34話 あるはずのない世界
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狐の神様「みた」に興味を持たれた榮は、蒼真と五葉が去った後、現実にあるはずのない世界に入り――。
みたは三人の顔を順番に見渡した。
やがて、空を見上げる。
朱色に染まっていた空は、いつの間にか群青色へと変わり始めていた。
境内にも夕闇がゆっくりと降りてきている。
「……ふむ。」
小さく頷くと、みたは袖の中へ手を入れた。
「今日はもう遅い。」
「そろそろ帰るがよい。」
穏やかな口調だった。
榮は「あ、はい」と返事をしようとした、その時。
蒼真と五葉へ視線を向ける。
「蒼真。」
「それとそこのおなご。」
「おぬしたちは、じゃ。」
「今日はここまでにするのじゃ。」
その言い方に、榮は一瞬だけ違和感を覚えた。
――おぬしたちは?
五葉も同じことに気付いたらしく、小さく首を傾げる。
「……私たちだけ?」
蒼真はみたの意図を察したように、小さく笑って言う。
「なるほど。」
「そういうことですか。」
みたは悪戯っぽく笑った。
「うむ。」
「察しがよいの。」
榮だけは話についていけず、二人を見比べる。
「えっと……?」
「榮。」
「みた様は、君にまだ話があるみたいだ。」
「え?」
思わず自分を指差す。
「俺ですか?」
みたは当然と言わんばかりに頷く。
「そうじゃ。」
「少しだけ、お前さんと話してみたい。」
榮は困惑する。
「でも……。」
「俺だけ?」
「うむ。」
みたは狐耳をぴくりと揺らしながら微笑む。
「ほんの少しじゃ。」
「心配はいらぬ。」
五葉は榮の方を見る。
どこか気掛かりそうな表情だ。
「榮、大丈夫?」
榮自身も状況を飲み込めていない。
それでも、みたの視線には敵意は感じられなかった。
「……たぶん。」
そう答えると、蒼真が五葉の肩を軽く叩く。
「行こう。」
「みた様がこう言う時は、何か理由がある。」
五葉は少し迷ったものの、小さく頷いた。
「……分かった。」
二人は鳥居の方へ歩き始める。
去り際、みたは何気なく手を振った。
「ではの。」
「また会おうぞ。」
蒼真は軽く一礼し、五葉とともに鳥居の奥へ姿を消していく。
足音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。
――境内には再び静寂が訪れる。
狐の石像に囲まれたその場所には、榮とみただけが残されていた。
みたは榮へ向き直ると、先ほどまでの柔らかな笑みを浮かべたまま、榮を見つめる。
「……さて。」
「ようやく、二人きりになれたの。」
風が木々を揺らし、狐の石像を静かになでていく。
榮は少し緊張した面持ちで、みたを見た。
「……それで、話って。」
みたはすぐには答えない。
代わりに、くるりと踵を返し、狐の石像の奥へと歩いていく。
「ついてまいれ。」
榮は黙ってその背中を追った。
――石畳を少し進むと、一本の大きな御神木が姿を現す。
何百年もこの地に立ち続けているのだろう。
太い幹は何人がかりでも抱えきれないほど大きく、夕暮れの中で静かな存在感を放っていた。
みたは御神木の前で足を止める。
「少しだけ待っておれ。」
「……?」
榮が首を傾げる中、みたは静かに右手を持ち上げた。
そして、人差し指の先をそっと幹へ触れさせる。
何か呪文を唱えるわけでもなく、大きな動作もない。
大きな動作もない。
ただ、静かに触れているだけ。
数秒。
辺りには風の音だけが流れる。
すると――。
「……!」
御神木が、淡い黄金色の光を放ち始めた。
最初は幹の奥で小さく灯る程度だった光が、みるみるうちに木全体へ広がっていく。
まるで木そのものが生命を宿したように、神々しい輝きが周囲を包み込んだ。
「なっ……!」
榮は思わず息をのむ。
こんな光景は見たことがない。
光はやがて幹の中央へ集まり、ゆっくりと空間を歪ませていく。
水面に石を落としたような波紋が空中へ広がる。
その先には――。
「……道?」
そこには、本来あるはずのない景色が広がっていた。
みたは振り返り、優しく微笑む。
「驚くのも無理はない。」
「じゃが、ここではそれが当たり前じゃ。」
そう言うと、何の迷いもなく光の中へ足を踏み入れる。
「こい。」
榮は少しだけためらった。
だが、ここまで来て引き返す理由はない。
覚悟を決め、小さく息を吸う。
「……失礼します。」
身体がふわりと浮くような、不思議な感覚が全身を包む。
次の瞬間。
榮の視界は、一変していた。
「……え。」
思わず声が漏れる。
そこは、伏見稲荷の境内ではなかった。
空は夕焼けに染まり、穏やかな風が吹き抜ける。
目の前には、昔ながらの日本家屋が静かに佇んでいた。
黒い瓦屋根に、縁側のある木造の家。
家の前には手入れの行き届いた日本庭園が広がっている。
苔むした飛び石。
澄んだ水をたたえた小さな池。
ししおどしは静かに音を立て、季節の草花が庭に彩りを添えている。
この空間には外の世界とは切り離されたような静寂と安らぎが満ちていた。
榮は呆然と立ち尽くす。
「こんな場所……。」
「あるわけ……。」
みたは縁側へ歩きながら、
「ない。」
「少なくとも、普通の神社にはの。」
狐耳が風に揺れる。
みたは榮を振り返り、どこか誇らしげに微笑んだ。
「ようこそ。」
「わらわの住処へ。」




