか、だいぶ長い話です。休憩がてら読むことをおすすめします。
私がまだ『アスピラ』と呼ばれるようになるよりも、ずっと、ずっと前のこと。
私には、別の名前があった。
『宝来愛莉』
小さかったあの頃、私の世界は今とまるで違っていた。……少なくとも、表面上は――。
◇
私が小学校の中学年だった頃。我が家という名の家庭は、すでに内側から不気味に崩れかけていた。
両親はどこからか多額の借金を抱え、日々の返済の目処はまったく立たず、家の中にはいつも息が詰まるような重苦しい空気が漂っていたのだ。
夜遅く、暗いリビングから漏れ聞こえてくる、両親の低く鋭い言い争いの声。幼い私はそれが怖くてたまらず、布団の中で何度も耳を塞いでいた。
心配になって、「お父さん、お母さん、本当に大丈夫なの?」と震える声で尋ねたこともある。けれど、何が起きているのか親はちっとも教えてはくれない。
だから私は、何ひとつ詳しく理解できないまま、ただ怯えることしかできなかった。
そんなある日、終わりの日は突然やってきた――。
ガラガラ、と玄関のドアを開ける。
いつもなら微かに聞こえるテレビの音も、夕食の準備の匂いも、その日は何もなかった。
「……お父さん? お母さん……?」と声を上げるも、いつもの返事は返ってこない。
胸騒ぎがして、私はランドセルを背負ったまま慌てて家の中を探し回った。けれど、リビングにも、寝室にも、二人の姿はどこにもなかったのだ。
残されていたのは、家具や生活に必要なものがほとんどなくなってしまった、ガランとした寒い部屋。
そして、リビングのテーブルの上にぽつんと置かれた、幼い私――愛莉には何が書かれているのかさっぱり理解できない、黒い文字だらけの不気味な書類だけだった。
両親は、私を置いていなくなった。途方もない額の借金と、一人の幼い子供だけを、この場所にぽつんと残して。
「なんで……なんで私だけ、置いていっちゃうの……っ?」
夕暮れ時の誰もいない部屋に、私の小さな泣き声だけが、どこまでも虚しく響き渡っていた――。
◇
――それから、しばらくの間。私は誰もいない家で、一人でどうにか過ごしていた。
けれど、子供が一人きりで生きていけるほど世の中は甘くない。そんなのは、とうに分かっている。
電気も水道も止まり、ボロボロになった服を着て、飢えを凌ぐ日々。
頼れる人も、帰るべき場所も、私にはもう何もない。
そんなある日の夕方。私は人気のない公園のベンチに、ぽつんと一人で座っていた。冷え切った両膝を抱え、俯いたまま、ただ自分の汚れた足元を見つめる。
「……どうしよう」
かすれた小さな声が漏れる。
けれど当然、応えてくれる人など世界に誰もいない。
ヒュウと冷たい風が吹き、砂埃が私の足元を虚しく通り過ぎていく――そのとき。
ピカピカに磨かれた、高級そうな黒い革靴が、私の視界に音もなく滑り込んできた。
「君が、宝来愛莉君だね」と、突然、頭上から降ってきた大人の男の声。
私は弾かれたように顔を跳ね上げ、その人物を恐る恐る見上げる。
逆光の中に立っていたのは、隙のない黒いスーツに身を包んだ一人の男。
綺麗に整えられた髪に、こちらをじっと見下ろす、一切の感情が読めないガラスのような瞳。
愛莉は警戒しながら、男をじっと見つめる。
「……だれ?」
「……君が知らなくとも、私は君のことをよく知っている。もちろん、君を捨てて逃げた両親のこともね」
男はピクリとも表情を変えず、低く抑えられた声で淡々と告げた。
「君に、少し話がある。着いてきなさい」
拒絶を許さない絶対的な大人の命令。男はそれだけ言い残すと、愛莉が頷くのを待つこともなく、すっと背を向けて歩き出す。
(……この人に着いていったら、どうなるんだろう)
恐ろしさはあったけど、このまま一人で夜を迎える恐怖に比べたら、マシな気がしたのだ。
そうして、ふらつく足取りで、目の前の黒い背中を追うように歩き出す愛莉――。
◇
男に連れられて向かった先は、街の中心にそびえ立つ、見上げるような高層ビル。
自動ドアをくぐり、無機質なエレベーターへと乗せられる。凄まじい速度で上昇していく感覚に、耳の奥がツンと痛んだ。
今が何階なのかすら分からないほど、私たちはただ高く、高い場所へと上がっていく。
――開いた扉の向こうにあったのは、夕暮れの街を一望できる、ガランと広い一室。
壁一面の大きな窓からは、沈みゆく太陽の橙色の光が斜めに差し込み、部屋の床に二人の影を長く、不気味に伸ばしている。
「ここに座りなさい」
男が豪奢な椅子を指し示す。愛莉は緊張で身体を強張らせたまま、言われるがままに、ちょこんと椅子へ腰を下ろした。
「君の両親について、少し話をしようか」
「……お父さんと、お母さん、のこと……?」
愛莉が縋るような目を向けると、男は感情の籠もらない手つきで、パラリと手元の書類をめくった。
「ああ。そうだ」と言って、男は冷徹な視線をその紙面へと落とす。
「君の両親は、あまりにも巨大な借金を抱えていた。いくつかの大手の金融機関から借りていたものもあるが、問題はそれだけではない。裏の、決して表には出せない組織からも多額の融資を受けていてね。すでに返済の期限はとうに過ぎている」
裏社会の不穏な影を感じさせる言葉に、愛莉は心臓が引き絞られるような恐怖を覚えた。
「全部で……いくら、なの……?」
「君が知ったところで、どうにもならない。……いや」
「君という人間の『価値』をすべて合わせても、到底どうにもできない額だ、と言えば伝わるかい?」
愛莉は膝の上で、泥のついた小さな両手をぎゅっと握りしめた。
指先が真っ白になるほど力を込めても、身体の奥から湧き上がる震えは止まらない。
(じゃあ……私、これからどうなっちゃうの……?)
「……君の両親は、返済の見込みがなくなった。そして――その重すぎる責任から完全に逃げるために、君をあの場所に置いていったんだよ」
男の口から紡がれたのは、あまりにも容赦のない現実。
愛莉の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「……お父さんと、お母さんが? ……私を?」
「そうだ。途方もない額の借金だけを残して、君だけを置いていったんだ」
――あぁ、そうだったんだ……。
両親が私を一人にして置いていった理由。何日待っても、あの家に帰って来なかった理由。
ばらばらだったパズルのピースが、最悪な形でひとつに繋がっていく。
頭の芯が急激に冷え切っていき、目の前の景色がぐにゃりと歪むような錯覚を覚えた。
「……じゃあ、私……これから、どうすればいいの……?」
縋れるものは、目の前の冷徹な男しかいなかった。
ぽろぽろと目から零れ落ちる涙を拭う気力すらなく、私は消え入るような声で問いかける。
「……それについては、君に一つ提案がある」
パタン、と男は机の上の書類を静かに閉じ、その乾いた音が、静まり返った広い一室にやけに大きく響く。
「君がこれからどう生きるか。――それを決めるのは、他でもない君自身だがね」
――男は無言のまま、机の引き出しから一枚の新しい紙を取り出す。
愛莉の不思議そうな視線が集まる中、男はその紙を、無機質なデスクの天板の上へと滑らせる。
スゥ……と静かな音を立てて、紙が愛莉の目の前でぴたりと止まった。
そこには、几帳面なフォントで何十人もの人間の名前がずらりと並んでいたのだ。
「……これは?」
「君に、仕事をしてもらう」
「仕事……ですか?」
「ああ。ここに書かれている人間を、君が一人ずつ――すべて始末するんだ」
淡々と、まるで明日の予定でも伝えるかのような気軽さで、男は「殺人」を命じる。
「……え?」
「仕事」の恐ろしい正体を突きつけられた瞬間、愛莉は弾かれたように椅子から立ち上がった。
「そんなこと、できるわけないでしょ……! 人を、人を殺すなんて……いくらなんでも、そんなの……っ!」
激しく取り乱し、小さな肩を上下させて叫ぶ愛莉。
「そう言うと思ったよ。拒絶するなら無理にとは言わない。――なら、今すぐそこから帰ればいいさ」
「――」
男は何も答えなかった。ただ、静かに目を細め、静寂だけを部屋に満たしていく。
立ち尽くす愛莉の脳裏に、冷酷な現実が容赦なく突きつけられる。
――帰る家は、もうない。
――頼れる親も、どこにもいない。
――そして……私には、あの両親が残していった膨大な借金がある。
(そうだった……私には、もう……)
絶望に押し潰され、愛莉の思考が完全に停止しかけたその瞬間。
男はすべてを見透かしたようなタイミングで、静かに、しかし抗えない誘惑のように言葉を重ねて、
「だが、君がこの仕事を引き受けるというのなら――話は別だ。リストの人間を一人始末するごとに、君には相応の報酬を支払おう」
そう言いながら、机の上にパサリと別の新しい書類を並べて置いた。
「それだけではない。君のあの両親が残していったすべての借金。それも、君が仕事を完遂していく度に、こちらで綺麗に処理してやると約束しよう」
「……全部、ですか?」
「そうだ。君がこの仕事を続ける限り、借金取りに怯える必要はなくなる。毎日の食事にも困らない。雨風を凌げる安全な住処も、すべて私が用意しよう」
男は愛莉の瞳の奥をじっと見つめたまま、逃げ道を塞ぐようにさらに甘い言葉をたたみ掛けていく。
「普通に学校へ通うことだってできる。周りの子供たちと同じような、普通の生活を送れる。欲しいものがあれば、何だって買い与えてあげよう」
ひとつずつ、愛莉の傷だらけの心へと深く突き刺さっていく。
(普通の、生活……)
あの日両親が借金を作ってから、ずっと我が家から失われていたもの。
幼い彼女が、夜に布団の中で涙を流しながら、ずっと、ずっと欲しかったものだ。
温かい家。
安心して眠れる場所。
明日の食事の心配をしなくていい、当たり前の生活。
そして――自分を置いていかない、誰かに必要とされること。
「……本当に……?」
愛莉は縋り付くように小さく、掠れた声で尋ねた。
男は満足そうに薄く微笑み、深く頷く。
「ああ、約束しよう」
――愛莉は再び、机の上の白いリストへと視線を落とす。
この紙に書かれた人たちにも、もしかしたら自分と同じように家族がいるのかもしれない。帰りを待つ、大切な人がいるのかもしれない。
その人たちの命を、自分の手で奪う。
それでも――。
今の愛莉には、もうそれ以外の選択肢など残されていなかった。
いや……正確には、最初から選択肢など存在しないのに、あるように錯覚させられていただけなのだ。
愛莉はぎゅっと目をつむり、今にも消え入りそうな、震える声でその境界線を――越えてしまった。
「……分かった。私……やる、やります」と、最悪の決断を下した少女の答えを聞き、、男は満足そうに口元を歪めた。
「まだこんなに幼いというのに……実に、賢い子だ……」
その日の後――。
その日の後――。宝来愛莉という一人の少女は、二度と戻れない普通の人生から、完全に足を踏み外した。
まだ小学生だというのにも関わらず、指定された決まった日に、男に命じられるがままの殺人を冷徹にこなす。そして、その対価として報酬を貰う。
彼女の日常は、ただそれだけの淡々とした血塗られたループへと変わっていった。
その過酷な訓練と実戦の積み重ねの中で、彼女は男から『異能』という超常の力の存在を教えてもらうことになる。
そして目覚めた、自分の中に眠る圧倒的な才能。
彼女の小さな手のひらから、触れるものすべてを腐食させる禍々しい紫色の『毒の異能』が揺らめき立つ。
暗殺の道具として、これ以上ないほどに完成されていく少女。もはや誰も、彼女をかつての名前で呼ぶことはない。
無力だった『宝来愛莉』は死んだ。――後に、毒の暗殺者『アスピラ』が生まれてしまった。
――それから、数年の月日が流れた。
かつて誰もいない公園のベンチで、一人膝を抱えて俯いていた無力な少女の姿は、もう世界のどこにもない。
宝来愛莉
今や彼女をその名で呼ぶ者はなく、裏社会は彼女を別の忌名で呼ぶ。
『アスピラ』
高層ビルの一室で、彼女は一枚の薄い資料を手に、窓の外の景色を冷ややかに眺めていた。
【調査対象:五葉】
・異能者
・白髪、年齢は十二歳前後
・その他、詳細不明
アスピラは指先で資料へ一通り目を通すと、パサリと静かにそれを閉じた。
「……五葉、ね」
今回の任務は、即座の抹殺ではない。まずは対象の確実な身辺情報の確保だ。
どのような異能を有しているのか、普段はどこを拠点に生活しているのか、周囲にどんな人間が関わっているのか。
そして――あの少女が、一体何者なのか。
それらのすべてを調べ上げ、組織の「上」へと報告する。
◇
――ゴーッ、と凄まじい風圧を残して新幹線が走り去る。
アスピラはホームに降り立ち、そのまま夜の帳が下りつつある京都の街へと足を踏み入れた。
観光客たちが楽しげに行き交う、歴史情緒溢れる賑やかな街並み。その華やかな雑踏の中を歩きながら、アスピラは一切の感情を排した瞳で、周囲を静かに見渡す。
「……さて。早く見つけないとね」
手元の資料に記された、白髪の少女の名前をもう一度だけ頭の中で反芻する。
ターゲット――『五葉』。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
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